居場所へ
実力考査が過ぎ、すぐ中間考査が巡ってきた。受験生はこの頃からめまぐるしくなる。飛季が受け持つ生徒にも受験生がいるが、参加可能なら事務所に集ってもらい、模擬試験を受けてもらう。
部屋で模試の添削をやっていると、実摘が構ってほしがった。飛季の背中に乗って、肩に顎を置き、赤ペンが入った答案用紙にまばたきをしていた。飛季の肩を咬んだり耳を舐めたり、背中を降りると腹にもぐりこんできて、最後には飛季の左腕に抱えられて眠ってしまう。飛季は彼女の無邪気な寝顔を励みに、赤ペンを動かした。
本当は、きちんと実摘に構ってあげたい。実摘を片手間に構うのは飛季も楽しくない。彼女のことは、両手で抱きしめたかった。
模試の答案を返却すると、生徒ひとりずつに沿った学習に力を入れ、メンタルケアも重要になる。淡々と勉強を教える飛季は、こうして生徒との対話が必要になるのは苦痛だ。
特に、実富と顔を合わせて話しているときは、胃がきりきりしてたまらない。実富は飛季の目を見て話しながら、嫌な顔ひとつしない。それが飛季には拷問だった。
「俺の教え方で、引っかかっるところとかない?」
季節は、十月の下旬にさしかかろうとしている。夏が秋に変わろうと気候があがき、近頃は雷雨が多い。その日も雨がひどく、部屋には電気がついていた。実富は冬服である紺のセーラー服を着ている。いつもそうだ。実富は、私服でだらしなく飛季を迎えることはない。
飛季はふと、実摘がセーラー服を着たらどうかと考えた。想像がつかなかった。
「学校の先生より分かりやすいです」
響く雨声に紛れず、実富の口調は凛としている。
「……そっか。いや、もうすぐ中間があるけど、問題はないかなと」
「大丈夫です。先生は、私に問題を感じますか?」
「そういうわけじゃないけど。もともと、君は前の学校と進みが違うことも気にしてたから」
「こうして先生に見てもらって、その不安は解消してもらってますよ。ありがとうこざいます」
実富は言葉の組み立てがしっかりしている。そんなところも実摘と正反対だ。
「あ、気にかけてもらってるのにごめんなさい。先生のことは、心強いです。つまずいたときは、頼らせてくださいね」
この子は、本当に十四歳なのだろうか。そんな台詞をきびきび言う人間なんて、大人にもそういない。実摘とはまったく別の方向で、実富は超然としている。
「そういえば──」
沈黙になると豪雨に心をつぶされそうで、飛季はとりとめなく話をつなぐ。
「こないだ、君のおかあさんと少し話したよ」
「あ、聞きました。おかあさん、先生は変わってるって言ってましたよ」
「変わってる?」
「はい。私もそう思います。何となく。先生は、ほかの人たちと違うんです」
返答に困り、飛季はうやむやに咲った。実富の大きな瞳に、飛季がくっきり映っている。射しこむ雨雲の陰りは、なじまずにその白皙を強調している。居心地が悪くなり、飛季は視線を迷わせた。
「学校の先生は、いろいろ私に声をかけてくれます。先生は、あまり私とゆっくり話そうとしませんね」
「……はは。もっと生徒に寄り添えって、上にはしかられるよ」
「先生のことをしかる人がいるんですか?」
「まあ、うん──」
ちょっとまずい愚痴だな、と感じて、言い訳も兼ねて謝ろうとしたときだ。
空が発光した。軽く窓を振り向くと、近い雷が鳴った。実富も空へと視線をずらす。
飛季は実富を盗み見た。実摘にそっくりだ。鼻の高さも頬のふくらみも顎の線も、実摘と等しい。しかし、実摘を彷彿とはさせない。実富をどんなに脳に取りこんでも、実摘の制服すがたは描がけない。
実富も他者を寄りつけない空気をまとっているが、それは威光に触れることをおこがましく感じさせるものだ。実摘のいたいけな遊離した空気とは違う。
実摘と実富は、同じなのに違う。実物と模造のように、まったく同じで、まったく違う。実物と模造。もちろん、飛季にとっては“実物”は実摘だ。けれど、たぶん、大半の人間には実富が“実物”なのだ。
