捨てられた子供
「こんばんは」と声をかけると、スピーカーのそばのソファに集まっていたLUCID INTERVALのメンバーが顔を上げた。みんな俺の顔を憶えていてくれたようで、笑顔だったり会釈だったりをそれぞれくれる。
「また行くってコメント嬉しかった」と雷樹さんがかがめていた腰を伸ばし、ソファに座っている保摘さんと真砂さんはテーブルに散らかした紙を手にして、透由さんはそれを覗きこみなおす。
「CDにもいろいろと共感しまして」
「そっか。ありがと。相変わらず引きこもってんの?」
「働きたいなー、とは思ってきてるんですけどね」
「お、変化じゃん。つか、今の資金源って何?」
「親の財布から盗んできてますよ」
雷樹さんはおかしそうに噴き出した。「まずそれやるよな」とさいわい顰蹙はされなかった。
「俺もやったよ」
「訊いていいのか分かんないんですけど──いいですか」
「うん」
「雷樹さんって、いくつのときに保護とか」
「んー、小学生が終わるぐらいのときかな」
「保護されて、何というか、よかったですか」
「どうだろうな。されたときはほっとしたけど、施設ってやっぱ集団生活じゃん。これって自由死んでると思った」
雷樹さんはミネラルウォーターを飲み、「そうですよね」と俺は今日はライヴハウスである店内を見やった。奥にステージ、左右はソファ、フロアは立ち見のようだ。ちなみに今日はビルの一階で、預けるところがないようなので荷物は自分で持っている。
「俺も訊いていい?」
「あ、はい」
「美羽くんって、実際どんな感じなの? きーくん、狂ってるとか言ってたけど」
「あー……父親は、殴るとか。母親はそれ含めて俺らに無関心。俺んちの場合は、姉弟がイカれてんですよね」
「姉弟いるんだ」
「姉と弟です。姉はメンヘラ。弟はキレやすい。父親が暴れ出すと、弟がブチ切れて喧嘩になって、その大声に姉はリスカ始めて。母親は我関せずで、俺は──まあ、部屋から出ませんね」
「なるほど。狂ってるね」
俺は顔を伏せて笑って、「あんまり気にしたことなかったんですけど」と息をつく。
「こもってれば、俺にはほとんど何もないし。でも、そういや愛されるってどんな感覚なんだろうってこないだ思って。自信がぜんぜん出なかった」
「好きな人できたってこと?」
「たぶん」
「恋愛かー。俺は微妙だからな。片想いかもしれないし、友達には両想いじゃねえのって言われるし」
「友達以上、恋愛未満」
「近いな。そうだな、俺も愛される人間だって自信があればぶつかれるのかもしれない。あいつにも──愛されることは必要なんだろうしな」
「訳有りさんですか」
「十五で施設出たあと、透由と悪さばっかりしてて。一年、更生施設にいたんだ。そういうとこって、男女きっぱり別れてるけど、合同作業のときもあって、そういうときしゃべってた女がいてさ。出所時期も同じくらいで、今でも会ったりする。ライヴにもたまに来るよ」
「微妙ですね」
「だろ。あいつがしてたのは売りだった。よくある理由。寂しかったからって。でもやっぱ、『じゃあ俺が』って自信持って言えないよな」
ふと透由さんが顔を上げて、「そうやってぐだぐだして、持っていかれてから後悔するのはやめろよ」と金髪の奥で目を眇めた。何やら話がまとまったのか、保摘さんと真砂さんは紙をまとめている。
「透由には分かんねえんだよ」
「透由さんは誰かいないんですか」
「いるよ。四歳年上の彼女。今二年目」
「ムカつくことに、かなり美人なんだよなー。まあだから透由はナンパしたんだけどな」
「ナンパとかするんですか」
「いや、声をかけないと後悔すると思ったレベルの美人だった」
