アスタリスク-4

Wish Love【1】

 お前など場違いだと追い返されるのも覚悟していたけど、面接に行ったラウンジで、僕はあっさりボーイとして採用された。仕事に就くのがこんなに簡単なのかと、拍子抜けるほどだった。
 ママは四十二歳ということだったが、ピンクのスーツを着てそれより若く見えた。ママが僕を面接するのを一番そばで見ていたのが、カウンターにいた志帆だった。
 十九時、まだ客はいない。ボックス席でしゃべったり化粧したりしている女と違い、志帆は女だけど黒服を着て、カウンター内で仕事をしていた。どうやらホステスでなく、僕が始める仕事と同じ仕事を担っているらしい。
 姉名義で手に入れていた僕のケータイの連絡先を登録したママは、「明日から来れる?」とさっそく訊いてきた。明日。急すぎてちょっとすくんだものの、「はい」と答えておく。
「じゃあ明日から。質問があればこの子にしなさいね」
 そう言って、ママは志帆を紹介した。志帆は僕に名刺をさしだし、「よろしく」とそっけなく感じるような口調で言った。僕は名刺を受け取り、「よろしくお願いします」とつっかえそうになりながら答えた。
 面接が終わるとママはいそがしそうに立ち去り、僕は出された烏龍茶を飲みながら帰っていいのか分からずにいたが、グラスが空になったので「帰ります」とぼそっと言うと「お疲れ様」と志帆がグラスを引いた。
「あたしも、元はホステスだったんだけどね」
 翌日、指定されていた十八時に出勤すると、まだ照明が明るく、店内にいるのは志帆ひとりだった。ボックス席の各テーブルに、つまみが盛られた皿やミネラルウォーターのボトルを並べている。
 僕は今日の昼間に買ってきた白いシャツと黒のスラックスに着替えて、黒いベストとネクタイは借りたものを身につけた。カウンター内は狭く、背後にはボトルが狭そうに無数に並び、カウンターテーブルとのあいだには簡易キッチンがある。足元にはアイスボックスや冷蔵庫があった。
 僕がきょろきょろしていると、六つあるボックス席を整えた志帆はカウンターの中に戻ってきて、煙草に火をつけながらそう言った。
「愛想も華もないからって、ママにこの仕事に格下げされたの」
 志帆はセミロングの黒髪を後ろでひとつに束ね、三白眼のせいか確かに冷ややかな印象の顔立ちをしている。美人だけど、愛くるしい感じはない。
「あたしもホステスやってんの嫌だったしね、いいんだけど」
「……給料とか」
「そりゃ、ぜんぜん違うよ。あたしたちは一時間千円だけど、女の子は最低でも三千だからね」
 志帆は煙を吸いこみ、ふうっと吐き出す。僕は咳きこみそうになるのをこらえる。
「でも、そのぶん客に触られても口説かれても、自分しか頼れない。ママは助けてくれない。チクって相談しても、『もっとうまくかわしなさい』『触られるのはあんたが甘いから』って逆に説教されるだけ」
「……はあ」
「あんたも、ママには気をつけたほうがいいよ。あの人、切れたら何言い出すか分かんないから」
 志帆が煙草を灰皿につぶしたとき、「おはよう、志帆ちゃん」という声が聞こえた。見ると、いつのまにか掃除用具を抱えたおばさんが現れていて、「よいしょ」とその荷物を床におろしている。
 誰、と思っている僕を見たおばさんは、「あら、新しい子?」と気さくに微笑んできた。「はい」と志帆の表情がわずかにやわらぐ。
「こいつ、中学生に見えますよね」
「そうねえ。ちょっと幼顔ねえ」
「……もう十八ですけど」
「それ、嘘でしょう? 昨日、あんたが帰ったあと、みんな中学生って言ってたよ」
「いや、ほんとに十八です」
「もうママは雇ったんだから、嘘つかなくていいのに」
「ふふ、志帆ちゃんと仲良くしてあげてねえ。いい子なのよー、この子。ママは無愛想なんて言うけれど」
「こいつはほっといていいよ、おばちゃん。お掃除お願い」
「ああ、そうね。志帆ちゃんとおしゃべりするのは、楽しいものだから」
 おばさんはにこにこしながら言うと、ボックス席の掃除を始めた。「あの人……」と僕は身長の変わらない志帆を見て、「掃除のおばちゃん」と志帆は言った。掃除。僕や志帆がするわけではないのか。
 新しい煙草に火をつけながら、「とりあえず」と志帆は背後のボトルをしめした。
「お酒の名前を憶えていきなさい。それが分かってないと、仕事にならない」
「このお酒、全部ですか」
「そう。メモ取っても何でもいいから、銘柄言われたらすぐ分かるようになること」
「……はい」
「それから、お客さんの顔と名前を憶えて、どのボトルを入れてるかも憶えなさい」
 僕は一気にひとつのことをやるのが苦手だ。というか、できない。だが、「はい」と言うしかない。
 志帆はしゃがんでアイスボックスの中の氷を砕きはじめた。僕は並ぶボトルを見上げ、いくつか手に取ってみたものの、英語はそもそも読めないし、日本語のお酒もあまり区別がつかなかった。
 自分も飲むなら少しは分かるのかもしれないが、僕はお酒をおいしいと思ったことがない。ちゃんとできるかなあと不安が広がったものの、ひとまず明日はメモ帳を持ってこようと思った。
