野生の風色-59

欠け落ちた光景

 本気でやばいかもしれない。僕は自分が怖くて、泣きそうで、その日も制服のまま希摘の家に駆けこんだ。
 食事を取っている希摘に合わせ、僕は月城家のリビングで愚痴を並べたてた。希摘のミートソースパスタは、トマトの香りと白い湯気がおいしそうだったが、僕は食欲より変調をきたす自分の精神だった。
 クーラーはかかっていなくても、リビングは居心地よく、外ではかたむいた陽に蒼い影が落ちかけている。僕が泊まった日に借りたラグランシャツを着る希摘は、僕の羅列をずずずとパスタを食べつつ、黙って聞いていた。
「人殺しはしないほうがいいと思うよ」
 ひと通り吐いて僕が息をつぐと、希摘はようやく言葉を発した。僕は隣の希摘を見、「うん」と木目を映すテーブルに目を落とす。
「そしたら、悠芽は少年院行きで、遥くんの追放作戦が大成功じゃん」
 希摘を向いた。希摘は水滴の浮かぶグラスを取り、アイスティーに口をつける。そして、「しぶ」と眉を寄せている。
「ボトルはダメだな。やっぱ紅茶は自分で淹れないと」
「……僕も、自分でぞっとしたよ。別に、好きで壊したくなったんじゃないし」
「やばいね。でも、君みたいな普通でおとなしいのこそ、切れる十代とか言うよな」
「そうなのかなあ。けど、僕は嫌だよ。殺したくない。切れる人って、やりたくて殺すんでしょ?」
「どうでしょうねえ」
「どうやったら治るの?」
「おうちが快適になったらじゃないの」
「そうなんだよね」と僕は頬杖をつき、希摘は銀のフォークをくるくるさせて、パスタを巻き取る。
「もうやだ。家にいたくない。帰りたくない。あんなとこにいたって楽しくない」
「遥くんはどう?」
「落ち着いてきてるよ。親が完全になびいたし。僕が前の遥の立場になったみたい。やっぱりあいつ、僕に体験させて思い知らせようとしてんのかな」
 授業中みたいなだるい頬杖に沈む僕に、希摘は視線を思案に投げやる。
「俺も、遥くんには、傷のためにある程度の甘えが許される部分はあると思うよ。甘えに限度があるのもね」
「……うん」
「ちょっと行き過ぎてるよね。悠芽が嫌いなら、傷なんか利用せずに、突っかかってきたらいいじゃん。だったら、そんないらつかないだろ」
「……うん。いや、多少はいらついても、こんな陰気ではなかったと思う。今の遥は、自分が可哀想なのを使ってるのがやだ」
「うむ。んなことやって、結局腐るのは自分なのにねえ。精神の生死をかけてまで悠芽が憎いんでしょうか」
「そうだろうね」
「変な奴だよなあ。好き嫌いはそれぞれなんで、悠芽が嫌いなのもありだけど、そこまで憎む相手は悠芽じゃないだろうにな」
 希摘はパスタを口に運び、僕は窓の向こうが夕暮れもなく薄暗くなっていくのを眺める。
 確かに、遥に嫌われるのもありだ。しかし、遥の僕への感情は、「嫌い」を上回って「憎い」に達している。憎悪にはそれなりの理由があるはずだ。その理由が、納得できるものもあれば、不可解なものもあるのも事実だが、そもそも遥が、渾身で僕を憎む理由が分からない。
 希摘はもぐもぐとパスタを飲みこみ、「でも、嬉しいな」とアイスティーをすすった。
「えっ」
「悠芽がこうやって、俺を頼ってくれるの」
「そ、そお。鬱陶しくない?」
「ぜんぜん。俺、今まで悠芽に何もできなかったじゃん。学校も行けないし、一緒に出かけたりもできないし。来てもらうばっかでさ。役に立ててるなら、不謹慎だけど嬉しい」
