ここが僕の家だから【1】
あとから来たのに真実味を持たせつつ、捜索願いなどで事が大きくなるのも防ぐため、日づけが変わる頃、僕が今になって現れたとおばさんが天ケ瀬家に電話を入れた。
取り乱しているとか何とか、慌てて伝える様子は真に迫っていて、のんきに歯を磨く僕は感心してしまう。通りかかったおじさん曰く、あれは大昔の売春用の皮の名残だそうだ。口に歯磨き粉を溜め、僕と希摘が顔を合わせていると、「あたしも捨てたもんじゃないわね」とおばさんは満足げに電話を切った。
電話の相手はかあさんで、とうさんはまだ僕を探しに出ているらしい。おばさんはかあさんに、今夜は僕のことは泊まらせるのと、明日には僕を連れていくのを約束した。後者は建て前で、ちゃんと僕を預かる話をしてくれるという。
希摘の部屋で熟睡して、心身を落ち着けた僕は、次の日は学校は休めても、家には行かなくてはならなかった。
「行きたくない?」
一緒に夜に眠った希摘は、まだ眠そうな半眼でベッドをごろごろして、床に敷いたふとんに座る僕に問う。希摘より早く起きていた僕は、「うん」と唸るように答え、服の皺を引っ張ったり、寝ぐせの頭をかいたりする。服の自分の匂いと、ふとんの違う匂いが混じっている。
「かあさんがひとりで行くってのは、無理なんですかね」
「僕の服とかも取りにいかなきゃいけないし。たぶん、おばさんの話だけじゃ、親が納得しないとこもあるよ」
「そっか。俺がなあ、ついてってやれたらいいんだけど」
「いいよ。今、希摘に塞がれたら困るもん」
「でも、たぶん車で行くしなー。悠芽んちなら行ったこともあるし。行けるかな。どうかな」
「大丈夫だよ。無理しないで。おばさんはついててくれるんだし」
「んー、かあさんも行くんだよなあ。悠芽も一緒だしなあ。何なら、ついてくよ?」
僕は寝ぼけまなこをこする希摘を見て、「でも」と躊躇してしまう。無論、希摘がいたら心強くても、彼までこんな厄介に巻きこみたくない気持ちもある。
「僕んちには、遥がいるよ」
「ちょっと見てみたい」
「……そお。ん、まあ、僕は希摘がいてくれたら心強い」
「学校に行くわけでもないしな。たまには友達っぽいこともしないと」
「ほんとにいいの?」
「うん。何時間もいるわけじゃないだろ。荷造りも手伝ったほうが早いし」
あくびを噛んで、ぐっと肢体を伸ばした希摘は、ふとんを跳ねやって起き上がった。
希摘が外に出るなんて重症だ。回復だとは思わない。そこまで僕は、彼に心配をかけているのだ。「ごめんね」とぼそりと言うと、「ん?」と希摘は不思議そうに咲ったけれども。
かくして僕は、希摘とおばさんに付き添われて、家に帰ることになった。おじさんはすでに出勤した朝食時、希摘がついていくのを聞いたおばさんは、「男の友情なのかしらね」とバターが香ばしいトーストをかじっていた。
それでも希摘は、外に出ることに恐怖と警戒はあるらしい。帽子、ルーズパーカー、だぶついたジーンズで性別年齢不詳となって、彼は玄関に来た。ストリート系の息子の趣味に、ご満悦なスーツのおばさんが言うには、希摘は外に出るときには、そんな格好をするのだそうだ。
「何で?」と僕が臆しながら訊くと、「俺だって分からなきゃ俺が外に出た証拠にならないから」と希摘はきっぱり返した。よく分からないけども、希摘も一応けっこう病みがあるんだな、とは思い出す。そんな希摘と僕は後部座席に乗りこみ、おばさんの運転で天ケ瀬家へと向かった。
秋晴れの元の十数分の乗車中、僕は夕べの自分の暴言を思い返した。あのときは真っ白になっていて、記憶も読みにくい走り書きのようにしか残っていないけど、普段の僕に較べれば、段違いにどぎつかった。僕でなくとも、どぎつかったかもしれない。
