アスタリスク-1

Wish Kill【1】

 ろくな大人になれるはずはなかったのだ。ろくな大人に育てられなかったのだから。
 いや、育ててもらった記憶さえない。癇癪を起こす父と、泣きながら土下座する母。僕の両親は、いつもそうだった。
 少し歳の離れた小学生の姉が、空気を察すると、まだ三歳ぐらいの僕の手を引いて、団地に面した公園に連れていく。ブランコに座った僕は、夜桜を見上げた。
 僕の背中をゆっくり押してくれる姉が、すすり泣いているのが聞こえる。
 僕はブランコの鎖を握りしめ、帰ったら、また父はこう言うのだろうと思った。
「なあ、おとうさんはおかあさんが好きだから怒るんだ。ちゃんとしてほしいから注意してるだけで、おかあさんをイジメてるんじゃないんだよ」
 その向こうで、母は割れた皿や、床に薙ぎはらわれた食事を片づけている。僕がそれを手伝おうとすると、「手伝ったら、そいつのためにならんだろう!」と父が急に怒鳴る。僕はびくんとすくむ。
 姉が僕の手をつかんで、父に聞こえないよう母に「おかあさん、ごめん」とささやくと、僕を子供部屋に連れていく。ドアを閉めた姉は、ベッドにうつぶせに倒れこみ、「死ねばいいのに」とつぶやいた。
 僕は突っ立っていたけど、ゆっくりその場に座りこんで、その言葉で心がきしむのを感じた。
 死ねばいいのに。それは、僕や姉のほうではないか? 僕たちがいるから、おかあさんはおとうさんから逃げられない。自由にこの家を飛び出せない。
 僕たちが死ぬこと。それが、おかあさんにとって一番の幸せではないか?
 幼稚園に入って、僕はとにかく集団行動になじめなかった。次から次へと指示されたり、一気にふたつのことを言われたりすると、手が止まって混乱した。
 反応がとにかくにぶい。仲間に入れずにいるところに意地悪をされても、そのときは何も感じないのに、しばらく経ってから急激に泣き出したりわめき出したりする。みんなぎょっとして僕を見て、イジメてきた奴すら驚いて、先生が駆け寄ってきて「月芽つきめくん、どうしたの」と覗きこんでくる。
「僕の頭たたいた! あいつ! 足も踏みつけた!」
 わんわん泣きながら、さっき僕に意地悪をした奴を指さす。涙はどくどくとあふれていく。
「でも、先生見てたけど、高彦たかひこくんはお昼休みになってからは武憲たけのりくんと遊んでたよ?」
「お掃除の時間に僕をたたいたんだ! 何で僕がそんなことされなきゃいけないの!?」
 いつも僕は、何かされて即座に泣き出すわけじゃないから、確認のしようがない先生は困っていた。「見てた人いるかなあ?」とみんなに訊いたりしても、誰も僕のことなんて気にしていないし、見ていたとしても、言ったら自分がイジメられるから黙っている。
 先生も、僕が泣きわめき出したという理由だけで、指さされた奴を一方的にしかるわけにはいかない。「ねえ、月芽くん」と先生はとりあえず僕をなだめようとする。
「前にも言ったけど、嫌なことをされたら、そのときすぐに先生に教えてくれないかなあ? そうじゃないと、先生も分からないから」
 僕は先生を突き飛ばして、壁際に走って、壁に顔を伏せてまだ泣いた。泣きながら、それを演技のように感じはじめる僕が、外側から僕を眺める。
 もう泣かなくてもいいのに。先生を困らせてどうするんだろう。本当は、もう泣いているのが面倒になっている。でも、こんなふうに人を責めるのを抑えられない。誰かを悪者にするのがやめられない。憎くて、嫌いで、気持ち悪くて、あいつはひどい奴だとさんざん主張しないと、気が済まない。
 小学校に上がると、世界は多少シビアになる。時間差で泣き出すなんて、くすくす嗤われるだけなのだ。
 僕はクラスメイトの心ない言動に気分を害しても、自分を抑えるようになった。周りに合わせる努力もやった。そんな生徒は、別に僕ひとりでもない。ついていけない生徒は、ちらほら不登校になっていった。
