はちきれる想い
集中力の有無を侮ってはいけない。
中間考査は悲惨だった。記憶違いや空欄、書き間違いが答案用紙を乱舞し、惨憺たるものだ。平均点にも届いていなかったり、ギリギリだったり、余裕だったものはひとつもない。
「どうしたんだ」と励ますように肩をたたいてくる教師もいれば、だからあんなに注意してやったのにと言いたげな教師もいた。満点の半分もない点数たちを張りつめた目でたどって、僕は自分が予想以上に今の家庭で傷ついていることを痛感した。
答案用紙を親に見せるのははぐらかしたけれど、担任がかあさんを呼び出し、総合表を手渡してしまった。担任が親と面談したくなるほど、僕の成績の急落はひどかった。
しかし、結果に焦って復習に燃えることもできない。繊細なのだか、神経質なのだか、自分でも分からない。
夕食後、おそらくかあさんに僕の無残な成績を知らされたとうさんが、話があると呼び止めてきた。
「遥くんは部屋に行っててくれるかな」
僕の隣で一緒に立ちあがった遥は、とうさんを見て、僕を見て、従順にこっくりとするとリビングを抜けていった。猫かぶりが、というグレた感想も束の間、「悠芽」と厳しい声に呼ばれて、僕は居心地悪くとうさんを向く。
「座りなさい」
洗濯されたテーブルクロスの食器を、かあさんはこちらを窺いながら片づけている。今日の夕食はトマトシチューで、白熱燈がそそぐ食卓にはトマトの匂いが残っていた。愛敬のない瞳で椅子に腰かけた僕は、本心では怖いのだけど、虚勢で開き直ったようにそっぽをする。
「何の話か分かってるな」
「中間のこと」
「違う。最近の悠芽のことだ」
僕は虚ろに剣呑な眼をテーブルクロスに放った。
生々しい虫の声が、頭に痛い。とうさんの背後のガラス戸が、網戸をかけて開けられているせいだ。秋の夜の涼しい風で、カーテンが気だるく揺らめいている。
「最近って、別に、何にもないじゃん」
「しらばくれなくていい。おかしいのは分かってるんだ。ずっと、様子を見てたんだが」
いまさら何を言うのか。そんなの嘘だ。見ていて、なぜあんなに僕を掃き捨てられたのだろう。
恐怖や緊張で関節が痺れて、吐きそうに気分が悪い。
「こうして、考えさせられたのは試験の結果だが──いったい、どうしたんだ」
「……何が」
「何かあるんだろう」
「別に」
「気に入らないことがあるなら、言ってくれないと」
「何にもないよ」
「何かあるから、こんなに成績も落ちたんじゃないか」
「ちょっと気が散ってただけだよ。期末ではちゃんとするから」
「とうさんは、成績を保ってればいいとは言ってないんだ。悠芽の成績をこんなふうにさせたものが気になるんだよ」
とうさんの顔を直視できない。嫌悪があるのだ。それに少し愕然とした。
「学校か」
僕はしばし無反応を保ったものの、軆が窮屈になる沈黙に耐えかね、かぶりを振った。
「……家か」
これには何も反応せず、沈黙からも遊離した。
虫の澄んだ声を残して、片づけの食器の音が止まり、とうさんとかあさんが視線を交わす気配がする。
「ねえ、悠芽。おかあさんたちは、そんなに悠芽を束縛する気はないのよ」
逆だ。放置が僕の神経をかきむしっているのだ。
「何か言いたいことがあるなら、遠慮せずに言って。おかあさんたちは、ちゃんと受け止めるわ」
「悠芽が、希摘くんを大事に想ってるのも分かってるんだ」
……希摘? 何で、希摘が出てくるのだろう。
「この頃、落ちこんでるそうだな。でも、自分の自由を投げ捨てても構うことはないんじゃないか。希摘くんには、希摘くんのご両親もいるんだ」
「……希摘は悪くないよ」
「分かってる。しかし──」
「希摘は悪くないっ。希摘がいたから、成績落ちただけで済んだんだ」
僕は素早くとうさんを睨み、ついで、視線をジーンズの膝に戻した。やや臆した空気がして、「じゃあ、何なんだ」ととうさんはテーブルに前膊をつけて身を乗り出す。
「何でそんなに突っ張ってるんだ」
うるさかった。もう聞きたくない。耳をふさいで、自分の部屋に閉じこもりたい。
いまさら構ってほしくなかった。僕は放置に慣れてしまった。いまさら構われても、侵害としか思えない。
「黙ってちゃ分からないだろ」
焦れったいいらだちが胃に込み入って、頭が痛むようにぐらぐらする。
「この頃の悠芽は、目にあまるぞ。いくらとうさんたちが、遥くんにかたむいて、目を緩めているからといって──」
はっと目を開いた。ついで、何も聞こえなくなった。真空の空白に、冷や汗がつたった。
何て……言った?
