乱れる静けさ
四人の食事が終わると、聖樹さんと悠紗は身支度を始めた。要さんと葉月さんの髪は乾き、要さんのあくびの量も減ってくる。食事後のひと休みののち、四人も億劫そうに腰を上げた。食器洗いは僕に任された。
僕はみんなを玄関まで見送る。梨羽さんと紫苑さんには無視されても、要さんには「ゆっくり休めよ」と、葉月さんには「みやげはテイクアウトな」と言われた。悠紗の瞳には、利己の不満より僕を置いていく不安が濃い。「待ってるよ」と僕が言うと、悠紗はそれを信じて四人を追いかけた。
眼鏡をかけた聖樹さんは、洗濯物やふとんを取りこんでおいてほしいのと、夜になったら勝手に何かを食べていいのを伝える。僕はうなずいた。
聖樹さんは悠紗たちを追おうとして、足を止める。僕は聖樹さんを見た。
「行っちゃいますよ」
「う、ん」
「何かまだありますか」
「ん、……あのね、萌梨くん」
「はい」
「僕、昨日、ひとりでいて、ほんとは何回か沈みそうになったんだ」
「………、はい」
驚かない僕に、聖樹さんは複雑そうに笑んだ。「おとうさん」と悠紗の声がする。「行くよ」と聖樹さんは返し、僕を眼鏡越しに直視する。
「すごく、静かになるよ。気をつけて。ついててあげたいんだけど」
「今日の梨羽さんには、聖樹さんが必要だと思います」
「……うん。時間があったら電話するね。変なこと考えなくて、ここにいていいから。梨羽の歌でも聴いて。絶対帰ってくるよ」
「はい」
聖樹さんは微笑むと、「じゃあね」とドアの隙間を抜けていった。鍵がかかり、駆け足は遠くなって消えていく。
小さく細い息を吐いた。肩の力がだるく抜け、視線が落ちる。
ひとり、と思った。そう、ひとりだ。ここに来て以来、こんな完全なひとりは初めてだ。
いつも聖樹さんか悠紗がいた。そばか同じ空間か、視界にはいなくても壁一枚の先にいた。
今はひとりだ。捜しても誰もいない。言い知れない不安がもやついた。
きびすを返し、細い廊下を引き返した。何となく足音を殺してしまう。廊下が終わるとシンクに積まれた食器が目に入った。リビングに目をやると空っぽだ。陽射しが無音で床に横たわっている。
広いなあ、と思った。さっきまでたくさん人がいたぶん、広く感じられる。
そして、欠けていた。聖樹さんと悠紗という、ここの主がいないせいだ。自分がこの空間に許されていないことに切なくなった。僕もここの一部だったら、こんな欠陥は生まれない。他人なんだっけと哀しくなった。
たたずんでいると、外の物音は映画の中からみたいに聞こえた。子供のはしゃぐ声、車の走音、自転車のベル。
この静けさには、そういう温かく柔らかな音は、寂しく響く。息をついてシンクに歩みよると、食器に手をつけた。昨日、聖樹さんも穏やかさに怯えるこんな気持ちになったのだろうか。
すごく静かになる。気をつけて。守られた室内で、大仰とも取れるあの言葉が、かろうじての警告であると僕は分かる。
集中できる状態がはらむ危険は、普通の人には分からない。外界が静謐だと、頭や心の混乱が鮮明になる。気を散らそうとしても、凪いだ周囲は何も気を引いてくれない。だったら、ほかのことを考えようとしても、意識に落ちる影の亀裂がひどくて、ほかのことは浮かばせない。
外がうるさかったら、それはそれでいらつきに取りつかれたりするのだけど、危ないのは静かなほうだ。何にも囚われずに、鬱の水底へと沈没していく。
僕の底は、死ぬことしか考えていない。無意識に眉が寄る。軆なんか構わず、ついていったほうがよかっただろうか。
でも、ついていったって疲れて、同じ鬱にはまりこんでいた。まして、行くのは駅前だ。駅前というのが駅の周りのみでなく、昨日行った街とは別の一般人もうろつくあたりも指すのは分かる。あのホテルに近づくのも嫌だ。
僕はあそこでおもちゃになった。男にまわされた。
もし、あのホテルの従業員が僕の顔を憶えていて、感づいて、管理体制の弁解のために学校に連絡したらどうする? 一介の生徒なら憶えていなくても、僕は修学旅行中、あのホテルに宿泊していたところを逃げ出した。写真なり特徴なり、焦った先生たちに吹きこまれたのは間違いない。