「男いなかったんですか」
「寝取った」
「……けっこう行動的なんですね」
「透由は軽すぎる」
紙をクリップで留める保摘さんが眉を寄せてつぶやく。
「いつ浮気されてもおかしくない」
「浮気しても俺のところに戻ってくるならいいんだよ。年上とつきあう気持ちはお前も分かってんだろ」
「保摘さんも彼女いるんですか」
「ああ。同棲してるよ、こいつ。ここの近くのライヴハウスの店長の娘さんでさ、ライヴ活動はじめた頃から続いてる」
「二年くらいですか」
「僕は浮気されるくらいなら別れる」
「かわいげがないなー」
「まあそれだけ惚れてんだろ」
「真砂さんはどうなんですか」
俺が首をかしげると、雷樹さんと透由さんがいきなり噴き出した。え、と思いがけない反応に目をしばたくと、真砂さんはため息をついて苦笑しながら俺を見る。
「僕はいないよ。大事な子はいるけど、妹みたいなものだから」
「妹、ですか」
「雷樹と透由にはロリコンを認めろって言われる」
「え、そんな年下ですか」
「十六歳。高校一年生だよ。その子も事情があって赤ん坊の頃から施設にいてね。僕も施設にいた頃から、よく面倒見てた子なんだ」
「真砂は僕ともよく遊んでくれた」
「うん。保摘は弟だと思ってるよ」
そう言って真砂さんは微笑み、保摘さんはうなずく。
「向こうは真砂の嫁になるのが夢なんだろ」
「叶えてやれよ。十六なら娶れるぞ」
「高校行ってて人づきあいが広がったら、あの子は自然といい彼氏もできるよ」
そう真砂さんが肩をすくめたときだった。突然、「美羽っ」と声がして、振り返る前に背中に誰か抱きついてきた。「え、」と誰なのか確かめられずに狼狽えていると、「お、きーくんも来たんだ」と透由さんが言って俺はどきんとした。
「ん、結良ちゃんは?」
「バイト。このライヴのあと、俺も仕事。週末だもん」
「え、ちょ……何だよ、キキ?」
「美羽の軆は落ち着くなー。結良の前じゃ男にべたべたできない」
「お前ストレートなんだろうが」
「男に甘えるのは嫌いじゃない。男に好かれるのも嫌いじゃない」
そう言って、キキはやっと俺の腰に巻いた腕をほどき、ひょいと正面に現れて笑顔を作る。今日はヘアピンをさし、軆の線に合わせた服を着ている。俺は何だかちょっと気まずいのだけれど、キキは何も気にならない様子で俺の隣でにこにこして、LUCID INTERVALのメンバーと話している。
そのうちほかの客が話しかけてきて、「一緒に観よ」とキキは俺の手を引っ張ってソファに腰を下ろした。仕方なく俺が隣に座ると、キキは「わりとショック」とつぶやいた。
「え」
「買ったの? あのにいちゃんのこと」
「………、関係ないだろ」
「もし結良のこと知らないままなら、乗り換えなかったよね」
「乗り換えるというか──」
「ライヴ来るとは思ってなかったんだもん、ほんとは。引きこもりだし」
「俺が悪いのかよ」
「もう俺のこと買ってくれないの?」
俺はキキを見て、瞳に当たった濡れた瞳に少し動揺する。
何だ。客がひとり離れようが、こいつにはいくらでも男がいるだろう。
でも、視線をはずすことができない。
「あいつのは、俺より良かった?」
「……俺の勝手だろ、全部」
「飽きるのはいい。買わなくなるのも勝手。でも、盗られて終わるのだけは絶対に嫌だ」
「別に──盗られてないだろ」
「じゃあ、続けてくれる?」
「あの人、俺から金とか取ってないぞ」
キキは眉を寄せた。俺はまっすぐ見つめ返す。キキはやっとうつむくと、俺の服をつかんで、「もっと最悪だ」ともらした。
「何だよ。キキだっていくら男に売ろうが、あの子が本命なんだろ。だったら俺も、」
「……一番がいいもん」
「は?」
「みんな俺のこと一番にしない。しょせん結婚してるんだ。しょせん恋人作るんだ。でも、美羽は違うって……」
「俺はキキの一番じゃないのに?」
キキは唇を噛んだ。俺は息をついて、キキの手に手を乗せて服からはがす。
「それに、彼女はキキを一番にしてるじゃん。こないだ見た感じ」
「結良は男じゃないから」
「だから、お前ストレート──」
「男じゃないと、ママより俺を見る男じゃないとダメなんだ」
俺が口ごもったとき、キーッ、と甲高いギターが響く音がスピーカーからあふれてきた。歓声が上がって、LUCID INTERVALではないバンドがステージに立つ。キキは目をこすって、俺に顔を見せずにステージを向いた。
何だよ、と舌打ちしたくなりながらも、俺は背後からキキの耳元に口を寄せた。
「あんまり持ってないぞ」
「……何を」
「金だろうが」
キキの肩が揺れる。「だから」と俺はキキのヘアピンに触れる。
「今日はお茶だけおつきあいしてくれますか」
キキが小さく振り返る。俺はキキの頭をぽんぽんすると、「いつも家の愚痴聞いてもらってるしな」と軆を離した。キキはわずかに睫毛を陰らせてから、こくんとして、もう何も言わずにライヴに見入った。
LUCID INTERVALの出番を見届けると、軽く雷樹さんたちに挨拶をして、俺とキキはライヴハウスを出た。ネオンがもっと明るく騒がしいほうへと歩いていく。「寒いだろ」と腕をさしだすと、キキはしがみついてきた。
「結良さえいればいいはずなんだ」
人通りが出てきてすれちがう人をよけて歩く頃、不意にキキが言った。
「結良は俺のこと全部知ってて、それでも『好きだよ』って言ってくれて、……女の子からしたら、俺なんか耐えられないと思うのに」
「耐えられない、って」
「父親は初めからいなかった。わけ分かんない歳の頃から、母親に男の誘い方を仕込まれてた。で、近所のおっさんに迷子のふりして近づいて、手出しさせるんだ。何だろ、ある意味美人局になんのかな。で、その男から、母親が金をゆする。俺は子供の頃はそういう生活してた」
キキの過去なんて、もちろん欠片も聞いたことはない。それは、十五歳で男に軆を売っているのだ。並大抵の環境ではなかったとは思っていたけれど──
「うまくできないとぶたれる。もう嫌だよって言ったときもぶたれた。でも、ママは『あんたが頑張らないと一緒にいられなくなるの』『あんたと一緒に生きていきたいからなの』って。俺もママといたかったから、頑張ったよ。しゃぶってさ、脚開いて……男なんか嫌いだった。汚くて。でも、うまくいくとママはご褒美に抱きしめてくれる。その一瞬のために、俺は男をたぶらかした」
「……もう一緒に暮らしてないよな」
「うん──。結婚した」
「結婚」
「すごくいい人がいたんだ。俺にも優しかった。ママにもね。俺たちのために働いてくれて、生活もやっと安定した。でも、おかげでママが俺を抱きしめることもなくなった。夜中に寝室を見たとき、ママと男がやってたよ。何だろう、あの感じ。疎外感かな。俺も混ざりたかった。だから、俺にもママと同じことしてって、男に迫った。ママは俺をぶって、『あんたなんかもう邪魔なんだから』って──『そういう言い方はないよ』って男が俺をかばったら、さらにヒステリーだよ。『あたしよりこの子がいいの?』って。男はママを抱きしめてなだめから、俺に『よく分からないかもしれないけど、そういうことは一番好きな人とするんだよ』って言った。一番好きな人って。俺、さんざん見ず知らずの男とやってきたんだけど。しないとぶたれてたんだけど。ママがいないとき、俺は今度は男に全部話した。男が俺を抱きしめて、『つらかったね』って……俺、ストレートだけど。あの人のことは好きだったな。だから欲しいって思った。たぶんだけど、俺はママよりうまかったと思うよ。ママがいないとき、何度もやった。ママが気づいたときには、手遅れってくらい溺れてたね。ママは男に、俺にしたことを会社にも近所にも言い触らしてやるって言った。『でも、あたしを選んで結婚して、この子をもう家に入れないなら──」
