陽炎の柩-46

君のほうが

 実富、ひいては綾香一家に、飛季が実摘をかくまっているとばれたかと感じたのは、不安が発生させた錯覚だったのだろうか。
 相変わらず実摘は飛季の部屋にいたし、綾香夫妻が飛季に接触してくることもない。飛季をぐらつかせた実富も、何かを仕掛けてきたりはしない。あの瞳はあっても、飛季はそこにある真意を知らない。焦ったわりに、何もなかったというのが結論だった。
 考えすぎだったと安心できるには至っていない。飛季は綾香一家を案じている。実摘が退屈に壊れないよう、なるべく部屋の居心地もよくしてやっている。
 飛季が常に部屋にいれば、実摘は安泰でいられるのだけれど、まだむずかしい。飛季は綾香一家、とりわけ実富を案じて、ますます実摘のかたわらについてやれないのが心苦しくなった。
 飛季が隣にいないときに、もし実摘に何かあったら。そう考えると、飛季は実摘を置き去りにしているのが、恐ろしくてたまらなくなる。
 実富の勉強を見ながら、飛季は心に棲みついた実摘を思い返した。愁えた瞳、震える軆、すがりつく腕。飛季は酔いしれるより悔しくなる。守ってあげたいのに、うまくいかない。
 不意に、実富と瞳がぶつかった。彼女は、飛季にあの瞳をした。飛季は目をそらして拒否し、彼女を危懼する。
 実摘は、自分のそばにいさせる。この少女からは守る。この少女は、とめどなく実摘を殺してきた。
 実摘への愛情が深化するにつれ、実富への猜疑心は増殖している。
 そんな頃、その日の実摘は、にらを腹掛けにして床で死体化していた。まばたきもしない彼女を横目に、飛季はハヤシライスソースを煮こんでいる。彼女はさっきまでやもりになっていたのだが、ふいと離れて、ああして動かなくなった。
 機嫌を損ねている空気はないのでそっとしておき、トマトが芳しいハヤシライスソースの様子を見ている。とろみのついてきたそれをかき混ぜていると、背後で這いずりまわる音がした。
 振り返ると、実摘が蠕動して部屋を徘徊している。頭をベッドの下に突っ込んで、また動かなくなった彼女に、飛季は息をつく。
 ハヤシライスソースの出来は良さそうだ。飛季は火を止め、サラダを作る予定をあとまわしにする。
「実摘」
 飛季の声がかかると、実摘の軆はびくっと反応した。けれど、出てこない。
 歩み寄って、伸びている実摘の腰にまたがって、ベッドから引きずり出すと、実摘は抵抗しなかった。飛季は、股の下で実摘を仰向けにさせる。実摘は顔や髪がホコリまみれになって、きゅっと目をつむっていた。
 飛季は仕方なしに咲い、彼女についたホコリを指先ではらったりぬぐったりしてやる。実摘は目を開けた。微笑みかけると、実摘の表情はあやふやになる。
「どうかした?」
 抱き起こしてやると、実摘は弱く唸った。腰を浮かして実摘を股下から引き抜き、彼女のほうを飛季にまたがせる。ホコリの残っていた後頭部の髪を梳くと、「あのね」と実摘は怯えた声で、飛季の胸に鼻をこすりつける。
「飛季ね」
「うん」
「飛季、先生でしょ」
「え。うん、まあ」
「み、……実富、の、先生」
 実摘の声が極端にどもった。飛季は彼女を抱きしめる。
 実富。彼女がみずからこの名前を出すときは、精神の揺らぎを表す。
「先生、なの」
「うん」
「会ってる?」
「毎日ではないけど」
「………、そお」
「それが」
 実摘は、かぶりを振りながらうなずいた。どっち、と思っていると、実摘は口を開いて、喉でつぶした苦しげな声を出す。
 彼女の野獣じみた鳴き声は、感情の率直な反映だ。飛季は実摘の前髪をかきあげ、額をさすった。瞳を絡めると、実摘は飛季の腰に腰をぴったり当てる。
「僕、考えるの」
「うん」
「飛季、飛季はね、僕とね」
「うん」
「僕と実富、どっち、いいの?」
「は?」
 実摘は頭を痙攣させて、喉を剥いた。慌ててなだめて、質問がよく分からないと飛季は言った。実摘は眉を寄せて、首を左右に振りまわす。
 実摘と実富。そんなの──
「実摘だよ」
 実摘は目を見開いた。飛季は彼女を膝に抱え直す。
「実摘に決まってるよ。あっちは、ただの生徒だし」
「でも、実富に会ったでしょ。みんな実富がいいんだよ」
「俺には何でもないよ。周りはそうでも、俺は違う」
 実摘は、本気で飛季の心情が理解できない様子だ。彼女に伏在する実富の影が、実摘にも魅力があるという真実を認めさせないのだろうか。そう思うと、飛季は切なくなる。
