ただいま
朝まで果音とホテルで眠った。起きたとき、腕の中にいる寝息を立てる果音が、もう俺の“恋人”なのだと思うと、くすぐったいほど嬉しかった。
そっと茶色の髪を撫でて、もうかすれた香水を嗅いで、温かい軆を抱きしめる。すると力が強かったのか、果音が身動ぎしてうめきをもらした。名前を呼ぶと俺に顔を上げ、微笑んで「美羽」と呼び返してくれる。
「起きてたんだ」
「今だよ」
「眠れた?」
「うん。果音は?」
「ん……まだちょっと眠い」
「チェックアウト何時だっけ」
「十時くらいじゃないかな。たぶん」
「まだ寝る? 今──八時前」
「美羽はどうする?」
「俺──は、別に。あ、そういや、もう帰れないな」
「帰れない?」
「明日にならないと家に入れない」
「………、自由に出入りできない、って言ってたね」
「うん……」
果音は物言いたげに俺を見つめてくる。俺はあやふやに咲って、「まあ果音が眠いならまだ一緒にいるよ」と言った。果音は俺にしがみついてから、「今度こそ、俺の部屋行こうか」とつぶやいた。
「えっ」
「そしたら、美羽もそこで夜まで過ごせるし」
「いいのか」
「俺は構わないよ」
「じゃ、あ──そうしようか」
「ん」
果音はうなずくと軆を離し、軆を起こした。白い肌に紫がたくさん咲いている。俺も起き上がって、星座を線でつなぐみたいに痕から痕に指を伝わせた。
果音はくすぐったそうに咲って、「シャワーはどうする?」と訊いてくる。
「浴びたほうがいいかな」
「俺は浴びていく」
「香水消えるね」
「香水つけてること話したっけ」
「いい匂いだから知ってる」
「そっか。メンズのフローラル系だから、たぶんわりとめずらしい」
「フローラルってことは、花?」
「うん。美羽は煙草の匂いがする」
「吸うよ。あ、苦手?」
「ううん。慣れてないけどね」
言いながら果音はベッドを降り、「一緒に浴びる?」と訊いてくる。俺は果音を見て、ちょっと笑んでしまいながらうなずく。俺たちは手をつなぐとバスルームに踏みこんだ。
よく考えたら、俺は昨夜走って天鈴町に来たので、この時期なのにけっこう汗をかいた。シャワーを浴びてさっぱりと同じ匂いになると、俺たちは服を着て、ひとまずホテルは引き上げることにする。
鍵をフロントに返すと、俺と果音はホテルを出て歩き出した。やっぱり、朝のこの街は息が絶えている。天気は良かったけれど、陽射しは強くなくて肌寒い。平日だし、徹夜で遊んでテンションが高い影もそんなに見当たらない。
「果音の部屋ってどのへん?」と問うと、天鈴町の東区の朝町あたりなのだそうだ。
「この街って家賃高そう」
「そうでもないよ。交通の便が悪いし、治安も悪いし」
「あー、そっか。そういう見方もあるな」
「美羽は外に住んでるんだ?」
「うん、歩いて通ってる。それで四十分はかかるかな」
「朝町と夕町は少し歩けば駅なかったっけ」
「あるよ。でも、俺が出歩く時間って電車止まってるから」
「……そっか。昨日も来たの三時だったね」
「うん──」
俺は果音とつないだ手を握った。果音には話したい。そう思うけれど、いざ口にしようとすると陰る意識に滅入る。暴力的な父親。無関心な母親。メンヘラの姉に、切れやすい弟。俺も昔から引きこもっている。精神病棟のようなイカれた家。ふと、果音が俺の腕に身を寄せた。
「俺の両親は、俺を大切に想ってくれてたんだけどね。想ってるぶん、つらい想いもさせたんだろうな」
「え……」
「息子が男連れてきちゃ、仕方ないよ。かあさんなんて、彼女でもいい顔しそうになかったのに」
「………、」
「大切にしてた息子がホモじゃ、そりゃあ、がっかりだよね」
「大切……なら、理解するもんじゃないのか」
「かもしれない。でも、そんな簡単じゃない場合もあるよ」
「そう、か。俺のほうが、よっぽど反応薄いのかな」
果音は気だるいまぶたのまま前方を眺め、「さあね」と答えた。俺はスニーカーを見つめた。そして小さく息をつくと、「いい理由にされるだけだよな」と嗤った。
「理由?」
「ゲイだって知られたら、きっと俺は──もっとゴミみたいにあつかわれる。子供の頃からそうだった。生まれなきゃよかったって。死んじまえって。殴られるばっかりだったから」
果音が俺を見上げてゆっくり一度まばたいた。「大丈夫?」と訊かれて、うなずいた俺は話を続けた。
「生まれたときから、そんな父親が暴れてる家だった。姉貴は泣きながら謝り続けてる。俺は何もできずに固まってる。弟は癇癪を起こして壁を蹴りつける。母親はそれを、カメラみたいな無感覚な目で見てる」
「母親は何もしなかったの」
「しなかった。家事と育児以外、ほんとに何もしない。育児っていっても、物心つくまでのあいだで、それにも笑顔はなかった気がする。機械みたいな人だよ。父親も、母親には暴力振るわなかった。怖がってるようにも見えた」
「父親は働いてるの?」
「うん。外面はいいみたい。何であんなに怒鳴って暴力振るうのかな。祖父母とか親戚に会ったことないから、もしかしたら父親も親にそういうことされたのかなって思うときもあった」
「連鎖」
「そう。母親の冷たい目も怖いけど、やっぱとっさにびくってなるのは父親の声。あの声が聞こえると嫌悪感があって、気分が安定してないときは軆が震える。こないだ久々に怒鳴られたけど、知らないうちに泣いてた。怖い、って思う。この歳になっても」
「久々だったんだ」
「父親の物音に、俺はビビってるけど弟は逆上するんだ。それで咬みつきにいって、最近の被害は勝手に全部受けてる。弟は中三で、卒業したら家出するかもしれない。高校には行く気ないだろうし、行かせてもらえないだろうし。女の子と派手に遊んでるみたいだから、適当にねぐら見つけるんじゃないかな」
「弟はストレートなんだね」
「俺がゲイだって知ったら、弟はすごい嫌悪しそう。そういうタイプのストレート」
「姉貴は?」
「ストレートかどうか以前に、処女かもしれない。二十歳かな、ちょうど。仕事するけど続かなくて、今も働いてない。ケータイでサイトとかやってるメンヘラ。リスカもすげーやってるみたい。姉貴は怯える感じかな、親に対して。で、それ以外には同情を求める。すぐネット上の人と仲良くなってるけど、すぐ何か気に入らなくて切ってるっぽい」
「典型だね」
「そういう家族がつらくて、俺は中学あたりから引きこもってるんだ。部屋のドアには勝手に鍵もつけてる。ドア壊してまでは入ってこない。その部屋で、小学校のときに開通させてたネットをやってる。中学卒業したくらいから、家族が寝静まってるあいだなら家を出れるようになったんだ。それでこの街で、適当に過ごしてる」
「誰かとつきあったりした?」
俺は首を横に振った。
「俺は、愛されるって感覚がよく分からないんだ。俺も果音に自信が持てなかった。連絡先交換したいって言ってもらったのに、それを好意だって素直に受け取れなかった。好意だったらもちろん嬉しいけど、俺なんかに好意持つかなって不安があって、ポジティヴに動けなかった」
俺が情けなく咲うと、果音の視線が頬に当たって、少し視線を重ねる。
「ごめん」
「……ううん」
「まあ、そんな感じだからケータイも持てないんだ。親が持たせるわけないし、姉貴も十八で自分で契約したみたいだし。俺も来年かな」
「そっか。俺も、ごめんね。ケータイなんて、少し前は持ってないほうが普通だったのに、悪いほうにばっかり考えて」
「それがもっと普通になっていくよ。正直、ケータイなくても困らないと思ってた。でも、果音と初めて逢ったとき初めて焦った。絶対、次があってほしいと思ったから」
俺がやっと柔らかい笑みを向けると、果音は頬を少し染めながらも嬉しそうに咲う。
「俺もあの日、美羽がシャワー浴びてるあいだ、どうやったら連絡先訊けるかばっか考えてた」
「またこうやって会えてよかった」
「うん」
「俺も早く家出しなきゃな。果音は、部屋探しとかどうやった?」
「保証人がいらないところじゃないとダメって言うネックがあって。二十万くらい貯金が一気になくなった」
「え、そんな使う?」
「使うよ。俺は敷金も礼金も取らないとこ探したけど、それでも二十万は消えた」
「……まずバイトか。まあ、俺も働きたいとは思いはじめてたけど」
いつのまにか、ビル街を抜けてマンションやアパートがちらほらしはじめていた。空も青が高くなって、風は冷たくても太陽が少し熱を恵んでくれる。
「部屋まで、あと三分くらい」と果音が言って俺はうなずき、それから少し考える様子を見せた果音は、ふと俺を見上げた。
「美羽」
「ん」
「バイトって気長に探す?」
「え。いや、早めに見つける」
「そっか。それならさ、バイトが見つかったら、ひとまず俺の部屋に来ない?」
「えっ」
「あの部屋ひとり以上で借りちゃいけないから、本格的にふたりで暮らすなら引っ越しだけど。普段は大家いないアパートだから、別にしばらく共同で暮らしても大丈夫だと思う」
「け……ど、もしばれたら」
「俺のバイトと美羽のバイトで借りれる部屋も、同時に探しはじめておけばいい」
「……一緒に、暮らしていいのか」
「ほんとは、俺が口出す権利ないけど。その家、もう長居しないほうがいい気がする」
「………、」
「ごめん、美羽の事情なのに」
「いや──」
「まあ、俺は構わないから。いつでも来てくれていいよ。あ、ここだ」
果音に引っ張られ、俺たちは古そうなアパートの一階の一室の前で立ち止まる。鍵を取り出す果音を見つめ、しばらく果音とここで、と考えた。そして、金さえ貯まったらふたりで暮らしていく。果音はそうしてもいいと言ってくれている。
俺の家は精神科の監獄だ。みんな狂っている。きっと、帰り続けているなら俺は闇を抜け出せない。家族を捨て、自立したら変われるかもしれない。今、俺は、果音を安心させられる強い男になりたい。
果音がドアを開けて、「どうぞ」と先に上がって招いてくれる。俺はスニーカーを脱いで、果音の匂いがふわりと自分を包んでくれるのを感じる。お邪魔します──そう言おうとしたのに、気づくと全然違うことをつぶやいていた。
「ただいま」
果音がきょとんして、「あ」と俺は頬を染める。謝りそうになったけど、果音は微笑んで「おかえり」と言ってくれる。
おかえり。そんな言葉をもらったのは、いつぶりだろう。もしかしたら、初めてかもしれない。一瞬泣きそうになったけど、それはこらえて、穏やかで温かい果音の軆を抱きしめる。背後でドアがそっと閉まる。
この体温が、やっと見つけた俺の帰るべき場所だ。そう思うと、とても安らかで幸せだった。よかった。俺にもそんな人がいた。もう、俺が帰るのはあの家ではないのだ。
果音が俺の背中に手をまわす。この人と生きていこう。愛されて生きていこう。素直にそう思えることにほっとする。
今、確かに俺は光の中にいる。闇が砕けていく。腕の中の心地よい温もりが愛おしい。幸せが心の奥まで流れこんできて、ずっとこの人のそばにいたい、そう願っていた。
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