愛してるから
受験がいよいよ近づいてきて、三年生の子は不安定になってくる。そんな中、実富は相変わらず泰然と勉強を飲みこんでいる。もう教えられることは教えたと言いたくても、実富自身も彼女の両親も飛季を切らないのだから、どうにか対策プリントなどを捻り出すことになり、正直、実富を見るのは負担になっていた。
実富が書き取りをしているノートを一瞥する。あの字が並んでいる。
今朝も飛季は、実摘に何が来ても何もしないように言い聞かせた。本当は訊いてしまいたかった。実富とは、いったい過去に何があったのか。
飛季に凝視されて、実摘は不思議そうに首をかたむけた。飛季は笑みを作ると、「いってきます」と彼女を抱きしめた。「いってらっしゃい」というかぼそい声を背に、飛季は何とか出勤した。
やはり、実摘の傷をこじあけるのはダメだ。できない。
実富を盗み見る。彼女の狡猾なやり方は、飛季の癪に障る。実摘の心を蝕んでは、空っぽにもさせずに毒を詰めこむ。
何の権限があって、そこまで実摘の精神を束縛するのか。実摘の自由や意志や安息は、実富の影響下で許されていない。彼女の隣で実摘が生き延びられたのは、にらが与える一抹の安息があったおかげだ。
出逢った頃、実摘が不安定で分裂気味だった理由も解ける。彼女は、生まれて十四年後につかんだ自由にとまどい、何を考えてもよくなった脳を持て余し、自分の思考を模索していたのだ。
腕時計を覗くと、十九時が近づいていた。窓の向こうは暗くなり、重そうな雲が立ちこめている。気候はすっかり冬で、この部屋にも暖房がかかっている。早く帰りたい、と実摘を想っていたときだった。
「先生」
飛季ははっとして、実富に目を戻した。「終わりました」とノートをさしだされて、「あ、ああ」と我に返りながら受け取る。
「今日はこれで終わりですか?」
「そうだね。訊きたいことはある?」
「訊きたいこと」
「正直、もう教えることもないくらいだから」
実富はにっこりして、「先生は?」と小首をかしげた。
「え」
「先生は、私に訊きたいことはないですか?」
飛季は実富に目を向けようとして、こらえた。
「別に──」
「前、おかあさんが先生のこと変わってるって言ってましたけど」
「……話してたね」
「確かに、先生ってみんなと違う感じなんですよね」
「違う、って」
「みんなの私を見る目には、感情がないんです」
「感情」
「盲目的みたいな」
「みんな、君を尊敬してるんだよ」
実富は再び、にっこりとした。
「知ってます。そして、先生はそれを知ってるんでしょう」
「え」
「先生だけですよ。そんな冷めた目。みんなと違って目立つから、私、気づいてますよ」
「そんなつもりは、」
「言い訳はいりません。分かってるんです」
実富の瞳の中に、自分がいる。息が苦しくなった。この少女は人を包み、そして、圧死させる。
「当然ですよね。先生が私を憎むのも」
実富はあの瞳で嗤った。飛季は息が止まりそうになる。
「あの子は元気ですか」
どきっとする。いや、飛季が実摘をかくまっていると、彼女が知っているのは知っている。けれど──
「何のこと?」
実富は含み笑いをした。
「分かってるんでしょう」
「分からない」
突然、実富に思いがけない力で胸倉をつかまれた。飛季は引き寄せられるまま狼狽える。実富は、指先で器用にワイシャツのボタンをひとつ外し、飛季の首筋を剥いた。そこには、口づけの痕がある。
「あの子との、でしょう」
飛季は実富を見つめた。実富は手を離した。飛季は体勢を戻しながら、気まずく襟元を正す。実富は微笑した。
「先生は、私たちくらいの女の子が好きなんですか?」
飛季は実富をにらんだ。実富は怯まない。
「まあ、先生の趣味は、私には関係ありませんね。ただ、それをあの子に向けられるのは困るんです」
「………、実摘も俺が」
実富は、口辺に切れこみを入れるような笑みをした。
「あの子は何も愛せませんよ」
「君が勝手に決めつけてるんだ」
「先生に、あの子の何が分かるんですか」
口ごもった。実富はせせら笑う。
「手紙、たぶん見てるでしょうね。あの通りですよ」
「あの通り、って」
「あの子は私のものなんです」
「実摘は、」
「誰にも渡しません」
実富の瞳が厳しくなった。その威圧感に飛季が息を詰めると、実富は柔らかに微笑みなおす。
