壊れた家
この家にいる限り、きっとまともにはなれない。
狂った父親。冷たい母親。病んだ姉。切れる弟。
誰ひとり、この家に正常な奴はいない。
精神病院のことを英語でマッドハウスと言うらしいけれど、本当に、この家は精神病院じゃないのか?
いつも、夕方が過ぎたくらいに目を覚ます。まだまぶたが痛んで開けられないまま、とりあえず、ベッドスタンドに置いて寝たはずの煙草とライターをたぐりよせる。
フェイクシープの毛布を肩まで引っ張り上げ、火をつけて灰皿の上で一本吸う。火種が薄暗い部屋の中でほんのり灯り、吸うと赤みが増す。煙たさが鼻腔を撫で、まずさが軆の中に満ちて、代わりに腫れぼったい眠気が排出されていく。
右隣の姉の部屋は静かで、左隣の弟の部屋では落ち着かない物音がしている。またあいつ機嫌悪いのか、とだるく思いながら、爪先を毛布に絡める。少し足元が寒い。
十一月に入って、やっと気候も秋らしくなってきたようだ。目をこすり、もう度が合っていない眼鏡をかけると、ぼんやり部屋の情景を視界に映す。
スリープにしただけで落としていないPC、何年もかけかえていないカレンダー、低く唸っている小型冷蔵庫。
家族が動いているあいだは引きこもるようになって、五年ぐらいだろうか。中学生の頃から、電車も止まる夜になってから家を出て、隣町まで歩く。行き着くのは天鈴町という無軌道地帯で、特に俺は北区の彩雪をふらふらする。
時計に目を凝らすと、時刻は十八時を大きくまわっていた。腹減った、と煙草を灰皿につぶすと、ベッドを降りて冷蔵庫から適当に菓子パンを取り出す。いちごジャムの芳香がこぼれる。
ベッドサイドでそれをもぐもぐ食べて、一階からいらだった父親の声がしているのに気づく。もう帰ってきたのか。弟の機嫌が悪いわけだ。また喧嘩始めたら鬱陶しいな、と案じながら、ジャムパンで胃をなだめるとまたベッドにもぐりこむ。
俺たちの父親は、いつもいらいらしている。何かにつけては怒鳴り、容赦なく暴力も振るう。俺も幼い頃から引きこもりはじめるまでは、毎日がさんざんだった。
いきなりストレートを打ちこまれることは少なかったけれど、ちぎりそうに耳をつねられたり、熱い味噌汁を投げつけられたり、「死ね」なんてしょっちゅう言われた。引きこもるようになって、当然それを理由に怒鳴りこまれることもあったが、ホームセンターでドアに鍵もつけて、ずいぶん理不尽な虐げにさらされることはなくなった。
そんな父親に怯えて育ち、三つ年上で二十歳の姉は、典型的なメンヘラになった。まったく続かないバイトをしては、何とか処方箋をもらいに病院に通っている。リスカもODも自殺未遂も、日常茶飯事だ。
ホームページで知り合ったメル友と親密になり、すぐ仲違いして情緒不安定になる。学生時代はリアルの友人もいた様子だけど、おかしな基準に引っかかると切り捨てていたから、たぶんもう残っていない。ひとりごとが多いので、夜中に部屋にいるとぼそぼそうるさくて、こっちの気がふれそうになる。
姉はそんなふうに内面にねじれ、弟は逆に外側にひねくれた。中学三年生になるが、子供の頃から破壊衝動がすごかった。すぐに切れて、わめきながら壁を蹴ったり物を床にたたきつけたりする。
軆が大きくなって、父親との喧嘩も互角になってきた。怒鳴り、噛みつき、髪を引っ張る。弟は姉を「根暗」、俺を「陰気」と呼んで、もちろん毛嫌いしている。ときどき、昼間から学校をサボって女の子を部屋に連れこむ。就寝中の俺もさすがに目が覚めてしまうが、ヘッドホンをしてまた寝てしまう。
そんな家族に、俺は心底うんざりしている。みんなうんざりしている。でも、母親だけは読めない。
父親が子供たちを蹴りつけていても、姉の自殺未遂で救急車が来ても、弟の教室での横暴さに教師が話し合いに来ても──もちろん、俺が自堕落に引きこもっていても、母親はそっけない表情のまま、深く関わろうとしない。感情がないのかもしれないと思うほど、家事も育児も事務処理にしている。
きっと、この家で一番恐ろしいのは母親だ。父親も、母親のことだけはなじるぐらいで殴りはしない。
ばたんっとドアを閉める音が響いて、どうやら弟が一階に降りていった。父親の横っ面をはたくのか、母親の無機質な料理を食べにいったのか。
姉はやっぱり静かだ。この時間に物音がしないということは、寝ているのではなく、おおかた手首を切っているとかそういうことをしている。
やっぱおかしいよこの家、と俺は毛布の中に縮み、目をつぶる。
深夜まで息をひそめ、家族が寝静まると俺は部屋を出る。常夜燈ひとつ残っていないが、明かりはつけずに手探りで行動する。部屋は寒かったのに、わりとちょうどいい涼しさだった。
