Wish Love【3】
そして僕は、初めての職を失った。翌日、何度かママから電話が来たが、出なかった。この期に及んで嫌味を言うのか、まさかとは思うが謝るのか、どちらなのか分からなかったが、いずれにしろ関わりたくなかった。
僕は窓を雨戸も閉め切って、真っ暗な部屋に閉じこもった。姉は春からとっくにひとり暮らしを始めている。でも、たまに僕の様子だけ見に来る。たとえ夜の仕事だろうと、僕が働いていることにほっとしている様子だったが、また僕が堕落したのを知ると、姉は床に座りこんで泣き出してしまっていた。僕はそんな姉に、引き攣った笑いだけこぼした。
そうして、一瞬でも働いたなんてなかったかのように僕は引きこもり、毎日、手首の傷を新たにカミソリで強くなぞって──しかしゆいいつ、ケータイに志帆の着信がついたときだけ、目を開いて起き上がることができた。
仕事を辞めたのは志帆にも伝えたが、志帆はそれでも連絡をくれた。みんな僕が仕事を辞めたことを蔑んだが、志帆だけは『よくあんな初仕事続いたよ』と言ってくれた。
志帆に会うためならと、僕は久しぶりに外出することもできた。仕事を辞めて初めて会って、志帆は僕を抱きしめて頭を撫でてくれた。「頑張ったね」とささやいてくれた。僕の志帆にしがみついて、やっと泣くことができた。
それから僕はしばらく、ほとんど引きこもり、志帆に会うときだけ家を出た。それはつきあっているような時間だったが、つきあおうという約束は交わしていなかった。それでもよかった。志帆が僕のそばにいるだけで幸せだった。
なのに、どうして欲なんて出てきてしまうのだろう。一緒に街に出かけて、別れがたくて、つい夜遅くまで一緒にいてしまう。そのうち終電がなくなってしまう。どうしようなんて言いながら、イルミネーションと雑踏の中を歩く。そのうち僕たちはホテル街に迷いこんで、何もしないけどまあいいかと入ってしまう。
そして何もしない。何回目かまではそうだった。
弟は、姉に、こんなことはしてはならないのに。志帆とホテルに泊まって何度目かの朝、初めてキスをした。そして、志帆は僕を手で刺激した。僕は初めて人の手によって吐き出した。これは処理で、セックスじゃないから。まだそんなことを言っていたけど、結ばれてしまったのはそのすぐあとだった。
僕は志帆を突いて、奥までつらぬいて、柔らかな乳房をつかんで吸い、志帆の喘ぎに興奮しながら、コンドームの中に出した──つもりが、装着が下手くそで外れてしまっているときもあった。志帆は特にそれを責めることなく、「十代としちゃったなあ」なんて笑って煙草を吸った。
春が始まりかけた頃だったと思う。朝帰りで、志帆と駅まで歩いていた。ふと志帆のケータイが鳴って、「ちょっとごめん」と志帆はそれに出た。初めはあんまり気にしなかったけど、思ったより通話が長引いて楽しそうに咲う志帆を見つめていると、僕はつないでいる手をぎゅっと握ってしまった。
それからだ。僕と会っているとき、志帆はときどき、ケータイに来た電話着信に出るようになった。友達とか親とか言われて、僕はバカみたいに信じていた。いつから違和感に似た悪い予感に感づき、ふとこう思ったのか──
あれ?
志帆に彼氏っていないんだっけ?
「志帆さんって、彼氏とか作らないの?」
ファミレスで食事しながら僕がそう訊いたとき、志帆は「いまさら聞くの?」と噴き出した。店にいたときより、志帆はずいぶん咲うようになった。
「ちゃんと訊いてなかったなと思って」
「いないよ。いたら、月芽くんとこんなふうに会えてるわけないじゃない」
「そ、……そっか」
「それに、恋愛する気がないの」
僕はドリアをスプーンですくっていたのを止め、「恋愛したくないの?」と志帆を見る。「近いかな」と志帆はカルボナーラをフォークに絡める。
「あたし、あんまり恋愛にいい想い出がないから」
「彼氏がいたことはあるんだ」
「それはあるよ。ないと思ってたの?」
「……僕はないから」
「月芽くんはまだ十八でしょ」
「今月、十九だよ」
「十代なら焦ることないよ。あたしは、男見る目がないんだか知らないけど、ストーカーになったり、殺してやるって包丁持ち出されたり」
僕はドリアを口に運んだもぐもぐとしてから、「でも、いつかはまた恋愛する?」と訊く。志帆は唸って、「この歳になると、恋愛に比重がなくなるんだよね」とカルボナーラを食べる。
「結婚するのも、好きな相手というより、楽な相手とするんじゃないかな」
「結婚はしたいんだ」
「したいというか、まあ……どうなのかな。いい相手が見つかればね」
僕は? と訊きたくても、さすがにそれを口にするほどずうずうしくなれなかった。でも、デートをするし。セックスをするし。朝まで過ごすし。それでも僕は、志帆にとってつきあっていることにならないのか。候補にもなっていないのか。