「今のうちに、楽しんでおいてくださいね。いずれ返してもらいます」
「実摘は君を嫌がってる」
「だから何ですか?」
ないがしろの言葉にかっとなった。怒鳴りかけて、耐えるために唇を噛んだ飛季に、実富はゆっくり嘲笑する。
「あの子は私のものなんです。私の一部です。他人の先生には、分かりませんよ。私たちがどんなにひとつだったか。私には、あの子がいないとダメなんです。あの子にもそうです」
飛季は実富を見た。
「私がいないと、あの子はいないんです」
目を剥いた。実富は物笑いをした。
あの子はいない──
「十九時、過ぎましたね。玄関まで送ります」
実富は立ち上がり、飛季を見下ろすと憫笑する。飛季はしばらく動けなかったが、のろのろと立ち上がって荷物をまとめる。実富は飛季に背を向け、凛とした仕草でドアを開けた。飛季はうつむきがちに、冷気がすべりこんでくる廊下に出る。
あの子はいない。実富が実摘を支配しているという、強い示唆だ。実摘の口癖だった。
“僕はいない”──
不安が真っ黒になった。返してもらう。その方法はいくらでもある。実摘を飛季の部屋から引き剥がすのは、本来正当な処置であり、不当なのはこちらのほうだ。実富が実摘を取り返すのは、可能どころか、当然の話なのだ。
胸がざわざわと冷たくなった。実摘のいない生活なんて考えられない。失いたくない。飛季の実摘への愛は絶望的だった。実摘を腕に抱きしめられる地位が穏健なら、ほかはどうだっていい。
綾香家をあとにして、オートバイのそばで、飛季はずいぶん放心していた。今、実摘があの部屋にいるかどうかも分からない。彼女との関係のもろさが生身に迫って、飛季は死ぬほど怖かった。
陽も落ちた中で帰宅すると、実摘は暗い部屋でベッドに横たわっていた。ふたつ折りにして腹がけにしたにらの上で手を組んで、ちょっと、死体に似ていた。部屋は暖房がきいて、冷えこんで硬くなっていた皮膚が解凍されていく。
飛季はデイパックや買い物したものを床に置き、上着を脱いだ。明かりをつける。実摘は動かない。腹式呼吸は見取れた。飛季はワイシャツは着替えず、ベッドサイドの床にひざまずく。
長い睫毛がおりている。声をかけると、実摘の眉間に皺がより、瞳が開かれた。
飛季は実摘の頬に手をすべらせる。視線がもつれた。
「ただいま」
微笑んだ飛季に、実摘も頬をほころばせた。
「おかえり」
起き上がろうとした彼女を、飛季は腰を上げて手伝う。実摘は飛季に抱きついた。
「飛季」
「うん」
「待ってたの」
「うん」
「いいこ」
飛季は咲って、実摘の頭を撫でる。実摘はにこにこして飛季にすりよった。
今日は、ひどい錯乱は起こらなかったようだ。こういう日もある。飛季はほっとして、ベッドサイドに座り直した。
実摘の軆を持ち上げて、膝の上に乗せてやる。実摘は飛季の腿をまたぐかたちになる。手探りでにらを取ってやると、実摘の肩にかぶせた。実摘はにらに手を置き、嬉々とした面持ちをする。
そういえば、飛季はやっと、このにらがなぜ“にら”という名前なのかを知った。実摘には確かめていないし、推測だけれど。
先日、実富の家で夕食に誘われ、メニューの中に“にらたま”があった。何だかこのにらのことを思い出し、実摘を想い、何となく実富を一瞥した。すると、実富は箸の先で神経質ににらとたまごを分解し、にらをよけていた。
飛季は、実摘とのやりとりを思い出した。実摘は飛季ににらの名前の由来を訊かれた際、食べれないのに自分は食べられる、と意味不明の発言をしていた。その光景に意味が解けて、なるほど、と理解した。
にらの手触りに歓喜しおわると、実摘は飛季にくっついた。飛季は、実摘の髪のあいだに指を通した。実摘は顔を上げて、笑みを浮かべる。飛季は微笑み返した。
「今日、飛季のこと考えてたよ」
「俺」
「うん。んっとね、飛季がこうしてくれたりね、一緒にいてくれたり、言ってくれた言葉、考えてたの」
「そっか」
「そしたら、どきどきしてぽかぽかするよ。しくしくが減るの」
飛季は、実摘の頭を包んで愛撫すると、彼女の顔を胸に伏せさせた。実摘の頬がワイシャツにこすれ、飛季は彼女の髪に唇をつける。その背中を撫でると、手のひらに温まったにらのパイル生地が伝わる。実摘と呼吸を合わせながら、飛季は目を細めた。
