陽炎の柩-48

おぞましい手紙

 実摘の不安定な状態が続く中、実富はこの町でもうまくやっているようだった。
 飛季の前でも、自信に満ちた態度は崩れず、容姿にも成績にもボロは出ない。かえって、隙のなさが著しくなっていっていく。
 実富が集めているものは、憧れといったふわふわしたものではなく、崇拝という人の指針になるものだった。代議員や生徒会、そういう目立つ立場には立っていないらしい。彼女は、地位を得なくても周囲を先導できるようだった。
 そんな実富の学校生活をうかがえるのは、母親が娘の話をしてくるせいだった。実富は、あれこれ自分からしゃべったりしない。飛季が母親に聞いた話を投げかけると、実富はにこやかに答える。「自慢の娘さんなんだなって思うよ」と飛季が心にもなく言うと、実富は首をかたむけて微笑んだ。
「おかあさん、姉のことは何も言ってなかったんですか」
 飛季は実富を見た。そこには、あの瞳がある。不快な、見透かす瞳だ。
 実富のその瞳に、飛季は不穏を察知している。この腕で震えた実摘を想いながら、視線を外した。まだ横顔にある目をさえぎり、「……あんまり聞かないね」と勉強に戻る。
 弱々しい気持ちになる。別に自分は、実富が憎いのではないのかもしれない。飛季はただ、実摘を傷つけてほしくないのだ。そっとしておいてほしい。
 そうしてくれるのなら、実富などどうだっていい。癒えようとしている実摘を邪魔しないのであれば、飛季は、実富が実摘を傷つけた過去だって許したってよかった。
 ある日、帰宅すると、めずらしく実摘が突進して飛びついてきた。飛季は一瞬のんきに喜びそうになり、すぐに、にらにうずまる彼女がひどくおののいているのに気づく。
「実摘」
 実摘は飛季にすがりつく。がくがくする膝が飛季の脚に当たった。どうかしたのかと訊く前に、実摘の涙が飛季のワイシャツに染みを広げる。
 実摘の喉は野獣じみた唸り声を上げていた。彼女の精神に亀裂が入っている証拠だ。
 飛季は、後ろ手にドアを閉めた。
「実摘」と優しい声をかけた。唸り声が鎮まった。飛季は実摘の背中をいつもの手つきで撫でて、彼女の顔を仰がせて瞳を覗かせる。実摘は飛季の瞳を瞳に取りこむと、さらに涙目になる。
「飛季」
「ん」
「来るの」
「え」
「実富が来るの」
 飛季はとっさに理解できず、眉を寄せた。実摘は地団太を踏んだが、膝が震えていたので、がくんとへたりこみかける。飛季は慌てて彼女を抱きとめた。
「綾香──」
「来るの。実富がここに来たの」
「えっ」
「来るの。怖いよ。助けて」
「何で。綾香と会ったの?」
 実摘は飛季を離れ、ミニテーブルに走った。そこには紙が広げられていた。実摘はそれをつかみ、靴を脱いだ飛季に突き出すと再び抱きつく。飛季は実摘に腕をまわし、彼女の背中でくしゃくしゃになった紙を広げた。
 便箋だ。一瞥すると、座卓には封筒もある。飛季は便箋を伸ばした。視界に飛びこんだ文章に思わず息を飲む。
『肩の具合はどう?』
 無意識に、実摘の肩を見た。服が隠している、あの引き攣れた痕がよみがえった。実摘は、飛季の腕で息を止めている。
 便箋に目を戻した。文はそれきりだった。白い紙面に灰色の横線が引かれるそっけない便箋だ。
 並ぶ文字には、飛季は見憶えがあった。整った大人びた字だ。ノートやプリントにある字。実富の字だった。
 喉元が冷たくなっていった。つながった。とうとうつながってしまった。
 肩の具合はどう?