「月芽くんはさ」は僕の表情を気取ったのか志帆が言った。
「ちゃんと彼女できるよ。あたしのことは、ほかに選択がなかっただけだと思うよ」
「でも、店に女の子いたし」
「まあ、そうだけどね。美奈子ちゃんとかいい子だったのに」
「美奈子さんも綺麗だったけど、僕は、志帆さんがいいから」
「あたしに期待するより、ほかを探したほうが幸せだよ?」
「志帆さんは、僕の味方でいてくれたから。そういう人が、いいから」
ぼそぼそとだけどその主張は譲らずにいると、「幸せになれないのになあ」と志帆は苦笑して食事を続けた。
幸せになれない。そんなことはない。志帆を好きでいられるならいい。応えられることがなくても、志帆のそばにいられるならいい。
そう思っていたはずだけど、志帆のケータイが鳴ると、脳内に静電気を感じるようになってきた。志帆は通話を始めて、僕に対するより砕けた様子で話して笑う。それを見ていると、志帆の中での僕の小ささが痛いほど身に染みて、喉をつぶされたように息が締めつけられた。
僕はこんなに志帆が好きで、誰より一番で、神聖なほど大切なのに。志帆には僕は、放っておけない弟に過ぎない。
恋愛する気がない、なんて。何で? あきらめなくていいではないか。せめて、あと一回。僕とあともう一度だけ恋をしてくれないだろうか。
僕は志帆を大事にする。幸せにできるなんて言い切れないけど、志帆の幸せに尽くす。陳腐な想いかもしれないが、志帆の幸せが僕の幸せだから。
志帆に会ったりしながら、僕は昼間の仕事の面接に行ったりもしていた。喫茶店。雑貨屋。本屋。コンビニ。百均。初めての面接であんなにあっさり受かったのが信じられなくなるほど、どこも僕も採用しなかった。
不採用通知、あるいは連絡さえなく時間が過ぎる。お前は使えないという烙印をずたずたに押されて、破裂しそうな不安に落ちこんで、次の面接に行く気力が回復するのに時間がかかるようになる。
相変わらず引きこもりがちだったけど、志帆と会うときなどに外出はする。そういうとき、飲食店でも映画館でも、働いているバイトを見かけると、どうやって受かることができたのだろうと疑問で仕方なかった。
バイトに受かることもできない。無能な自分が、押しつぶすように正常な感覚を食い殺す。春が夏になって、夏が秋になる。そして年が明けた真冬、近所でたまに利用するから落ちたら気まずい、と思って避けていた古本屋に捨て鉢になって面接に行った。
何がよかったのか、自分でも分からない。採用なら週末に連絡をさしあげますと言われて、また落ちるのだろうかと震える手でケータイを握っていた。胃がざわざわして吐きそうだった。着信がついたのは不意で、僕は慌てて番号を確認もせずに通話に出た。
面接のとき、店長と名乗っていた女の人の声がした。一緒に働いていきたいとか何とか言われて、僕は安堵と歓喜を綯い混ぜて「ありがとうございます」と電話なのに頭を下げた。明日また店に来るよう言われて、僕が承知すると電話が切れて、それから僕も通話を切った。
ついで志帆に電話して、採用されたことを伝えた。『古本屋っていうのが月芽くんらしいね』と笑われたけど、『おめでとう』と言ってもらえた。
そうして、僕は家から歩いて十分くらいの、通勤にもありがたい近さの古本屋で働きはじめた。水商売の下っ端の仕事しかしたことがなかった僕には、楽しいと思えるほどやりがいがある仕事だった。同僚も僕に温かく接してサポートしてくれて、仲良くすることができた。クビになって採用もされないのが続いて、忘れかけていた夢を思い出した。
家を出たい。
自分で食べていきたい。
家の中は苦々しいままだった。昔ほど父の大きな声が毎日うるさいということは減ってきたが、母は相変わらずなじられて泣いている。母が噎せんで返事ができなくなると、やっぱり父は何か反応くらいしろと声をどんどん荒げていく。姉は僕の顔だけ見たら、十分もせずに自分の生活に帰っていく。
「私がもっと働けてたら、月芽と暮らせるんだけどね。そんなにお給料もらえてるわけじゃないから」
姉はそう言って僕に謝ったが、僕は首を横に振っていた。姉に食べさせてもらったら、僕はいよいよ依存して自分で立てなくなる。姉に僕を養う余裕がないのは、結果的にはいいことなのだ。やっと楽しいと思える仕事も見つけて、自活する準備は整ってきていた。
だが、せっかくのそんなとき、僕は志帆から一通のメールを受け取った。
何でそんなことを指示されるのか、訳が分からないメールだった。内容は短かった。
『仕事がいそがしくなるから電話もメールもやめて。
あたしができるときにちゃんと連絡するから。
月芽くんからケータイ鳴らすのは、もう無しね。』
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