今、僕の父親は何て言った?
途端、早くなる心音が鼓膜を圧迫した。絞りこむ白光が一瞬で頭の中を駆け抜け、僕は反射的に椅子を立ち上がった。
「ふざけんなよっ」
派手にテーブルをたたくと、食器が跳ね震え、驚いた目が目に入った。
「まだ分かんないのかよ、あんたたちが僕をないがしろにするのがムカつくんだよっ。遥のことばっかりで、僕はあんたたちにとって何なんだよ。目にあまる? どっちが? 遥に構って僕はほったらかし! あんたたちは区別がついてない、放置と自由は違うっ。それとも何? 心に傷がなかったら、ほっといていいの? 寂しくないと思うの? ふざけんなよ、僕だってつらいんだよっ。あんたたちのせいだ、何で僕がこんなになるまで放ってたんだ。何だよ、僕もあんたたちの息子じゃないのかよっ」
とうさんもかあさんも、停止して茫然としていた。こんな、僕の狂暴な牙を見るのは初めてのはずだ。僕もこんな沸騰したような感覚は初めてだった。
食卓を外れてリビングを駆け抜けようとしたとき、僕はいつのまにかそこに突っ立っている人がいるのに気づいた。
遥だった。
親と同じく、茫然としている。憎悪に息切れる僕は、遥のすがたを見ると、再び白光の混乱に襲われて牙を剥いた。
「お前が来たせいで、めちゃくちゃだ!」
わめきながら僕は遥に突進し、彼の黒いシャツの胸倉を引き抜くように乱暴につかんだ。遥は子供のように驚いた目を僕に向ける。それにまっすぐ映る僕の目には、殺意が煮えたぎっている。
「虐待されてたら、心に傷があったら、そんなに特別なのか!? お前なんか普通だっ、どうせどこにでもいるんだよ。同情に訴えやがって、ひとりで生きていけるくせに。心の傷を武器にするんじゃねえ、汚いんだよ!」
僕は腕に渾身こめて遥の胸倉を引くと、よろけた彼を両親のいるダイニングへと突き飛ばした。無力に尻餅をついた遥を見て、僕は麻痺した嘲笑をもらす。
「よかったね、あの人たちはお前のもんだよ。こんなとこ、もう僕の家じゃない!」
リビングのドアを開けたとき、「悠芽」とやっと声が聞こえた。聞かなかった。何も持たずに玄関へ走り抜け、スニーカーに足を突っこむと、もどかしく鍵を開ける。追いつかれる前に、家を飛び出した。
門も開けっぱなしにして道路に出て、無意識に疾走した。冷たい風がほてった頬を切り、心臓はのたうつように跳ね上がっている。喉がすりきれて、呼吸がずきずきする。
頭の中は、強盗に引っかきまわされたようだ。自分が何を感じているかもばらばらでつかめない。ただ、ものすごく痛い。その痛みに駆られ、僕は脇目もふらず宛てもなく、月明かりと街燈の道を引き裂くみたいに、どんどん家を遠ざかっていった。
【第六十五章へ】