 実富は確か、実摘は春先に家出したと言っていた。家出のあとにしばらくふらついていたとすれば、飛季と実摘が出逢った時期も一致する。
 出逢った頃、実摘のこの傷口は生々しく、膿み終えてもいなかった。家出をしたあとにつけられた傷か、とも推測していたけれど、やはり家でつけられたのだ。
 この傷を受けた直後に、あるいは、この傷を受けたから、実摘は家出した。でなければ、実富が実摘のこの傷を知っているわけがない。
 実富は現場にいたのか。まさか、実富が実摘に刃物をかざしたのか。何のために。この傷は、はさみやカッターでつけられる裂け目ではない。普通に見れば、大きなナイフや包丁だ。そんなものを持ち出し、警察沙汰にはならなかったのか。
 この傷の真実も読めない。この肩につけたかったのか、軆のどこでもよかったか、実は心臓や喉だったか。いくら思索しても糸口はない。
 飛季の匂いや体温を吸収し、実摘の震駭は落ち着いてきた。飛季は彼女を抱き上げ、ベッドに連れていった。便箋はミニテーブルに放って、実摘を横たわらせる。
 実摘は飛季を見つめた。飛季は微笑み、左手では実摘の手を握り、右手では実摘の額を撫でる。実摘は細いまばたきをした。
「飛季」
「ん」
「ほんとはね、僕じゃないの」
「え」
「ほんとは──」
 実摘は口ごもり、そのままふとんにもぐってしまう。飛季の手はきつく握りしめてくる。
 飛季は、自分の骨張った手に包まれ、隠顕とする白く小さい手を見た。その手に、青白い印象がなくなった。内的にはかきみだされていても、実摘はこの部屋で外的な安定は得ている。飛季は実摘の手をおおった。
 実摘は呼吸を抑えこみ、眠っていないのを確認させる。
「実摘」
 こんもりしたふとんが微動した。
「その肩の傷、前に、実摘の存在だったって話してたけど」
 実摘の爪が、飛季の手の甲に食いこむ。
「俺が、代わりに実摘の存在になれないかな」
 爪が緩んだ。実摘の頭が、もごもごと出てきた。実摘の目尻の切れこむ瞳が、飛季に向けられた。飛季は見つめ返した。実摘は壁側にある右手をあげてきて、飛季の頭に置いた。
「……何?」
「なる」
「は?」
「飛季、僕の」
「あ、うん」
「実富は飛季を持ってない。僕は飛季を持ってる」
「うん」
「違う」
「うん」
「違う」「違う」とぶつぶつと繰り返した実摘は、納得すると、手を引いて睫毛も伏せた。飛季は制さなかった。この手紙を彼女がいつ受け取ったのか分からなくとも、実摘は一日ひとりで恐怖と戦っていた。休ませてあげたかった。
 実摘が眠ると、飛季はそっと手をほどいて立ち上がり、着替えをした。陽が落ちて冷えてきたので、暖房を入れる。
 実摘が身動きした。注意すると、彼女は背中に絡まったにらをたぐりよせ、抱きしめ、顔を埋めると安堵した様子で熟睡に戻る。起きていると飛季にかかりっきりで、ないがしろにされがちなにらも、彼女の大切な存在なのだ。
 飛季はキッチンに立ち、冷蔵庫にあったもので夕食をこしらえた。今日のメインは焼くだけの豆腐ハンバーグだ。夕食ができても、実摘は眠っていた。一緒に食べたかった飛季は、実摘が目覚めるまで待つことにする。
 仕事をしておこうと座卓にデイパックを引きずり、広げられた手紙を思い出す。実摘は、どうやってこの手紙を手にしたのだろう。郵便物は、一階の郵便受けに来る。飛季は便箋をたたみ、封筒を取り上げた。
『実摘へ』とだけある封筒の表には、切手がなかった。直接ここに持ってきて、ドアポストにでも入れたのか。何の気なしに裏返し、思わず顰蹙した。飛季の名前があるではないか。
 飛季は便箋を封筒にしまうと、何秒か迷い、破り捨てた。教科書やノートを取り出しつつ、この現実に憂鬱を覚える。手紙ではっきりしたのは、実摘がここにいるのを、実富が知っているということだ。
 どうしよう。飛季は何も弁解できない。綾香一家にここに押しかけられたら、おしまいだ。飛季は未成年者暴行か監禁あたりで犯罪者だ。これは実摘がいくら言い張ってくれても無意味だ。法律は成人と未成年者を認めない。
 実摘を失ってしまったら。監獄に入れられるのはどうだっていい。実摘と引き離されるのが嫌だ。この子を腕に抱けなくなれば、飛季の精神に亀裂が入るのは間違いない。飛季は実摘を包んでばかりではない。飛季だって、実摘に救われている。
 飛季は仕事をさしおき、ベッドサイドに近寄った。実摘は眠っている。飛季は彼女の手を包んだ。白い頬に落ちる長い睫毛の濃い影に、静かな視線をそそいだ。
 この子とここにいられなくなったら。自分は牢獄に、実摘は地獄に、引き裂かれてしまったら。
 実摘と飛季の関係がそうなるのは、絵空事ではない。飛季と実摘が時間を共にすると、お互いがどんなに救われるか。信じてくれる人など、ごく少ないだろう。
 飛季は、無力な実摘の指を指に絡め取った。実摘の体温は、じわりと飛季の指に伝う。
 この子がいれば、ほかはどうだっていい。代わりに、この子がいなくなれば自分は崩壊する。
 実摘は飛季の要だ。全てだ。引き金だ。飛季にだって、彼女は存在の証明だ。この子のいない、冷たく暗い地下室に身を潜める生活はたくさんだ。