キキは俺の腕に顔を伏せて鼻をすすった。歩調がどんどん緩んでいっていて、やがて立ち止まる。
「俺は公園に寝泊まりを始めた。もちろん悪戯されそうになるよ。逃げてたけど。そしたら、『じゃあ小遣いやるから』って、頭イカれそうなくらいお腹空いてたし、させた。そういうのが一ヶ月ぐらい経ったとき、ママと結婚しちゃった男が俺を訪ねてきた。『ここに逃げなさい』ってこの街を教えてくれた。『もうそれしかしてあげられない』って周旋屋に話を通してることも教えてくれた。それから俺はこの街で、男娼としてなら、やっとまともな生活ができるようになった」
俺はキキを見下ろした。肩が震えている。さすがに俺はその肩を抱いてやった。
「仕事のとき以外ヒマで、映画館とかライヴハウスとかよく行った。その中で、結良とも知り合った。結良は俺と同い年で、しょっちゅう親と喧嘩して家出してた。よく俺の部屋に逃げこむようになって、そのまま一緒に暮らすようになった。結良が女の軆も教えてくれた。初めは、よく分かんなかった。でもやっぱり、触ると柔らかいとか。喘ぎ声が甘ったるいとか。ああ、俺が本来求めるのってこういうのなんだなって思う。結良とやるのは好きだよ。でも、まだダメなんだ。いつかは結良だけになりたい。けど、まだ俺は男の軆に依存してるんだよ。すぐ断ち切れないよ。薬みたいなもんなんだ。いつも、男とセックスすれば、俺は幸せだったから」
「……本当に幸せか?」
「幸せだよ。もうそう思いこんでるからどうしようもない。ママにご褒美もらえた。あの男はそれでなぐさめてくれた。金だってもらえてきただろ?」
俺はキキの頭に頬をあて、「もうあの人を好きになりかけてるんだ」とささやいた。キキは息を吐いて、「知ってる」と俺の心臓のあたりをつかんだ。
「キキには、失恋したんだって思ったから」
「……俺、ちょっと遅かったね」
「間に合ってたら、結良ちゃんより俺を選んでた?」
「もしかしたら」
「そっか。惜しかったな」
「うん」
何だかふたりして笑い声をもらしていると、キキは自分から軆を離した。
「もう俺には会わない?」
俺はキキを見つめて、「友達になれるんじゃない」と言った。キキはまた笑って、「今すごくほっとした」と湿っていた睫毛をぬぐう。そんなキキの頭をくしゃくしゃにした。初めて、キキが年下のまだ幼い少年に見えた。
そのとき、何となくキキの頭の向こうに目をやった。もう人混みが流れる通りだった。その喧騒の光景の中で、数メートル先のそのすがただけ静止して立ち止まっていた。俺の視線に気づくと、その人は哀しそうに咲った。
とっさに名前を呼ぼうとした。でも、彼は身を返してすぐ混雑で見えなくなった。「美羽?」とキキが不思議そうにまばたく。俺はさあっと冷たくなって、思わずしゃがみこんで頭を抱える。
何で。何で何で何で。
キキのことは今整理がついた。やっと勇気を出して、今夜、財布の中のメアドにメールできそうだったのに。
違う。違うんだ。むしろ認めたところだよ。俺はあんたを好きになってる。
果音。
そんな微笑を最後にしないでくれよ。
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