胸が憂鬱な不安に冒され、瞳が暗い海を泳いで怖くなる。両親は怒っているだろうか。遥との仲を考えるといっても、昨晩でダメになった可能性も高い。暗澹とした先行きに細い息をついていると、希摘になぐさめてもらうヒマもなく、車は家に到着した。
おばさんがドアフォンを押すと、かあさんは内線には出ず、直接玄関に出た。おばさんの脇に僕のすがたを認めて、見るからにほっとする。
でも僕は、緩やかな日光や涼やかな風にぶつぶつする希摘が気になっていた。かあさんに微笑み返すことも、突っ張ることもできない。「大丈夫?」と僕が訊くと、希摘は一応うなずいた。「車にいてもいいのよ」とおばさんが車の鍵を見せると、断固首を振ってもいる。
エプロンすがたのかあさんが門のところに来て、「どうぞ」とかんぬきを外した。
とうさんは、いなかった。とうさんは会社を休もうとしたそうだが、とうさんがいては僕が緊張するかもしれないと、かあさんが諭したそうだ。まあ、そうかもしれない。
家に入って、外気から解放された希摘は、「悠芽の匂いがする」と僕を向いた。僕は咲い、「僕んちなんで大丈夫だよ」と靴を脱ぐ。希摘はうなずくと、帽子は取り、続いてワインレッドのスニーカーを脱いだ。
希摘を見るのは数年ぶりのかあさんは、息子の親友のすがたに面食らいつつ、一行をリビングに通した。
窓が透く陽光に明るいリビングでは、暗色の遥がテレビの前でぼんやりしていた。昨日、彼を手ひどく罵倒したのが頭によぎり、僕は心臓を硬くさせる。
ドアが開く音に首を捻じってきた遥は、見知らぬ女性と見知らぬ少年に、数ヵ月ぶりに渋面した。教室でよくやっていた、あの無愛想な顰眉だ。
「あれが?」と希摘は僕に耳打ちし、僕はうなずく。聞くだけだった遥が実物になった希摘は、おもしろそうな光を瞳に宿らせる。
「遥くんは、少し部屋に行っていてくれる?」
かあさんに声をかけられると、遥は素直に立ち上がって、リビングを出ていった。僕には何も発さなかった。月城親子は遥の挙動を目でたどり、ドアが閉まると、「男前だわ」と母親がつぶやく。
「かあさんは相手にされないよ。おばさんだもん」
「うるさいわね。クソガキにおばさんなんて言われたくないわ」
かあさんがお茶を淹れている隙に、希摘とおばさんはいつも通りやりあう。おばさんなりの、希摘の恐怖をほどく気遣いだろう。
かあさんが戻ってくると、おばさんは上品な笑みを取り返し、希摘は僕のそばに寄った。「怖い?」と僕は小さく問い、「頭で分かってるだけじゃダメだね」と希摘は下を向いて咲う。
「夕べは、うちの人が少し乱暴を働きまして。ごめんなさいね、反省しておりましたわ」
優雅に腰を下ろし、紅茶を飲んでにっこりしたおばさんに、かあさんはやや気圧され気味に咲い返した。このふたりは、母親としても女性としてもタイプが違う、と思う。同じ教室にいても、絶対に同じグループにはならない感じだ。
昨夜のこと、僕が来た経緯、事情を聞いた件、話をさくさく進めたおばさんは、僕をしばらく預かる話題へと漕ぎつけた。かあさんは、よく理解できないような当惑を見せる。
「でも、こちらとしては、預かっていただいても──」
「ご心配なさらずとも、悠芽くんの気持ちは、うちの希摘が落ち着けてみせますわ」
かあさんは、希摘に目を移す。希摘は、希摘らしくない引き攣った笑みをした。
「ですが、しばらく暮らすのでしたら、お金とか──」
「うちはもっと生活が苦しい頃、あとふたり、子供を養っていましたもの。もちろん、気になるなら生活費だけいただいても」
「ええと……あの、そんな簡単に決められることでもないですし、主人も交えて悠芽と、」
「お話がきちんと伝わらなかったようですわね。悠芽くんがこのおうちにいられるように、しばらくうちで預からせていただいて、今は距離を置かせたらどうでしょうか、という相談なんです」
「……今すぐ、連れていくんですか」
「私たちに、お宅の問題は関係ありませんわ。悠芽くんがまたどこかに行っても構わなければ、このまま帰します」
かあさんも、この女性が並みの女ではないのには気づいたらしい。
負けたように息をつき、「今、私と悠芽が話すのはいけませんか」と最後の頼みといった様子で顔を上げる。おばさんは僕を振り向き、僕は希摘と顔を合わせ、「ちょっとなら」と一考したのち譲歩した。
希摘とおばさんには、お茶菓子と共にリビングにいてもらって、かあさんは僕を和室に連れていった。床の間や箪笥のあるここは、リビングより涼しくて、たたみの匂いがする。窓にかかる障子越しのしっとりした陽射しに、明かりをつける必要はなかった。裏の家に面していて、何やら物音が聞き取れなくもない。
中央あたりで向かい合って、正座と立て膝で座ると、かあさんは僕が継いだ瞳でこちらを見て、何とも言えないため息をついた。
「何?」
「……さすが、希摘くんのおかあさんね」
「僕、おばさん好きだから、陰口には乗らない」
「陰口ではないけど……。事情を話したって、どのぐらい話したの」
「内情は別に話してないよ。遥が来てごたごたしてるって、それだけ。僕の気持ちはよく知ってる。希摘が寝てて会えなかったら、おばさんが話相手してくれてたし」
「寝てる、って」
「かあさんには、さっきの希摘は病んでるように見えただろうけど、ほんとは希摘の精神が不安定なんて嘘だよ。僕はただ、この家にいるより、希摘といるほうがよかっただけ」
かあさんは僕を見つめ、小さい水たまりのような息とうつむいた。立て膝を抱きこむ僕は、不信感でかあさんに壁を感じている。頬にかかった髪を耳にかけたかあさんは、僕を見つめ直した。
「びっくりしたわ、夕べは。悠芽がそんなに思い詰めてたなんて」
「やっぱり、気づいてなかったんだ」
「………、どうして、早く言ってくれなかったの?」
「言ったら、わがままだって切り捨ててたでしょ。たとえ分かったとしても、医者が出てきて僕より遥を見ろって言ったら、それに従ってたよ」
「どうして、先生が出てくるの?」
「遥が呼べって言ってたよ、たぶんね」
「遥くんは、先生を嫌ってるでしょう」
「でも、都合よけりゃ使うよ。今のあいつはね。かあさんたち、ほんとに気づいてないの?」
「気づいてないって──」
「遥の塞ぐのも暴れるのも、演技だって」
かあさんは、表情を止めた。そして、その無表情を笑みに飽和させ、「何言ってるの」と動揺した口調を発する。
「そこまで、ひがまなくても──」
「ひがみじゃない。夏休み前は本物だったと思う。入院して、九月に帰ってきて以降は嘘だよ。あ、こないだ僕とふたりきりになったときは本物だと思う」
「どうして、演技だと思うの?」
「矛盾してるから」
「矛盾……?」とかあさんは眉を寄せ、僕は久しぶりに遥の分析を親に伝えた。遥は暴れるとき理由さえなくなり、それは悪化のはずなのに、なぜ手懐けやすくなっているのか──
「遥の造りごとなら、答えは簡単だよ。コントロールしてるから。心を開いたふりで、かあさんたちを自分になびかせてるんだ」
「遥くんに、そんなことをする必要があるの?」
「とうさんとかあさんを味方につけて、僕を家からはじきだそうとしてんじゃない? かあさんたちが、遥に遊ばれてるのは事実だよ。遥が落ちるのと切れるの、本気かどうかは僕はわりと分かる。情感っていうのかな、それが違う」
「………、どうして遥くんは、自分を分かってくれる悠芽を、引きこまなかったのかしら」
「僕がいろいろ核心に触れてこようとするのが、ムカついたんじゃない? 遥は深く考えられることもなく、鈍感にされるほうがよかったんだ」
かあさんは、傷ついたようにうつむいた。ジーンズのすれた膝をいじる僕も、言い方がきついのは自覚していた。それでも、気分は冷めていた。感じている壁のせいもあるし、気づかせないほうが悪意だと思うせいもある。
【第六十七章へ】