 楽な仕事なんてないのだろうが、ボーイの仕事はかなりつらかった。志帆の言った通り、ママはフォローなんてしてくれない。ホステスの女の子たちにも、僕はただの下僕だ。客に至っては、仕事で氷を運んだりしているのに、「男が席に近づくな」と吐き捨ててくる。
 どんなあつかいを受けても笑っておかなくてはならないのが、僕の神経を発狂させそうに捻じった。ダメだ、このくらいでつらいなんてダメだ、頑張って、耐えて、金を貯めて、あの家を出る。頭にそう言い聞かせても、泥水のような感情が心に蓄積していった。
 初めは冷淡に感じていた志帆だったが、彼女だけが僕を助けてくれる存在だった。
 苦しくてカウンターの下にしゃがみこんでしまっても、「落ち着くまでそうしてなさい」とさっとささやいて、僕が爆発しないようにしてくれる。客が僕を邪慳にすると、「あたしの弟分イジメないでくださいよー」なんて言いながら、僕をカウンターの中に連れていく。
 カウンターの中にいるときだけ、まだマシだった。しばらく息苦しさに耐えて、よろよろと立ち上がって「すみません」とかぼそく言うと、「これ切っておいて」と志帆は僕に包丁を手渡してフルーツを切る仕事を任せ、店内に行かなくてはならない仕事はほとんど引き受けてくれる。包丁なんてあつかったことがなくて困っていると、戻ってきた志帆は、まだできていないのかなどとは言わずにコツを教えてくれる。
 閉店は、だいたい午前二時前後だけど、僕と志帆は片づけや戸締まりを任されるので、店を出るのは三時くらいになる。そんな時刻でもまだ人通りがある歓楽街を志帆と歩き、「お腹空いてない?」と訊かれて一緒にラーメンを食べたりした。
「仕事つらそうね」
 味噌ラーメンを箸に絡め取る志帆が言って、香ばしい湯気の白湯ラーメンの僕はチャーシューを齧る。
 何だかんだで、この仕事を始めて一ヶ月が経ち、七月になろうとしていた。ラーメン屋の店内には冷房が効き、同じように水商売を上がった様子の人がラーメンを食べている。
「志帆さんはつらくないですか」
「楽しくはないね」
「僕、ずっと引きこもりだったんです」
「引きこもり」
「でも、このままじゃダメだって、初めての仕事なんです」
「引きこもりから水商売って、ずいぶんぶっ飛んでるね」
「……そうですね」
「うちは、みんなすぐ辞めていくよ。黒服もだけど、女の子の回転も速いし」
「志帆さんはどのくらいなんですか」
「黒服は半年くらい。その前に三ヶ月ホステスやってたけど」
「それ、短いんですか?」
「長いほう。一ヶ月で飛ぶ子もいるし、三日で来なくなった黒服もいる」
 ずるずる、と志帆はラーメンをすする。僕も箸で麺をすくう。
「あたしもずっと、辞めたいとは言ってるんだ」
「えっ」
「でも、あたしが辞めたら黒服いなくなるから。辞めさせてもらえないの」
「………、」
「月芽くんが仕事憶えたら辞めていいって、こないだママに言われたけどね」
「えっ──」
「だから、仕事頑張って憶えてね」
 僕は麺が泳ぐ肌色のスープを見つめた。
 辞める。志帆が辞める。僕ひとりであの仕事をやることになるのか。そんなの……
「もし」
「ん?」
「僕が辞めたら、志帆さんは……」
「また引き止められるだろうね」
「そう、ですか……」
「でも、そうされても強引に辞めるつもり。辞めたいって言い出して、三ヶ月だよ」
 僕は粗熱が飛んだラーメンを頬張って、蕩けそうな味をもぐもぐと食べる。
 志帆は僕を眺めて、「やっぱ辞めたい?」と訊いてきた。僕は志帆をちらりとして、ラーメンを飲みこむとぎこちなくうなずいた。
「じゃあ、ふたり一緒に辞めてママを困らせてみようか」
「え」
「締めが二十日でしょう、それで給料日が月末。だから、そのあいだの給料はもらえないことになるけど、月が変わったらもう店に行かないの」
「連絡とか来るんじゃ」
「拒否して無視すればいいよ。みんなそうやって辞めていくんだから」
「……はあ」
「月芽くんが引き継いでくれて、穏便に辞められるなら、あたしはそれでもいいけど」
 辞める。もう辞めてしまうのか。あの家を出たくて、ありついた仕事なのに。
 ひとりでやっていける自信なんてなくても、それでもやらなければ、僕は家を飛び出せない。そしてまた手首を切るのか? ふとんの中にうずくまるのか?
「今の仕事が続けられたら、ほかの仕事なんて楽すぎて、続く自信にはなりそうだけどね」
「志帆さんはいつ頃辞めるんですか」
「八月って話。夏いっぱいだね」
 あと二ヶ月。その頃、まだ辞めていなかったら、僕はどうなっているのか。
 仕事ができるようになっているのか。ストレスが限界に達しておかしくなりかけているのか。ラーメンをすすって、たぶん後者だろうと思った。
「志帆さん」
「うん」
「志帆さんが辞めて、僕だけになったら、こうやって話をしてもらうこともできないんですよね」
「愚痴くらい辞めても聞いてあげられるけど」
 僕は志帆を見た。志帆も僕を見て、「泣きそうだなあ」と笑った。そしてケータイを取り出すと、「連絡先交換しておこう」と言った。僕も慌ててケータイを取り出すと、志帆の番号とアドレスをケータイに登録した。
 それだけで、志帆とのつながりが見えた気がして、わずかにほっとした。

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