 僕は希摘の横顔を見つめた。「ごめん」と希摘はばつが悪く咲い、僕は首を振ると、あったかくなった気持ちに微笑むことができた。
 希摘が昼食を食べ終わると、僕たちは二階に上がった。むっとした空気もなくなり、希摘の部屋も常温を保っている。明かりに浮かんだ室内では、つくえは片づき、ゲームが散らかっていた。こないだ乾していた絵はできあがったのだそうだ。「どんなの?」とかばんをおろすと、「これ」と希摘は僕をつくえのそばに招いた。
 スケッチブックでなく画用紙だ。希摘はそれを手に取ると、「また妙な絵だけど」と自信なさげに差し出し、僕は丁重に受け取った。
 ぱっと見て、一瞬、どう思えばいいのか分からなかった。白と黒のモノトーンで描がかれた、微笑する男の人の顔だった。たった二色の絵の具で精密に陰影がつけられ、画用紙から浮かびがるようだ。そして、僕の感想を刹那窒息させたのは、そのモノトーンの上に描がかれる、真っ赤な色彩だった。
 上下のまぶたに鋭い三角、口の周りに頬へと大きく裂ける三日月が入った、ピエロの化粧だ。当たり障りのない地味な微笑の上に、毒々しい血のような道化師の化粧。
 僕は希摘を見た。
「何か、……痛くなる絵だね」
「うん」
「テーマは」
「仮面かぶった末路」
「仮面? どっちが」
「どっちでしょう」
「………、咲ってる、ほうかな。で、心の中にはピエロみたいな怖いのがあって、最後は食いつぶされる」
「そっか」と希摘は咲って画用紙を取り、その絵を見つめる。
「どっちが仮面と取るかは、観る人の自由だよ。ピエロみたいな明るさを仮面にして、本心で咲うことは色褪せたのかもしれない」
「あ、そっか」
「陰影が手こずってさ。水加減とか微妙だった。むずかしくて、描きあげられるか心配だったけど」
 希摘は絵をつくえに置き、重石として色鉛筆のケースを乗せた。
 解釈は自由。不意打ちに心理テストをさせられたみたいだった。当たり障りなくいることで、心に怖いものが育つ──自分がそういう状況なのだろうか。
 家庭にいると、ずいぶん無理をするようにはなった。それによって、怖いものが内部にうごめきはじめている。今の僕はこんな感じなのかな、とその絵を見つめていると、「そんな見つめないの」と照れた希摘に、やりかけのゲームへと引っ張られた。
 家は重たく、学校でもしかられ、その日は希摘の部屋が名残惜しくて長居してしまった。「泊まる?」と希摘は気にしてくれたけど、先週も泊まったのに、今週も泊まれば親に詮索される。「詮索させて、全部話せばいいじゃん」と希摘は言っても、正直僕は、両親に予想通り拒否されたらとまだ怖いのだ。
 だるさをおしてかばんを取りながらそれを言うと、希摘は複雑そうに僕を見た。「未練がましいよね」と自嘲すると、「そういう気持ち捨ててないのってすごいよ」と希摘は僕の肩に手を置き、僕は十九時半過ぎに月城家をあとにした。
 濃紺の空には雲がかかり、緩い月光も散りばめられた星も遮断されている。水気の匂いをさせる風はひんやりと頬を撫で、雨降るのかなと僕は目を細めた。気重な空にいっそう気分は低迷し、希摘んとこに泊まればよかったかな、と早くも後悔が芽生える。
 希摘のそばを離れると、あの黒いさざめきが胸を犯してきた。心に虫がたかっているようにうるさい。気持ち悪くて、自分の心をはらいのけたいような嫌悪感がくすぶる。夕食時の疎外感、両親へのもどかしさ、遥へのいらだち──そんなものがちらちらと心や頭をかすめ、街燈頼りの道をとぼとぼ歩く足を鈍重にする。
