Wish Kill【2】
「弟さん、まあ、軆に異常はないんだけど」
いったん廊下に出たものの、やっぱり気になってドアを振り返り、ちょっと隙間を作って聞き耳を立てた。患者はちらほらしていても、それを咎める看護師や医者はちょうど廊下にはいなかった。
「何というか──精神的に、何か苦しいものがあるかなあと僕には見えたんだけど」
「精神的……?」
「つらい気持ちをね、『つらい』とか『苦しい』とかいう言葉で表せない子もいるんだよ。『頭が痛い』、『お腹が痛い』……それは弟さんなりのサインじゃないかな」
「そんな、……そんなの、心が弱いだけです。あの子がやる気さえ出せば、」
「学校休ませてあげていいと思うよ、僕は」
僕はふらふらして、廊下にあった長椅子に座りこんだ。
何で。少し話しただけなのに。お腹に触って、心臓を聴いただけなのに。精神的。医者とはそんなものまで見通せるものなのか。
サイン。確かにそうかもしれない。僕はみんなに混ざれなくてつらいと言えない。学校に通うのが苦しいと言えない。だからどこそこが痛いと言う。そう言って学校を避けようとする。
そう、僕は教室にいるのが耐えがたいのだ。陰口が聞こえても我慢ばっかり。班が同じだけで偽善ばっかり。興味のない勉強に苦痛ばっかり。
やがて、姉が診察室から出てきて、「行くよ」と僕の手をつかんだ。僕は姉のあとをとぼとぼとついていく。
「ちゃんと、学校行けるよね?」
僕は姉を見上げた。医者の言葉を無視するのかと思ったが、姉は振り返らずに続ける。
「いつかは、普通に学校に行けるんだよね?」
「……え、」
「あんたが不登校なんかになったら、誰があいつに責められると思ってるの。あんたじゃないんだよ。おかあさんなんだよ」
姉の声が震え、やっと姉が、かたくなに僕を学校に向かわせていた理由に気づいた。
僕は母を死んだように感じていたけど、姉には母はまだかけがえのない人なのだ。怒声ばかりの父に傷つけられてほしくない、大切な母親なのだ。
待合室に着いて、姉と並んで座ったけど、会計まで僕は口をきかなかった。母を想えば、じゃあ学校頑張るよ、と言うべきなのだろうと思った。でも、母のためとはいえ、なぜ僕がここまでの息苦しさを覚えながら、なおも息を止めていなくてはならない?
僕は母より「下」なのか? 姉にはそうみたいだ。僕は、母が傷つかないために、苦しまなくてはならないのか。
僕と姉は、家までの道のりを歩いた。いつかは、と姉は言った。それが、精一杯の姉の譲歩だ。いつかは普通に──だから、今は、
「学校……少し、休みたい……」
姉は隣の僕を見下ろして、「少しね」と確かめた。「少し」と僕は繰り返した。「分かった」と姉は言うと、「じゃあ、私は今からだけど学校に行くから」と僕に家の鍵を握らせる。
「今は家でゆっくりしなさい。きついこと言ってごめんね」
それが、小学五年生の夏休みが迫った七月だった。
少し。そう、少しだ。どのみち、すぐ戻らないと勉強が分からなくなってしまう。少しだけ。二学期からは頑張る。夏休みが終わるまでのあいだだけ。ほんとは、それだけ──
「お前が悪いんだ! 何であいつに、まともな教育をしなかった!? 全部お前が悪い、俺のせいじゃないぞ、お前がクズだから、あいつまでっ──」
ふとんを頭までかぶり、目をつぶって耳を塞いだ。それでも父の野太い怒号は、指の隙間から鼓膜をかきむしってくる。母は泣きながら謝っている。高校生になった姉は、今夜も塾だ。
僕は浅くなる呼吸に胸苦しさを覚えながら、暗い部屋のベッドで縮んだ。怖い。うるさい。死ね。死んでしまえ。何だよあいつ。今夜も怒鳴ってんのかよ。
死ねばいいのに。死ねばいいのに。死ねばいいのに。
小学六年生になって、あれから一年が過ぎて、僕は相変わらず学校に行っていなかった。一度行かなくなってしまえば、不登校なんて簡単なものだった。
学校に通っていた頃は、学校に通わないなんてどれだけずうずうしい神経なのかと思っていた。そんなことができるなんて、ぜんぜん弱くないではないかと。学校は通って当たり前で、そのルールを破るなど、毎日教室に来てイジメを楽しむクラスメイトより、よほど不良に感じた。
でも、いざ毎朝起きること、服を着替えること、家を出ることをやめると、あっけないほどたやすかった。そして、一度その生活に慣れたら、抜け出すほうが学校を投げるより困難──いや、不可能だった。
学校に行ってる奴なんて、もしかしてみんなバカなんじゃないのか。みんな同じ時間に集まって、挨拶で声を揃え、前に倣えで行動して。そんなこと、僕には耐えられない。
戻りたくない。あんな場所、二度と行くものか。また学校に行くくらいなら、死んだほうがマシだ。こそこそ悪口を言われるのも。必死にノートを取って勉強するのも。おもしろくもないのに引き攣って笑うのも。僕には学校のすべてが我慢できない。
けれど、学校に行かなくて、どこかに出かけるわけではなかった。食事と入浴と排泄のときだけ、ゴキブリみたいにささっと動いて済ます。
