揺籃に花-8

つなぎとめたい

 明かりもつけない部屋で、白光するPCの白い画面を睨んでいる。
 どうしよう。あの哀しい微笑が頭の中をぐらぐら揺すぶる。『ごめん』の三文字だけだっていいではないか。とにかく、何か送らなくては。向こうからの連絡はあの笑みで途絶えた。俺からその手をつかまないと、果音とはあっさり他人になってしまう。
 いきなり絶望をあらわにした俺に、キキは焦った声で声をかけてきた。俺は「今、果音がいた」とかろうじてつぶやいた。キキはちょっと首をかしげたけれど、すぐどういう意味かは分かった様子で「マジで?」ときょろきょろした。
「え、あ──ごめんっ、俺から説明する!」
「もういなくなった」
「追いかけりゃいいじゃん」
「この人混みで」
「じゃあ、誤解ほっとくの? 誤解されたってことでしょ?」
 俺はよろよろと立ち上がった。そしてそばに壁にもたれ、「マジか……」と声を取り落とした。
「えっ、その人の連絡先とか知らないの? あっ、美羽ケータイ持ってないのか」
「……一応、向こうの連絡先は知ってる。それで俺はPCのアドレス教えた」
「ほんと? じゃあ、ケータイ貸すよ。電話して」
 キキはケータイを取り出し、俺はそれを見て、大きく息を吐いてから受け取った。財布からあのメモを取り出し、もうどうにでもなれと思って慣れない手つきで電話をかけた。
 コールが続いた。出ろ。コール。出てくれ。コール。頼むから──。
 ぶつっとコールが終わり、留守電に切り替わった。舌打ちして一度切った。もう一度かけ直した。やっぱり留守電だった。「留守電だけ」とキキにケータイを返すと、「伝言残しておきなよ」と言われて、迷ったものの、できる予防線ならなるべく張っておこうと思った。「ちゃんと話したいからまた会ってほしい」と伝言を残し、改めてキキにケータイを返した。
「えーと、何、カノンさん?」
「え、ああ」
「もし折り返しの電話あったら、何とか俺からも説明しとくから」
「折り返しって、向こうはキキの番号知らないだろ」
「ケータイは着歴で表示されるの。それとも、何も言わないほうがいい?」
「………、俺が説明したい」
「分かった。じゃあ、PCのアドレスなら伝わってるんだね。すぐ帰ってメールしなさい」
「メール見るかな」
「見られても見られなくても、何か送っときなよ」
「でも留守電残したし、逆にうざくないか」
「じゃあ勘違いされたままでいいの?」
「嫌、だけど──」
「勘違いするってことは、向こうも美羽に気があるってことでもあるんだよっ。どうでもよかったら、にやにや観察しながら通り過ぎてくよ」
「そ、そう、なのか?」
「そう! 俺は、その──もう大丈夫! それに、友達ならまたいつでも会えるでしょ?」
「う、うん……」
「早くその人に連絡してあげて」
 俺はとりあえずうなずくと、「じゃあ」とキキと別れて、まだ二十二時なのに帰り道をたどってきた。コンビニにも寄らなかった。
 十一時半、家にはまた明かりがついていた。家族の顔は見たくない。でも、それ以上に果音を手放したくない。窓から入るなんて漫画みたいなこともできず、とにかく音を立てずに鍵を開けて、玄関に隙間を作った。
 真っ先に父親の声がする。それだけで嫌悪感が噴き出したけど、さいわい玄関先に人影はない。一気に廊下を抜けて、手の中には鍵を用意しておいて、部屋に滑りこめば何とかなる。何とかする。俺は家の中に入り、スニーカーを脱ぐのは音を殺した。が、ドアマットに乗ったら、すぐさま駆け出して階段をのぼった。
 案の定、父親が察知して何か怒鳴った。しばらく直接絡まれていなかったから、心臓が死ぬほどすくみあがって、鍵を開ける手がもたついた。が、かちゃっと音がした瞬間、開いた隙間にもぐりこんで、即ドアを閉めて鍵をかけた。
 足音が近づいてくる。父親がドアをたたいて怒鳴ってくる。夜な夜な何やってる。いい加減にしろ。出てこい。金も盗んでるだろ。お前みたいな奴は早く死ね──
 俺は耳をふさいで目をつぶって床にうずくまっていた。ばくばくと搏動がつづまりそうに激しく動く。弟が壁を殴るのが聞こえた。姉も「死にたい」と叫んで泣き出す。やっと父親があきらめて去っても、弟は壁をいらいらと蹴って、姉は嗚咽を引きずっていた。そういう物音の中で、俺も無意識に泣いていた。
 何でこんな想いをするのに、こんな時間に帰ってきてしまったのか。すごく考えてから、やっと果音のためだと思い出した。それから、つくえまで這って椅子によじのぼって、ようやくPCと向かい合ったのだけど、家族のせいで混乱して、書きたかった言葉が泡になってしまった。
 ただ、あの哀しそうな笑みばかりよみがえる。何か。何か書かないと。早く送らないと。失恋なんて嫌だ。たぐりよせる糸があったかもしれないのに、それを逃がすなんて──
 そのとき、ふとメール受信のベルが鳴った。俺ははっと画面を見て、受信トレイを確認した。未登録のアドレス。ケータイのアドレス──件名はなかったけど、すぐ開いた。短い文面があった。
『こんな状態にも納得できる説明があるの?
 あるなら会ってもいい。』
 納得できる説明──。とりあえず、ある、と言うしかない。仮に実際は納得されなくても、俺は真実を話すしかできない。俺は深呼吸して、返信を震える指で打った。
『軽蔑されるかもしれなくても、本当のことを説明したい。
 また会いたい。』
 送信ボタンを押すのに一分ぐらいかかってしまった。押した途端、緊張で吐き気すらした。目をつぶって唇を噛んでいると、またメール受信のベルが鳴った。
『あさっての0時からあのバーで待ってる。
 その日が無理ならもういい。』
 もちろん、俺に予定などあるはずがない。遅れたとしても絶対行くと返事をした。
 もうメールは来なかった。絶対、なんて軽はずみに聞こえただろうか。分かった、とひと言来ないだろうか。受信のベルは鳴らない。俺はふらふらとつくえを離れると、ベッドに倒れて突っ伏した。
 いつのまにか、家の中は静かになっていた。家族は寝てしまったみたいだ。怖かった、とあの声と音を思い出すと、まだ心臓が張りつめそうになる。
 平気なんかじゃない。逃げているだけだ。俺はこの狂った家に、依然として心を呪われている。
 本当のことか、と自分のメールを思い返す。何を、どこから話せばいいのだろう。こんな状況にも、と果音は書いていた。おそらく、かなりこじれて誤解されている。けれど、キキも言っていた。勘違いするということは、果音が何か俺を意識してくれていたということだ。何とかそれをつかまなくてはならない。
 翌日の夜は出かけず、LUCID INTERVALを聴きながらベッドにこもっていた。果音に早く会いたい。同時に、うまく納得させられず最後になったらと怖い。
 とりあえず、キキを買ってきたことは言わざるを得ない。淫売を買うなんて、その時点で嫌われそうだけど。
 そして、あのときはキキが不安定になっていたという状態を言う。ケータイもキキに借りたと言わなくてはならないし──
 ちゃんと信じてもらえる言葉にできるか、分からない。それでも、俺は果音を捕まえにいきたい。
 月曜日が火曜日になる夜、いらいらを煙草で抑えながら、家族が寝静まるのを待っていた。みんな、今日は妙に遅かった。家を出れたのは一時半時にもなってしまい、走って天鈴町に向かった。
 息が切れて、その息が薄く白くなる寒い夜だった。もう十一月も半ばを過ぎた。冬が近い。夜風も厳しくなり、月と星が澄んで目に沁みる。
 やがて天鈴町に踏みこむと、いったん立ち止まって息切れに咳きこんで、今度は人にぶつからないようざわめきを縫っていく。人の熱気で少し暖かい。バーのあるビルに着くと、エレベーターで三階に向かった。何だかんだで、午後三時前だ。零時から待たせているなら、もうすでに最低だ。いなかったらどうしよう、と不安になりながらも、深呼吸して扉を開けた。
 ざっと店内を見まわした。カウンターを真っ先に見た。果音らしき人はいない。胸の中がざわざわと黒くなってくる。やはり待ちくたびれて帰ったのか。
 そのとき、よく酒を用意してくれるカウンターの中の兄ちゃんが、「奥のボックスだよ」と言ってきた。とまどうままボックス席を見ていくと、一番奥のボックスのソファに誰か横たわっている。そこに歩み寄って、誰なのかを認めて、ひとまずめちゃくちゃほっとした。そこで眠っているのは、果音だった。
 床にひざまずいて、あどけない寝顔の果音の髪に指を通した。果音が少しうめく。あの香水の匂いに気づいた。それだけで心から安堵があふれてくる。小さく果音の名前を呼んだ。今度は睫毛もぴくんと動いて、ゆっくりまぶたが開く。俺の顔を認めると、あの妖しい瞳がどこか疲れを帯びて微笑んだ。
「……遅いよ」
「ごめん」
 果音は手を伸ばして、俺の頬に触れた。どきっと胸が反応する。伝わる感触は温かい。
「今何時?」
「あ、三時くらい」
「そう。二時くらいから寝てた」
「疲れてる?」
「少しね。昨日バイトがいそがしかった」
「そっか。すぐ来たかったけど、俺、自由に家を出入りできなくて」
 果音は俺を見つめた。そして、やっぱり哀しそうに咲った。何か言おうとしたけど、その前に果音が口を開いた。

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