 こんな、耐えがたい闇は初めてだ。心の痛みとは、痛みでなく、吐き気なのだろうか。痛いかと訊かれても、分からない。ただ、たまらなく気分が悪い。この場に立っているのがいたたまれない。ここにいるぐらいなら、消えてしまいたいような──
 自殺する人の気持ちってこんなんかな、とひとりで嗤っていると、空々しい明かりをもらす家に着いていた。
「ただいま……」
 今日も返事はなく、僕は音もなく息をつくと靴を脱いだ。とうさんの靴があり、帰ってるのかと廊下を見やる。白々しい自分の家の匂いに、夕食の匂いが混ざっている。僕は靴下をすらせて足音を消し、ドアのガラス張りでリビングを覗いてみた。
 誰もいなかった。ついている明かりに頬を照らし、僕は眉を寄せる。食事を取っているのでなければ、とうさんはいつもここにいるのだけど。まさか、寝たわけではないだろうし。
 僕は身を引き、ごはん食べてんのかなと思う。いや、僕が帰っていなくて、いらないと伝えていない限り、待っているはずだ。これまで、ずっとそうだった。十四年以上、そうだった。
 けれど僕は、自分と両親の信頼関係が怪しくなっているのも分かっている。今なら崩れてもおかしくない。僕は廊下を抜け、キッチンに出るドアをこっそり開けてダイニングを覗いた。
 案の定だった。両親と遥が食卓につき、さっさと夕食を取っていた。とうさんとかあさんの質問に、遥は声こそ出さなくても、うなずいたりかぶりを振ったりで答えている。食卓は、ひとつのまとまりある雰囲気をかたちづくり、僕の不在が欠落になっていることはなかった。
 僕の空席には、遥がいないときにはあった伏せられたお椀すらない。僕は狂暴な痛みに胸を穿たれ、すぐドアを閉めると陰った壁にもたれ、吐き出したい深い息を喉を塞いで肺で殺した。
 廊下と階段では音をひそめても、部屋に入った途端、かばんを床に放ってベッドにもぐりこんだ。希摘の家に泊まってこればよかった。とっさにそう後悔して、喉を絞め上げる喘ぎに胸が引き攣る。
 そうだ。お呼びでないなら、帰ってこなければよかった。僕に頼られて嬉しいと言ってくれる希摘の隣のほうが、僕の居場所だ。こんなところは、僕の家ではない。ここの息子は遥で、僕は邪魔者だ。あの雰囲気が物語っている。
 ここは、僕のくつろげる場所じゃない。嫌でも帰らされる監獄だ。窮屈に拷問される戦場だ。反射的に、大袈裟なぐらいの感情が飛び散り、僕はまくらを引き込むと嗚咽をもらす。
 もう嫌だ。それだけだ。僕は大して強くないし、不死身でもない。痛かった。心が傷ついている。裂け目から、ずきずきと吐き気があふれる。
 どうしてこんなあつかいをされなくてはならないのだろう。僕は、こんな孤独が当然である罪なんて、犯していない。もししていたとしたら、教えてくれればいいのに、一方的に切り捨てるなんてひどい。
 なぜ遥は、徹底的に僕を憎むのだろう。なぜ両親は、にぶく何も感じないのだろう。こうして忘れ去られて、疎外感を強要されるのが、一抹の疑いにも値しないのか。だとしたら、みんな嫌いだ。めちゃくちゃになって死ねばいい。消えてしまって、あんな鈍感で無神経な光景も粉々になればいい。
 単なるひとりぼっちがマシだ。外される家庭なんていらない。ないがしろされるなら、家なんて初めからないほうがいい。
 僕はこの家と波長が違う。違うようになってしまった。僕はとてもあの三人を理解したいと思えない。ここに帰ってくるのはうんざりだ。あの人たちは、僕と同じ人間じゃない。

第六十章へ

error: