風切り羽-50

子供のまま

 時刻は十四時に届いていた。ふとんを取りこむ時間だ。
 立て続けに聴いていると消耗が体力を超えそうだったので、簡単にコンポを片づけて立ち上がる。
 部屋にそそぐ陽光は、落ちた影にやや粒子の舞いを抑えられていた。
 レースカーテンをくぐり、鍵を開けて、ガラス戸をすべらせる。天候はさらりとした秋冷で、洗濯物を避難させる心配はしなくてよさそうだった。
 ベランダに降りると、物干竿の端にあるふとんたたきを取る。よけたタオルは手の甲にひやりとして、こちらを取りこむのは十六時頃にしたほうがよさそうだ。僕は敷きぶとんにかぶさると、向こう側をはたいた。目立ちたくないのとここの住人ではない引け目で、思い切りははたけないけれど。
 下を通る道路の向こう、植木のところに小学校中学年くらいの男の子が数人で携帯ゲーム機で遊んでいた。悠紗も持っていたものだ。
 だが、悠紗はああいう輪には混じらないのだろう。悠紗は、自分にとって対等や下等にいる人間とは、つきあいたがらない。自分の上にいる人とつきあい、知恵をもらって、対等にやるのが心地いいらしい。
 僕自身は分からなくても、ほかの人はみんな確かに悠紗に与えている。聖樹さんは繊細さを、沙霧さんは奔放を、あの四人は音楽や機知を。
 一歩引いて、内側をはたく。触れたふとんはふかふかに温かく、もぐりこんだら気持ちよさそうだ。ホコリをはらうと、留め具を外し、抱えて部屋に入れ、次はかけぶとんに取りかかる。
 悠紗が知らないことに素直でいられるのは、頭の悪い大人が周囲にいないところにあると思う。同世代の友達がいないのは虚しい、というのも当てはまらないだろう。しきたりの施設、厚顔な大人、そういうものを疑わない子供の中にいたら、肝心なものをもがれる。
 僕の子供の頃は、悠紗と正反対だった。もがれて、もがれっぱなしにされた。口車の知らない人に、冷たかった母親に、無関心な父親に。
 僕の周りには、ろくな大人がいなかった。そして、事実をはねつけるには、僕は幼かった。
 男の子たちの前を、手提げを持った同い年ぐらいの女の子ふたりが通る。ふたりがくすくすとすると、男の子のひとりが振り向いた。顔見知りだろうか。女の子たちは背丈に似合わない媚を含んだ笑い声を上げ、奥に駆けていく。男の子たちは顔を合わせ、何やら“女子”への悪口を口々にすると、ゲームで盛り上がるのに戻った。
 僕の幼少時代には、ああいう記憶がいっさいない。友達と集まって遊び騒いだり、淡い性意識で異性を嫌悪したり、何をしていたかも憶えていない。僕の子供の頃は真っ白で、ゆいいつ生々しく焼きついているのは、見上げる相手に人形にされたことだけだ。
 僕の性への観念は、芽吹きもしない種を掘り返され、もてあそばれたようなものだ。傷つけられて割られて、中身をかきまわされたそれを仮に埋め直し、いったい何が発芽するだろう。発芽しなければ育たないし、咲かないし、生み残せない。
 たぶん、思春期が開花だ。僕には、思春期も何もなかった。むしろ怖がり、快楽となるはずの性を嫌がった。僕は地中にあってその存在も明らかにされていない頃に、すべてに広がるはずだった原理を壊された。
 おかげで、成長すれば愉しむものを幼い視点で見てしまい、子供みたいに性を嫌悪する。ひとつ本物の子供と違うのは、それが淡い性意識でなく、つまずいて地面を見ているうちに、大切なものを見逃したせいであるところだ。
 あとは子供と一緒だ。子供のままだ。
 憂鬱になりながらふとんをはたきおえると、ふわふわになったそれを抱えこんだ。下の道路に爆音がして目を向ける。大きなオートバイだ。男の子たちも色めきたっている通り、男はそういうものが好きだ。
 僕にはそんなのもなかったなと息をついて、ふとんを部屋にやろうとしたときだった。
「何してんの?」
 どきっとして、身を硬くした。何。僕にかかった声だろうか。いや、でも──
「ここだよ。俺」
 オートバイの音がすぐ下で停まっているのに気づいた。ふとんを置いて手すりに身を乗り出すと、オートバイにまたがっている人がヘルメットを外している。
 僕はまばたきをした。
「君が主婦代理になったのか」
 こちらを仰いで笑んできているのは、沙霧さんだった。僕が思わずどうとも返せずにいると、沙霧さんは軽く頭を揺すって前髪をかきあげる。
 オートバイ。に、乗るのか。知らなかった。
「兄貴は?」
「え、あ──あの、みんなと」
「は?」
 口ごもった。沙霧さんが意地悪をしたのではないのは分かっている。僕の小さい声は、空間を置いて降りそそぐ声には向いていない。
「あ、あの、出かけたんです」
 限界を超えるつもりで、大きな声を出した。いつも小さくしゃべる人間には、大声を出すのは大変なことだ。
「出かけた?」
 それでも聞き取りにくかったのか、沙霧さんは確かめてくる。僕はうなずき、緊張にふとんたたきの柄を握った。
「じゃあ、悠は?」
「も、行きました」
 男の子たちが興味深そうに聞き耳を立てている。何だか恥ずかしくて伏目になった。
 沙霧さんはそんな僕を眺めると、「だったら、行っちゃまずいかな」と訊いてきた。無意識にかぶりを振り、振ったあとで、まずいかと思い直した。
 が、すでに遅くて「じゃあ行くから」と沙霧さんはヘルメットをかぶりなおして行ってしまう。男の子たちは上気した頬でそれを見送った。
 生唾と息を飲みこんだ。どうしよう。沙霧さんが来る。大丈夫だろうか。最悪の状態は脱したとはいえ、沙霧さんと僕は完全にしっくりいったとは言えない。ひとまず疎通したあの日も、そこに聖樹さんと悠紗がいた。ふたりきりになって、沙霧さんの悪感情が再発しない保証はない。そうなったら、僕は怯える。
 泣きたくなった。いや、けれどどうせ、「まずいです」なんて言い返せなかったに決まっている。いずれにせよ、こうなっていた。あきらめに似た気持ちで覚悟を決めると、毛布と共に部屋に帰った。
 落ち着きなくふとんをたたんでいると、玄関のほうで、がちゃっと音がした。はっとしてふとんを放る。
 鍵を開けていなかった。インターホンが鳴り、外で顔合わせておいてよかったかもと走りながら思う。でなければ、誰もいないときに誰か追ってきたと被害妄想におちいっていた。
 廊下を通った僕は、自分の靴を踏んで鍵を開ける。ついでドアが開き、隙間に沙霧さんが覗いた。
「用心深いな」
「あ、はあ」
「ひとりなんだっけな。入っていい?」
 マットに身を引きつつうなずくと、沙霧さんは隙間をくぐってくる。後ろ手にドアと鍵を閉めると、履きくずしたスニーカーを脱いでマットに上がった。
 僕はぎこちなく後退った。沙霧さんは恐縮する僕を見つめ、息をつく。
「あのさ」
「は、はい」
「そんなビビらなくても、俺、何にもしないよ」
「えっ、あ──」
「きついこと言ったのは分かってるけど、もう言わない。別に兄貴とかがいなくてもそうだよ」
 沙霧さんを見上げた。沙霧さんの瞳には不穏の色も兆候もなかった。
 何にでも不信感を抱く習性が、急に恥ずかしくなった。感じが悪いのは僕だ。第一、この人は聖樹さんの弟で、悠紗の友達だ。悪い人であるわけがない。
 うつむいた僕の肩を、沙霧さんは軽く奥へと押す。
「ま、俺も悪いんだよな。ちょうどいいや。サシで溝埋めよう」
 うながされるのに従い、沙霧さんと廊下を抜けた。「この廊下狭いよな」と沙霧さんは言う。
 沙霧さんは聖樹さんよりも背が高い。髪の色や瞳の種類は同じでも、やはり雰囲気が似ていない兄弟だ。
 沙霧さんは、男に女の代わりにされるなんてないだろう。されそうになったら、バカにして拒否できそうだ。沙霧さんは僕の視線に気づき、「何?」と首をかたむける。僕は慌てて首を振った。

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