キッチンに残っているものを勝手に食べ、洗濯物をまわすあいだシャワーを浴び、部屋の物干しに洗濯物を干す。少しだけPCでネットを泳いでから、眼鏡をはずして、また一階に降りる。そして親の財布から金を盗み、自分の財布に装備すると午前一時頃に家を出る。
天鈴町まで、歩いて一時間はかからない。繁華街を抜けたあたりから、イルミネーションが夜を切り裂きはじめる。人がざわめき、営業中の店が増えて、夜とは思えない夜が広がっていく。この街にしかない匂いが立ちこめはじめる。
俺は彩雪のいつものミックスバーに行って、ジントニックやジンフィズを頼む。そしてぼんやり煙草をふかしたり、ほかの客と話したりして、朝五時の閉店までいることもあれば、一発目の仕事を終えたキキをちょうど捕まえて、ホテルに行くこともある。
「美羽」
キキは店内に俺のすがたを見つけると、たいていは声をかけてくる。ビアンの女の子と、片想いについて話していた俺は振り向き、同時にキキが背中に抱きついて頬に頬を当ててくる。
少しひやりとしても、驚くほど冷たい頬ではない。やはりひと仕事のあとなのか、シャンプーの匂いがする。
「彼氏?」
女の子がくすくす笑って、「こいつは売り専なのでー」と俺は首に絡みついたキキの細腕をほどく。
「俺のことは、ただの財布だと思ってます」
「思ってます」
「否定しろよ」
「確かに美羽は財布だもん」
俺は舌打ちして、澄んだレモンが香る透明な酒を飲む。「何かおごって」と言われて、「はいはい」と俺はキキにメニューを渡す。
「美羽、口説かれてたの?」
「この子、ビアン」
「レズ淫売もそろそろ表面化すべき」
「普通にいるよ、女の子に売る女の子。あたしも引っかけにいくかなー」
「片想いしてる子は?」
「そこはそれ」
「はは。うまくいくといいな」
「ん。ありがと」
そう言ってにこっとした彼女が去っていくと、キキはその席に腰を下ろして、カウンター内の男の子にカシスソーダを注文した。「同じ伝票にしといて」と俺が言い添えると、男の子は承知して、新しい伝票でなく俺の伝票に注文を書きこむ。
「このあと、仕事あるのか」
「あったらおごってもらってる場合じゃないよ」
「じゃ、ホテル行こうか」
「うん。それで、今日はもう終わろー」
キキは、後ろ盾はあっても、店に縛られない男娼だ。出逢ったのはこのミックスバーで、キキが張っているときだった。声をかけたのは俺だった。単にルックスが好みだったからだ。
茶髪にヘアピンをさし、生意気な瞳をしていて、全体的な線も細くもろい。「俺、売るだけだよ」と言われたけれど、それでもいいからつながりたかった。
キキ曰く、「俺の客はショタコンが多い」。俺は別にショタではないけれど、BLとかけっこう好きだから、そういう世界から抜け出してきたようなキキに惹かれた。まあ、値段もそんなにぼったくってこないし、ちょっと金のかかるつきあいをしているくらいに思っている。
「美羽、最近よく買ってくれるね」
カシスソーダを飲みながら、キキが上目遣いで言ってくる。呼び捨てなのは俺からそう頼んだ。
「いないの、いい男」
「いないな」
「美羽は、もうちょっと見た目気にしたほうがいいよ。髪とかいつもぼさぼさじゃん」
「これはシャワー浴びてからここに来るからだって」
「ヘアクリームでまとめなさい」
「女でもないのに」
「あと、見えないっつってすぐ目を細めるでしょ。コンタクトを買いなさい」
「目に何か入れるって何? 自傷行為だろ」
キキは肩をすくめて、カシスソーダをごくんと飲む。それを眺めて、俺は頬杖をつく。
「キキさー」
「ん」
「精子もそんなふうに飲むよな」
「慣れた味ですので」
「ふうん」
グラスを手にしかけて、ちょっと座り直す。
「あー……自分で言っといてちょっと勃った」
「トイレ行く?」
「……ホテル行く」
「よし」とキキはにやりとして、カシスソーダを空にするとスツールを降りた。俺は飲みかけのまま会計をして、キキの手をつかんでバーを出る。
このバーは雑居ビルの三階だ。落書きだらけの狭いエレベーターホールで、「大丈夫?」とキキが覗きこんでくる。
「え、何が」
「そのへんで、軽く抜いたげるよ?」
「……そこまで本気で勃ってない」
キキはからからと笑って、『▽』ボタンを押した。エレベーターが来ると、誰も乗っていなかった。
キキの肩を壁際に当て、深いキスを交わす。飲んでいた酒の味が唾液で混ざる。
「口の中に性感帯あるって知ってる?」
息継ぎのかすれた声でキキがささやき、俺は首をかしげる。
「どこ?」
「口開けて」
素直に口を開けると、キキは背伸びして俺の上顎を舌でくすぐった。確かに独特の刺激が走って思わず肩を揺らすと、キキは笑みを噛みながら俺を人混みの中に引っ張る。
すれちがう人に当たらないよう気をつけながら、やっぱかわいいなあ、とぼんやり思う。キキに恋はしていないつもりだ。でもやっぱり、恋人にできたらいいのになと思う。
【第二章へ】