父がいるときは、徹底的に部屋にこもった。家を出るか、寝つくまで、トイレさえ何時間も我慢した。怖いのもあったが、父と同じ空気を吸うのが吐きそうだった。
父が触ったあと、歩いたあと、座ったあと、全部が触ったり踏んだりできないほど気持ち悪かった。父が触れたところは、蛆虫がたかっているみたいに感じた。
そうだ。僕がゴキブリなら、父は蛆虫をまき散らすうるさい便所蠅だ。汚いくせに、臭いくせに、何でまだ生きてるんだ。いい加減、害虫なんだから死ねよ。お前が死ねばいいんだよ。
お前さえ死ねば、すべてうまくいく。僕の家は平和になる。お前が全部悪い、お前が生きているのが悪い、お前がくたばらないのが悪い。お前がのうのうと生きているから、僕まで醜い寄生虫みたいに育ってるんだ。
ああ、くそ、殺したい。殺してしまいたい。でも、あいつの返り血を浴びたくない。汚い。首を絞めるために、触りたくもない。銃でも持っていたら、とっくに殺しているのに。
あいつさえ死ねば、母の心もきっと生き返って、姉だって喜ぶ──
中学生になっても、僕はやはりほとんど登校しなかった。入学式の途中で悲鳴を上げて泣き出し、教師に介抱されて保健室で過ごした。「教室がつらかったら、保健室でもいいから来てね」と保健医が言ったので、少し保健室登校をした。
でも、実際は保健医はサボりにきた不良とばかりしゃべっていて、僕のことなんか放置だった。いや、そっとしていたのかもしれないけれど。不良の溜まり場に過ぎない空間がつらくて、すぐ行けなくなった。
僕はまた小学校のときのように引きこもって過ごし、靄の中に迷いこんだように、ふらふらと「死にたい」と思うようになった。夜遅くに帰宅する姉は、そんな茫漠とした僕に眉を寄せ、父が怒鳴っているのでイヤホンで音楽を聴きながら眠ってしまう。バカ、マヌケ、ヤクタタズ、母は連綿とののしられている。
毎日、変わらない。引きこもったまま、どんどん時間は過ぎていく。
ある深夜、うるさい父もやっと眠ったのに僕は眠れず、大学生になった姉の化粧箱をあさってカミソリをつかみだした。T字でなく、眉を整えるときに使っているのを見たことがある、小刀のようなカミソリだ。
ずっと雑音でぶれていた心が、ふうっと楽に堕ちて静かになった。窓辺で左手首を月明かりに映した。血管が蒼く、肌が白く、光っている。唇を噛みしめて息を抑え、カミソリの銀色の刃をそこに押し当てた。ひやりとした。
脈が分かる。複雑に集まっている細い骨の感触も分かる。
僕は目を細めて、さらにカミソリを皮膚に食いこませた。そして一気に切ればいい。動脈まで掻っ切ってしまえばいい。ひと息で終わる。
誰も死んでくれないのだ。世界が終わってみんな死んだら、生きていけるけど、僕を逆撫でるものは厚かましく生き永らえている。
だったら、僕が死のう。今、手首に刃物を押し当てて、こんなに安らかだ。あとのことなど知るか。
僕が死ねばいいと思っているくせに。僕は死ぬことでしか感情表現できない。僕に死なれて、この苦悩を思い知ればいい。厚顔に母や姉を傷つけ、汚臭をまき散らして、踏んぞり返ってるお前。
お前を後悔させてやる。死なないと分からないのだろう。死んで見せないと理解しない。頭が悪いくそったれ。死ねば、僕も生まれたことと仲直りできる。
生まれなければよかったと酸欠するほど思ってきた。死んでやる。もう、こんな家で生きていたくない。僕が死んだら扶養が減って喜ぶんだろ。恥が消滅して安堵するんだろ。家族として哀しむなんてないんだろ。
僕はこの家の残飯を食らうゴキブリで、ゴキブリはたたきつぶされるためにいる。僕が僕を駆除してやろう。生まれたことを罰してやろう。
そしたら、やっと褒めてくれるんだろ。僕の命を祝福する人なんていない。ずっと昔から。家でも学校でもどこでも、僕さえいなければよかった。僕が死ねばいい。世界が終わらないなら、僕が終わってしまえばいい。
唇を噛んだ。小さくうめきがもれた。手首が痛いぐらい刃を押しつけ、手首を刎ね飛ばすように右に引けばいい。息がかすかに荒くなる。ぴくん、と右手が痙攣してカミソリが動く。
僕は眉を顰めた。痛かった。同時に果実が実るように血の雫がふくれあがり、すぐに腕を伝って肘から床にしたたっていった。急激に息が荒くなってく。
嫌だ。違う、ビビってんじゃねえよ。死ぬんだろ。死んでやるんだろ。
カミソリをもう少し動かすと、さらに鮮血がぷつぷつとふくらんで、どろりと腕を舐めて落ちて裸足の足に黒く飛び散った。
くそっ、痛いな。いや、痛くていいじゃないか。これは僕の心の膿だ。僕は膿をつぶして絞り出しているのだ。痛ければ痛いほど、それは僕の心の痛みなのだ。
もっと痛く。もっと深く。もっと赤く。
息切れに笑いが混じってくる。やっと右に引けたカミソリを、また手首に当てた。ぱっくり咲う傷口に刃をさしこみ、さらに傷を深くえぐった。何本も裂け目を重ねた。どろどろの血が、ぴちゃっ、べちゃっ、と足元で跳ね返る。
切れ。もっと切れ。血が止まらないように、切って切って切って──
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