野生の風色-60

沈黙の向こう

「じゃあ、行ってくるから」
 十月に入って数日が過ぎた、小雨が肌寒い日、僕は遥と並んで玄関のドアマットの上にいた。とうさんとかあさんは、身なりを整えて荷物を提げ、靴を履いている。
 みんなそれぞれ、重かったり愁えたり浮かなかったりの顔をしていた。僕だけそれを淡白に観察し、かあさんの言葉も聞かず、遥の匂いがこの家と違和感をなくしつつあることに気づく。
 二日前、この家に一枚のはがきが届いた。どうやってここの住所を調べ当てたのか、父方の祖父の死亡通知だった。とうさんと確執があったという、とうさんの父親だ。遥の祖父でもある。
 差出人は老人を収容する施設だった。昨日は土曜日で、とうさんとかあさんは行くかどうかに悩んでいた。そして、遥の父親も行けないのだし、けじめもつけたくて顔を出すことにしたらしい。昨日の夜からばたばたと用意し、今、ふたりはその施設に出かけようとしているのだった。
 帰ってくる予定は、三日後の水曜日の朝だ。息子として顔を出したら、すぐ帰ってくるのもむずかしいのだろうか。
 食事の作り置きは明日のぶんまでだ。その日以降は、デリバリーを取るように金を渡された。遥は他人と話せないだろうと、僕に。遥とふたりきりなんて悪夢だし、希摘んとこに泊まろうかな、と思っていたら、食事の番で捕まってしまったわけだ。
「戸締まりと火の元には気をつけてね」
 かあさんが言って、遥がうなずかないので、しょうがなく僕がうなずく。遥は両親をただ見つめている。
 彼にとっても、僕とふたりきりは悪夢だろう。実際にはデリバリーぐらい取れると思うし、金渡して希摘の家に泊まろうかな、と思わなくもない。
「できるだけ、電話も入れるから」
 留守電にしておくのが妥当では、と思っても、何も言わない。勝手にセットしておこう。
「ちゃんと仲良くな。悠芽も、希摘くんのところに遊ぶのはひかえてくれよ」
 遊んでなんかいない。と思っても、ここでも何も言わない。うなずいて、でも僕は、両親が出かければ希摘を訪ねると思う。遥だって、それを望むはずだ。
「遥くんもね。早く帰ってこれるようなら、帰ってくるわ」
 これには、さすがに遥がうなずく。「じゃあ」とふたりは荷物を持ち直して、とうさんがドアを開けた。
 雨に蒸した草の匂いが室内にすべりこみ、向こうの敷石に降りそそぐ仄暗い雨が見える。しとしとという心細い音は、僕の胸も陰らせた。
 両親が出ていってドアが閉ざされると、湿気が断たれて肌寒さが戻る。かちゃっという鍵をかける音は聞き届けず、僕はとっとと遥を向いた。
「どうする?」
 黒い長袖シャツにナイトブルーのジーンズの遥は、のっそりと僕を見下ろした。敵意も傲慢もない、虚ろな目だ。
「とうさんたち、ああ言ってたけど、別に言う通りにする気はないでしょ。ひとりがいいなら、そうしてもいいよ」
「……お前は、どこに行くんだ」
「友達んとこに泊まるよ。出前だって、どうせ取れるよね。そうしようか」
「電話が、かかってきたら」
「嘘ついておけば? それとも、遥がどっか行きたい?」
「……別に」
「じゃ、僕が友達のところに泊まるね。決まり」
「電話で、お前は友達のとこ行ったって、俺が言ったらどうするんだ」
 ダイニングにある金を遥に渡そうと、歩き出しかけた僕は、動作を止めて遥を振り向いた。雨音に紛れ、車のエンジンの音がする。薄暗い中で、遥の黒い目は僕を見つめていた。
「何言ってんの?」
「………、」
「親にしからせるってこと? それとも、僕にいてほしいってこと?」
「………」
「あー、ごめん。前者に決まってるね。分かった、いるよ。ただ、問題は起こさないで。僕は両親みたいに相手してやれないから。僕のやり方が最低なのは、遥が一番知ってるよね」
「怒ってるのか」
「お前といるのが怖いだけだよ」
 遥の目は、骸骨の眼孔のように空っぽだ。僕は口をつぐみ、鬱積が反映された嫌味っぽい口調を自省する。
 遥に悪いものが点火されるのも覚悟したが、遥は黙って、僕の脇をすりぬけていった。階段をのぼっていき、僕も取りこもうとしてんのか、と妙に哀愁を帯びた挙動に眉を寄せる。
 車の音が発進して、雨の音を裂いて遠ざかっていった。僕は玄関のドアを見やり、息をついた。何にせよ、三日間は疎外されずにすむわけだ。代わりに疎外と同じぐらい厳しく、遥と対峙しなくてはならないけど。
 僕には学校もあるし、顔を合わせるといっても夜だけだ。いや、夕食もばらばらだろうし、わりと顔も合わせずに済むかもしれない。そんなに気張る必要もないか、と気を楽にすると、僕も二階に上がって、希摘の家を訪ねる用意にかかった。
 留守電を仕掛けると、遥には何も言わずに家を出た。雨なので自転車はやめて、水色の傘をさして希摘の家に向かう。