「実摘がいるからだよ」
「えっ」
「実摘がいて、俺は向こうに興味がないんだ。俺は、綾香より実摘にずっと惹かれる」
 実摘はそわついた。素直に喜んでいいのか、自分の立場に怯えているようだ。
 飛季は彼女の頭を手のひらで包んでやった。実摘はおもはゆそうに目をつむる。
「『綾香』って、呼んでるの」
「ただの生徒だし」
「僕は、『実摘』だよ」
「実摘は実摘。生徒なんかとは違う」
「違うの」
「違うよ」
 実摘は嬉笑を噛みしめた。
「じゃあね、じゃあね、飛季に、僕、何?」
「え」
「飛季の僕。何。何。何」
「『何』って──」
 口にしてもいいのか。迷いそうになったが、きらきらしている実摘の瞳に、即座に躊躇は切り捨てた。彼女を落ちこませたくない。
「恋人だと思ってるよ」
 実摘は驚愕し、突如として叫んだ。「きゃーっ」という悲鳴だった。
 飛季がまごついているうちに、実摘は鳴きやみ、「恋人、恋人、飛季の恋人」と繰り返した。欣然とする彼女に、回答が誤りではなかったことにほっとする。
「あのね、飛季、僕ね、飛季の恋人になりたかったの。なれないと思ってたの。なれたよ。すごいの」
「え、何でなれないの」
「僕、子供」
「子供」
「飛季は大人だよ。大人は、子供は嫌でしょ」
 飛季は苦笑し、実摘の頭に頬を乗せた。実摘は飛季の腕で、嬉々と蠢動している。
「実摘」
「うん」
「俺は、実摘を子供だとは思ってないよ」
「え」
「俺のほうが子供だなって感じたりする。もちろん、実摘がやっぱり子供だなって思ったりもする。悪い意味じゃないよ。かわいいなって」
「かわいい」
「そう。でも、それはただ、俺と同じなんだろうなって」
「同じ」
「実摘は初めて、俺の中に入ってきた。別の軆なのに、心は別って感じがしない。つながるって感じじゃないんだ。溶けこむというか」
 実摘は緘唇していた。飛季は決まり悪くなった。大の男が少女に何を語っているのか。
 こういうときには、大人の自覚が生まれ、恥ずかしくなる。頬を染める飛季を、実摘は瞳孔につかまえた。
「僕たち、同じなの」
「え」
「僕もね、飛季と細胞が一緒なの。心とか命の細胞がね、飛季と同じ。だから、離れるとちぎれるんだよ。僕と飛季ね、気持ちの細胞がふたごなの。実富、は軆だけだもん。僕の気持ちがとくとくって動くのは、飛季の細胞なの」
 ふたりは見つめあい、照れ咲いした。自分たちのお互いへの想いは、言葉としてかたちにすると少々照れくさいようだ。
「実摘」
「ん」
「俺には、実摘と綾香は違うよ」
「へ」
「これは、憶えててほしいんだ。綾香は生徒だよ。はっきり言って、他人の子供。実摘は違う。俺の気持ちをすごくよくしてくれる。そんな人、いなかった」
「飛季……」
「綾香には、そんな力ないよ。実摘は特別。それは、俺ひとりが受け止めるものだし、俺以外の奴には実摘と綾香は同じなのかもしれない。けど、俺には絶対違う。綾香は実摘に追いつけない。俺をこんなふうにするのは、実摘だけなんだ」
「僕、しか」
 うなずいた飛季に、実摘はとまどった。「ダメかな」と飛季は口調を抑える。
「俺が言っても、何にもならない?」
 実摘は、激しくかぶりを振った。彼女の軆が飛季にぶつかる。
「飛季にそうだったら、僕、いいよ」
 服が湿った。飛季は、ばさばさになった実摘の髪を撫でつける。
「飛季が僕を分かってくれたら、ほかは全部バカでいいよ。僕が僕を分かってほしいの、飛季だけだもん」
 飛季は実摘を抱擁し、ついで口づけた。実摘も腕を飛季の背中にまわし、肩胛骨をつかんだ。
 彼女の舌と長く戯れていると、炊飯器のベルが鳴る。飛季は舌をほどく。実摘の睫毛は、しっとりしていた。飛季は一度、実摘を抱きしめると、軆を離す。
「飛季」
「サラダ作るの、手伝ってくれる?」
 実摘は笑顔になって、こくんとした。飛季は微笑すると立ち上がり、実摘の手を取る。彼女は飛季の手を握り締め、左腕ににらを抱えて立ち上がる。
 にっこりとする実摘に、飛季は彼女と実富がぜんぜん違うのを確認した。実富の笑顔は、どうやっても、こんなに飛季を無防備にはしない。実富は実摘に及べないのだ。
 飛季は実摘に咲い返し、彼女と共に、夕食の仕上げをしにキッチンに行った。

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