 誰にも、この空間を邪魔されたくない。そう思っても、うまくいかない。飛季と実摘のつながりは、あまりに危うすぎる。ひた祈るしかできないのが、飛季は息苦しく悔しかった。
 その日以降、連日飛季の部屋のドアポストには、不吉な手紙が投函された。
 実摘はぎりぎりの恐怖の先に来た誘惑に勝てず、それを開けた。そして、悲鳴を上げたり痙攣を起こしたりして、飛季の帰宅を待っている。
 飛季が念入りに言い聞かせて、絶対に手紙を開けるなと吹きこんだ。怒ったような飛季に、実摘は激しく泣き出した。飛季は慌てて実摘を抱きしめ、「心配なんだ」とささやく。
「実摘は、それ以上痛くなる必要はないよ」
 物柔らかな飛季の言葉に、実摘は泣きやんだ。飛季は手紙を開けるのは実富の思う壺だと、実摘は彼女を拒否していいのだと教える。
「実摘を試してるんだ。俺への気持ちと、自分への畏怖。どっちが勝ってるかって」
「飛季が好き」
「うん。だったら、実摘は綾香に屈さなくていいんだ。自分の意志を持っていい」
「意志」
「そう。こんなのが来ても、見なくていい」
「………、でも、実富、怒るよ。あの日は何て書いてあった? って訊かれて、答えられなかったらね、」
「実摘は、ずっと俺とここにいるんじゃないの?」
「いるよっ」
「なら、そんな心配しなくていいよ」
 ふたりは見つめあった。飛季は、震えが収まってきた彼女の肩を抱いた。実摘は、飛季の軆で心を鎮静させる。彼女はこっくりとした。
 実摘が読まなくなっても、手紙は途絶えなかった。いつ、誰が投函しているのか、飛季には分からなかった。実富自身ではなさそうだ。実富が学校に行っているだろうあいだにそれは来るし、かえって休日だと来ない。
 ふと、飛季は思い出した。あの冷えこんだ夏休みのことだ。実摘はずっと、飛季どころか、にらも待つこの部屋に来なかった。やっと帰ってきたとき、彼女は喉や手首に痣をまとっていた。黄色い変色を経て、それはすでに、白皙に分散して肌になじんでいるが──
 実摘は監禁されていた。実摘は言っていた。奴隷の人に監禁されていたと。
 生唾を飲んだ。ばらばらだった実摘の言動が、実富を鍵につながっていく。あのとき実摘は、実富の崇拝者のような存在に監禁されていたのか?
 だとすれば、実富が実摘の居場所をここだと特定したのもうなずける。親をどう説得したかは分からないが、やってくるには急な転校にもなる。逃げる実摘の背中をあえて捕らえず、この部屋を知ったのかもしれない。
 実摘は、どうも偶発的に監禁場所を逃れられたようだった。もし監禁されつづけていれば、遅かれ早かれ、実摘は実富に引き渡されていたのかもしれない。飛季は実富と出遭いもせず、実摘を奪われていた。ぞっとした。
 けれど、奇妙なところもある。この土地に来た時点で、実摘がこの部屋にいると知っていたなら、なぜすぐに働きかけてこなかったのか。
 また、母親は本気で実摘の行き先を知らないようだった。実富は、実摘を見つけたことを親には語っていないのか。母親は、今回の引っ越しは夫の仕事の都合によるものだと言っていた。それが真実か建前かは分からなくも、少なくとも、母親は飛季の部屋にいることは知らない様子に見える。
 十二月に入ろうとしている夜、飛季と実摘は絡めあった肉体で愛情をむさぼっていた。事が終わると、実摘はこころよい疲労に眠りこんだ。
 飛季は起き上がり、実摘の軆を拭いて服を着せた。汗ばんだ全裸で寝るのは、風邪の元だ。飛季も後始末をして服を着ると、ベッドサイドに腰かけて息をついた。
 今日は明かりがつけっぱなしだった。飛季と実摘は、あまり暗闇では愛し合わない。実摘が、相手の顔が見えないと怖がったのだ。しかし、近頃は暗闇でまさぐりあうときもある。飛季の肌や匂いならば、実摘はすっかり感じ分けられるようになった。
 飛季は喉に渇きを覚え、明かりを消す前に何か飲むことにする。冷蔵庫にあるのは、ミネラルウォーターと実摘の飲み物であるグレープジュース、料理に使ったり実摘がカフェオレを作ったりするために買いはじめた牛乳だった。飛季はミネラルウォーターのペットボトルを取ると、ふたを開けて口をつける。
 足元のミニテーブルに放置されたチラシには、『実摘へ』と記された封筒が混じっている。飛季はそれを手にした。握りつぶそうとしても、実摘の目がないと、飛季はそれを開けて読んでしまう。
『忘れてないよね?
 あなたは私のもの。』
 ここ何日かの手紙の内容が思い返る。昨日の手紙は、かなり不愉快だった。
『私のそばにいないと、あなたはただの目障り。』
 飛季は、手紙を破って捨てた。ミネラルウォーターを冷蔵庫に戻すと、ベッドにもぐりこむ。
 リモコンで明かりを消して、実摘を抱いた。眠っていても、実摘は心地よさそうに飛季の胸にすりよる。ベッドの中はシーツの下の電気毛布と実摘の体温で温かかった。
 実摘の頭に顎を乗せ、飛季は実摘と実富について、答えのない思慮にふけった。

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