 体育の時間や算数の時間、何より友達のいない休み時間、僕は不登校のクラスメイトが死ぬほどうらやましくなった。あいつは、今頃学校に来なくて、何やっているのだろう。僕がこんなに嫌な想いをする授業を、あいつは受けずに済んでいる。
 勉強しなくていい。手を挙げなくていい。テストしなくていい。体操しなくていい。嘘咲いしなくていい。
 いいな。いいなあ。僕も学校なんか来たくない。
 クラスメイトが、みんな嫌いだ。担任も嫌いだ。靴を履き替えるのも、廊下を歩くのも、席に着くのも、みんなみんなみんな嫌いだ。
 嫌悪感がふくれあがる。その息苦しさが嘔吐のようにびちゃっと破裂する。そんな恐怖がまた、びくびくと血走って腫れ上がる。
 ああ、気が狂う。頭がおかしくなる。学校なんて来ていたら、僕は線路に飛びこむか、線路に見知らぬ子供を突き飛ばす。
 僕はふとんをかぶった。死ぬかもしれない。殺すかもしれない。朝、セーラー服になった姉が起こしに来ても、僕は押し入れに隠れた。すぐ見つかって、引きずり出されるけど。
 体温計を摩擦で細工して、熱があると訴えた。それに、頭が痛い。お腹も痛い。吐き気もする。
「じゃあ、おねえちゃんも今日学校休むから、一緒に病院行こう」
 何で? 何でみんなそう言うの? 僕がこんなにつらいことを、なぜ信じてくれないの? 体調がよければ、どうしても学校に行かなきゃいけないの?
 何で、僕は病気になれないの。病気になりたい。何でもいいから学校に行きたくない。どうやったら僕の心を認めてくれる? 熱が出ないと、僕の心は踏みつけられるままなの?
 僕が死んだら?
 僕が殺したら?
 そうしたら、やっと僕がどれだけ切羽詰まっているか分かってくれるのだろうか。じゃあ僕、首にぎゅうぎゅうとガムテープを巻いて死のうか? 公園にいる子供たちに向かって、包丁を振りまわそうか?
 濁流のように心で叫んでも、言葉としてかたちになるほど舌がまわらない。
「ほら、服は着替えて。病院で何もないって言われたら、また明日からは学校に行くんだよ」
 姉は僕をパジャマから洋服に着替えさせると、手をつないで家から引きずり出した。
 父が出勤していくと、母はリビングでただ座っているだけになった。姉にも僕にも関心を持たず、ただじっとしている。死んだみたいに見える。
 姉は駅までの道のりにある内科に僕を連れていった。夏だった。すでに空気が太陽で焼け爛れて、息が苦しい。
 どこも悪くないですけどねえ。医者にはきっとそう言われて、姉はまた明日から僕を学校へと追い出す。
 生きているだけで、いたたまれない。そんな孤独感で、他人の後頭部にコンクリを投げるときみたいにわめき散らしそうだった。わめいて、走って、トラックにはじかれて。高く飛んで、地面にたたきつけられて、内臓をつぶすほどに轢き殺されたい。
 診察を待つあいだ、どこも病気ではないのに病院にいる違和感にめまいがして、白くなる頭の中を絞られて泣きそうになった。やがて、僕の番が来た。姉に付き添われて、問診されたり心音を聴かれたりした。
 医者は何かメモをしてから、「おねえちゃんだけ残ってくれるかなあ」と言った。どこも異常はなさそうだねえという言葉に怯えていた僕は、その言葉が予想外で、隣に立っている姉を見上げてしまった。姉も同じだったのか、頬が少しこわばらせている。
 でも、僕と目を合わせると、「少しだけ廊下にいてくれる?」と姉は言った。僕はぎこちなくうなずくと、椅子を降りた。一度振り返ったものの、医者からも看護師からも特に目配せはない。
 本当に病気なのだろうかと黒い冷たさを覚えながら、僕は診察室を出た。

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