 室内で気配だけ感じていると寒くても、雨に包まれると空気は生暖かい。昼下がり前だというのに、空一面に立ちこめる灰の雲に、あたりは蒼然としていた。虫も鳥もなく、力ない雨音が鼓膜をひかえめにはじく。雨の匂いって雨になると思い出すよな、と僕はリュックを胸に抱えこみ、到着した希摘の家のドアフォンを鳴らした。
 今日はおなじみの愚痴の中、両親が三日間はいないのを朗報として伝えられた。「親がいないのをそんな嬉しそうに話すわけね」と希摘はあきれて、「仲間外れにされるよりはいいよ」と僕は返す。希摘は苦笑したものの、遥とふたりきりになるのは別件として心配してくれた。
 親が出かけた直後の遥の様子を僕が語ると、彼はまばたきをし、「悠芽に相手してほしいんじゃないの?」と言う。「まさか」と僕が即座に否定しても、希摘は考えこんでいた。
 今日は憂鬱な話に埋没しない余裕もあって、僕はゲームをしたり学校の愚痴をしゃべったりもした。
 学校のほうは、文化祭の用意一色だ。今度の日曜日が文化祭で、僕はその日は来れないだろうと前もって希摘に謝る。一年生の文化祭では登校拒否児だった希摘は、いまいちイメージが湧かないようだ。
 中学校の文化祭なので、出店などはない。クラスごとに作品を制作し、それを展示するだけだ。「そんなん必要なの?」と希摘は首をかたむけ、「みんなしたくないと思ってるよ」と僕はコントローラーを操作した。
 夕方になり、「何かあればいつ来てもいいよ」と言ってくれた希摘に見送られ、僕はいつもより軽い足取りで帰途についた。小雨は単調に続き、ぱらぱらと水色の傘を跳ねる。希摘に話して、文化祭を思い出した僕は、それで居残りして帰ってくるのも遅い日もあるかな、と遥と過ごす時間の削減に光を見たりした。
 帰りついた暗い家は、物音を響かせるより飲みこむように静まり返っていた。遥いるよな、と不安になって、濡れたスニーカーを脱ぐ足元を見ると、黒いスニーカーは隅でほこりをかぶっている。帰ってきて以来、遥は一歩も外に出ていない。
 僕は肩や髪の湿り気に触れ、雨の温もりが消えた身震いをしてドアマットに上がった。奇妙な静けさだ。雨音すら遠く、膜に覆われたように家の中が沈滞している。遥にまた何か来たのかな、と僕はひそみをし、リュックを肩にかけた。
 遥はここに戻ってきて以降、抑鬱にも暴発にもなっていない──と思う。帰ってきて以降のそれらは、両親をなびかせる演技だと思うからだ。
 だいたい、鬱はともかく、暴れるときは以前の遥には理由があった。帰ってきて以降は、理由がない。もしくは、こちらには容易に察せない理由になっている。ならば悪化のはずなのに、遥は改善されたようにあつかいやすくなっている。
 そんな矛盾も、僕に遥の精神を疑わせていた。
 この三日間で、遥が問題を起こす危険性は低い。遥は今、病気を利用に貶めている。この状況で病気を振るっても何の意味もない。観客の両親はいないし、僕を味方に引きこもうとするのは考えられない。遥は、僕を敵と見ているので両親を味方につけているのだ。
 もちろん、遥が「本当に」落ちたり暴れたりするときが来ないとは言い切れない。だが彼の傷は、利用できる厚顔なかさぶたをかぶった。だから、ほぼ来ないのではないかと思う。
 きっと、遥はおとなしくしている。そう思った。けれど──この沈黙には、何やら不穏が立ちのぼっている。
 僕は足音を殺して廊下を抜け、リビングのドアを開けた。雨と夕闇に室内は暗く、明かりをつけると、いつも通りのリビングだった。奥にテレビ、その隣のチェスト、テレビの前に転がるクッション──
 ただし、異様な臭いがただよっていた。香辛料や乳製品が混じった、相容れない妙な臭いだ。雨戸もカーテンも閉められていなくて、僕は肌寒いリビングに踏みこむと、窓に歩み寄った。何の臭いだろ、と渋面で見まわした僕は、ダイニングが目に入った途端、はっと息を飲んだ。
 食卓に整列していた二日ぶんの食事が、ごっそり、フローリングに薙ぎ落とされていた。カレー、魚、煮物、スープのかやくや食パン、皿の破片や鍋まで。無残なぐちゃぐちゃと化して、床につぶれている。
 テーブルには味噌汁が一面に広がり、汁はテーブルクロスに吸収され、豆腐やわかめという具が取り残されていた。その上に、にんじんやじゃがいもが入ったカレーが鍋から雪崩れ、強い臭いを立てて、床へ嘔吐したように垂れ流れている。
 バターっぽい臭いは魚のムニエルだろう。ひとつはテーブルの足元で折れてカレーにまみれ、ひとつは砕けてかぼちゃの煮物に紛れこんでいる。
 かやくは封を切られて、まきちらされ、食パンは引きちぎられ、皿はラップをはりつかせるまままっぷたつになって──
 置きっぱなしだった一万円札が、テーブルで味噌汁にすっかりふやけている。視覚がいっそう、嗅覚への刺激を捻じ曲げて口を酸っぱくし、真空の感情に何も聞こえなくなった。
 僕は熱で肩をふくらませるように息を吸いこむと、リュックはリビングの床に放って、二階に駆け上がった。

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