写真なんか見せられていたら終わりだ。この雌猫みたいな目は、とにかく印象的だ。この目さえなかったら、おとうさんもあんなに僕におかあさんを重ねられなかった。
そう、僕にはおとうさんという敵もいる。おとうさんがあきらめたかどうかなど、おそらく、一生定かにならない。おとうさんは、依然ここに的を絞っているかもしれない。
あの人は、僕の意気地なしぶりは知っている。逃げ出したはよくても、それで腰が抜けてここに留まっていると踏み、細かく嗅ぎまわっているかもしれない。
僕の写真を持って、駅前で訊きまわっていたらどうする? 毎日駅を利用している人、売店の人、コンビニや喫茶店、そういう人がおとうさんに写真を見せられていて、僕を見て、「あれ?」と思ったら。
ぞっとした。まだ、外は危険すぎる。昨日何もなかったのが、奇跡であるくらいだ。
行かなくてよかった。それは確かだ。
学校はともかく、おとうさんは要注意だ。あの人は、頭が変だ。男の僕に、女のおかあさんを見出せる。修学旅行にも、いい顔をしなかった。休んでふたりで出かけないかと誘ってきた。修学旅行に行くのは嫌だった。でも行ったのは、おとうさんが怖かったからだ。
修学旅行に行かなかったら、おとうさんにどこかに連れていかれていただろう。そうなったら、そのままどこかふたりきりで、監禁生活でも始まりそうだった。
そこで僕は、食器を泡立てていく手を止める。あきれたような情けないような気持ちになって、引き攣った苦笑いをもらす。忠告してもらったのに、何を考えているのだろう。
静寂に耳を澄まし、食器洗いに集中した。皿と皿が当たる、跳ねる泡、スポンジを絞る──そんな細かい音も、この部屋にはきちんと散らばっている。
食器洗いが永遠に、いや、みんなが帰ってくるまで続いていればよかったのだけど、もちろん終わる。泡まみれの食器を水でさっぱりさせ、水切りに整列させていく。スポンジの泡も抜くと、水道のレバーを上げる。
かたわらにかけてあるタオルで手を拭いて、固まる指に水が冷たかったと気づいた。タオルを離すとそこに突っ立つ。ぽたぽた、と水切りがシンクに水滴を落としている。
どうしよう、と思った。
リビングに行った。静かだ。聖樹さんたちは、とうに出発しただろう。
早めに切り上げるとは言っていたが、聖樹さんは夕食は勝手に食べていいと言っていた。夕食は外食になる時間になるのだ。みんな、真っ暗にならないと帰ってこない。
それまで、ここにひとりだ。空っぽの部屋にひとりだ。ずっと静かだ。
時計を見上げた。やっと十二時半になろうとしている。洗濯物は、いつ取りこもう。十六時か十五時か、寒くなってきたし、十六時が無難だろうか。洗濯物を取りこんだら、たたむという仕事もついてくる。
できれば、何かしていたかった。何もしていなかったら、記憶に神経が麻痺して、何もしたくない状態になりそうだ。
一度、十五時頃に見て、そのときの洗濯物の状態で決めよう。ふとんは昼下がりに取りこんでいい。十四時頃だ。
しかし、それまで一時間半はある。聖樹さんと話したり、悠紗のゲームを眺めていたらたわいない時間でも、ひとり虚ろに過ごすとなると途轍もない。
部屋に目を走らせた。どうしよう。
一時間半。ひとりで。何にもせずに。読む本もないし、ゲームも勝手にするのは気が引ける。
テレビでも観ていようか。いや、僕はテレビは無神経なので嫌いだ。
こうして立っているのもバカバカしい。考えごとは怖い。コンポ。何か聴く──
そうだ。音楽がある。XENONのアルバムを聴きたい。聖樹さんも、梨羽の歌でもと言ってくれていた。XENONのアルバムを一枚聴いたきりでいる。
そうしよう。やることが決まってほっとして、コンポのそばに座った。さっき梨羽さんがここにいたっけと思うと、そわそわする。そして、その人の歌を聴くと思うと、不思議な感じだった。
【第四十九章へ】