実摘はここにいてくれた。よかった。でも、明日は分からない。
実富は予告してきた。必ず何か仕掛けてくる。
実富は、実摘に無様なほど執着している。なぜだろう。あの少女が、人間の内面をどうこう気にするとは思えない。外面さえ気にしていなさそうだ。しかし、実摘に執着する理由があるとすれば──
やはり、顔か。同じ顔だ。だが、顔が同じで何だというのか。彼女は、自分に追いつくものは排斥するタイプに思える。
悔しかった。実富の指摘通りだ。飛季は、実摘と実富の内的な接点を見つけられない。ふたりが精神的に何にもつながっていない、と断言もできない。飛季は何にも分からない。
『あの子は私のものなんです』
実富の明言が憎らしかった。つい、実摘をきつく抱きしめる。すると実摘が鳴いて、慌てて力を抜いた。「ごめん」と言うと、実摘はかぶりを振った。
実摘の大きな瞳が飛季を映す。変わらないかたちの瞳なのに、実富に映ると息詰まり、実摘に映るとこころよい。
「実摘」
「んー」
「実摘って、さ」
「うん」
「誰の、もの」
「え」
「俺は、自分は実摘のものだと思ってるんだけど」
実摘は睫毛をぱちぱちとさせた。ついで嬉しそうに咲い、「僕も」と言った。
「僕も飛季のもの」
「ほんと」
「うん。だってね、飛季は初めて僕を実摘にしたもん。今まで、みんな僕はいないってしてたよ」
僕はいない。胸が痛んだ。
『あの子はいないんです』
実富の言葉がよぎる。そういえば、実富はあんなに実摘に執着しつつ、実摘は在るという印象は与えなかった。なぜだろうかと考え、不意に気がつく。
あの子。そう、実富は一度も、実摘を名前で呼ばなかった。
「飛季だけ、僕が見えるよ」
飛季は、実摘と見つめあった。実摘ははにかんだ。飛季は左腕で彼女の腰を支え、右手で彼女の頬やひたいをさすった。
「愛してるよ」と自然とつぶやいていた。実摘はきょとんとしたのち、頬を染めて同様の言葉を返した。飛季は実摘を抱く。
「ずっと一緒にいられる?」
「いるもん」
「よかった」
息を吐く飛季に、実摘は不思議そうな不安そうな表情になる。いつもはこんな会話は逆だ。
「どうして」
「ん」
「飛季、僕といられなくなるの」
「あ、いや」
「み、実富、と何かあったの」
実摘の瞳がじわりと濡れた。飛季は彼女に口づける。実摘は飛季に取りついた。
「実摘」
「一緒だもん」
「うん。でも──」
「飛季しか嫌」
「俺、も、怖くなるんだ。実摘と綾香のこと、何にも知らないよ」
実摘は緘唇した。飛季は口づける。実摘は受けるばかりになる。飛季は唇を離した。
「何があったのか話せって言ってるんじゃないんだ」
「ん……」
「ただ、怖くて。俺、どう動いたらいいのか分からないよ。どうやったら、実摘と一緒にいられるかって」
実摘はこちらを見、飛季の首に腕をまわす。
「飛季、僕といたい?」
「もちろん」
「じゃ、平気なの」
「え」
「僕も飛季といたいでしょ。僕たちが気持ち一緒だったら、ずっと一緒なの」
「実摘……」
「僕の中に、飛季がいるよ。僕が捨てなかったら、飛季が好きって気持ちは終わらないの。怖くなっても、嫌いにはならない」
「……うん」
「飛季がいないと、僕、絶対いつも怖いよ。それ、いいことなの」
「うん」
「飛季も怖いの。それね、僕が飛季にいるってことなの。僕たちがびくびくしてるの、悪くないよ。大切だよ」
飛季は笑みをこぼしてうなずくと、実敵を抱きしめた。実摘の照れ咲いが聞こえた。
飛季は彼女の首筋に顔を埋める。今日は実摘が賢い。そう、どんなに怖くなっても、その恐怖は愛情の裏返しだ。
「飛季」
「ん」
「僕がいないの、怖くなくならないでね」
「実摘こそ」
「僕は大丈夫だよ」
「俺も怖いよ」
ふたりは笑みを交わし、口づけあった。実摘の愛情を実感できるのが心地よかった。硬化していた飛季の心も柔らかくなる。
実摘は天才だ。拗ねて冷酷な飛季を、血の通ったただの男にしてしまう。
実摘は飛季と軆を離した。飛季は彼女を覗きこむ。「お腹空いちゃった」と実摘は甘えてくる。飛季は瞳をやわらげ、彼女をおろしてベッドを立ち上がった。
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