実摘の魅力は、激しく内的に捻じれていて、骨を折らないとすくえない深部に秘匿されている。飛季さえ、最初は実摘の狂人ぶりに困惑していた。
実富は雷を連れたひどい雨を眺めている。彼女を前にして実摘を想うと、飛季の胸はいっそう痛くなる。
おまけ、と実摘は言う。あの子は、この少女の備品にされていた。実摘の受けた潜在的な虐待とは、どういうものなのか。想像もつかなかったが、これなら辻褄も合う。存在もぐらつくだろう。実摘は実富の完璧さを確固とする、恰好の比較対象だった。悪い見本としてそばに置かれ、実富を際立たせる引き立て役にされていた。そのために生まれた、とされていた可能性すらある。
ものすごい存在否定だ。実摘の自尊心が寸裂になるのは当たり前だ。自殺しなかっただけ、実摘は強かったのかもしれない。実摘は、この少女の隣にどんな想いで立っていたのか。まったく同じ外面の、まったく違う内面をした、自分の片割れ──。
実富が飛季に向き直った。視線がぶつかった。微笑んだ彼女に、飛季はうまく咲い返せず、腕時計を見た。そろそろ十九時が近い。
「ええと、そろそろ」
「終わりますか」
「ああ。君に支障がないなら、よかったよ」
「そうですか」
「その調子で」
「はい」
「じゃあ、次は──」
「あの」
飛季は実富を見る。はっと心臓がすくんだ。
あの眼だった。飛季にだけ刺してくる、嘲りを孕んだ眼。
動けなくなった飛季に、実富は艶やかに笑んだ。
「私に訊きたいことって、それだけですか」
「……え、あ、まあ」
「本当に?」
「何かある?」
高まった緊張に、話を妙に転換させてしまう。実富はほのかに嗤笑した。
「私の顔について、本当に、何にも?」
飛季の顔面がこわばった。雨音が聞こえなくなって、直後、すさまじい雑音になった。
実富を凝視しそうになって、慌てて制する。何だ? まさか──
「……か、お」
「はい」
「別に──ないよ」
「私、ふたごの姉がいるんですよ」
すくんでいた心臓が、急速に動悸になる。
冗談だ。知られているはずがない。あの子はすでに、二ヶ月近く飛季の部屋に閉じこもっている。誰の目にも触れていない。誰も知らない。飛季がこの少女のふたごの姉を部屋にかくまっているなんて、誰にも知りようがない。
しつこく言い聞かせ、飛季は必死に平静を取り繕う。
「失踪したって」
「はい。あ、その話、憶えてたんですね」
「君のおかあさんも話してて。心配してたよ」
「そうなんですか。私も心配なんです。ちっとも姉っぽくない、頼りなげな人で──聞かれたら怒られますね」
実富は窃笑した。飛季は硬く咲った。
なぜ単なる家庭教師に、そんな話を持ち出すのか。広がる根拠のない推量に、飛季は息苦しくなる。
「今年の春先に、いきなりいなくなったんです。本当に、前の日もいつもと同じだったのに」
「家を出る人は、みんなそんなふうだって聞くよ」
「そうですね。私と同い年じゃないですか。働ける年でもありませんよね。きちんと食べてるんでしょうか」
「さあ」
「ふたごですし、私が一番分かってあげてたつもりなんです。それが」
飛季の頭に憶測が瞥然とした。実摘と実富はふたごだ。ふたごは超自然的なものでつながっているとよく聞く。もしふたりが──
頭から消した。さすがにバカげている。
「どこに行ったんでしょうね」
飛季は呼吸を抑え、「さあね」と無機質に答えた。実富は微笑すると、立ち上がった。飛季は彼女を仰ぐ。「見送ります」と言う彼女に、飛季は浅くうなずいた。
実富は背筋を伸ばしてドアに向かい、振り向くとにっこりした。見透かした色は、なかった。飛季はかろうじて咲い返し、丸椅子を立ち上がる。
家の中には雷雨の轟音が響いている。悪い動悸が収まらない中、飛季は綾香家をあとにした。
実摘に会いたかった。彼女を抱きしめたい。残像する実富の笑みに吐き気さえ覚えながら、飛季はヘルメットをかぶってオートバイにまたがった。
【第四十四章へ】