病【2】
「飛季」
実富の毅然とした口調でなく、実摘の甘えた声だった。
「え」
「ごめんね」
「えっ」
「実富と同じでしょ」
「あ、まあ」
「わざとなの。僕のまんまで話したら、怖くって。僕ね、ちゃんと十五年かけて成長してるとこ、あるんだよ。でも、それ、実富のおもちゃとしてでね、実摘じゃないの。実摘としての僕は、ほっとかれてたの。だから、僕自身は赤ちゃんみたい。飛季に逢って生まれたのかな。今、僕、実富になってお話してるよ。飛季が実富嫌いなの知ってるけど、僕のままだったら、怖いの。自分の気持ちばっかりになって、ぐちゃぐちゃになりそうなの。僕、」
飛季は実摘の頭を抱いた。実摘は口ごもった。「いいよ」と飛季は彼女の耳たぶに諭す。
「実摘がしたいようにして。俺はそれを聞く」
暗中で瞳を交わした。実摘は飛季の腕に身を縮め、こくんとした。そして、目を閉じて集中すると、自己を水底にもぐらせる。
「私は長いあいだ、実富だけは私を分かってくれてると思ってた。周りの人が、どんなに私をないがしろにしても、実富は私のことを考えてくれてるって。あとで、誰よりも私のことをバカにしてたって分かるんだけど。私自身は、実富は好きじゃなかった。私を空っぽにした人だし、嫌い──というか、怖かった。私、自分と実富が気味悪いぐらいそっくりなのは、偶然じゃなくて実富の意思だったんじゃないかって思う。今はね。あの頃は、自分の考えを持つのなんか許されなくて、私には実富の命令しかなかった。漠然と、私たちの顔は呪われてるとは思っても、それ以上は暗くてつかめなかった。私は実富を信じてた。信じさせられてた。何でも言うことを聞いた。実富の言うことだったら、安心して信じていいって、思わせられてた。十一歳、六年生の夏休みだった。私の家は共働きで、家にはふたりきりだった。私には友達がいなかったし、実富には周りにたくさん人がいても、特別に親しい人は作らなかった。誰も招かなかったし、どこかに行ったりもしなかった。実富が本を読んだら私も読書で、ゲームならゲーム、宿題も一緒だった。その日も──すごく、暑かった。八月の始めで、蝉がうるさかった。絞った雑巾みたいに汗が出て、服もびしょびしょになった。お昼ごはんが終わって、私たちは部屋に帰った。もちろん、部屋も一緒だった。部屋にはクーラーなんかなくて、もっと暑かった。リビングにいようよって言いたくても、私は意見を言っちゃいけなかった。胸に汗がだらだら流れてた。着替えたいなあって思ってたら、実富が言った。『汗びっしょりだね』って。私はうなずいた。『着替えようか』って言われた。またうなずいた。実富はにっこりして──あの笑顔は、いけないの。何にも分からなくなる。実富には目がある。毒みたいな目で、こっちを麻痺させる。私は上のTシャツを脱いだ。実富は『タオル取ってくる』って出ていった。汗を拭くんだって。だったら、新しい服を着たらダメかなって、私はベッドに座って待ってた。暑さに頭がぼおっとしてた。軆がほてってぐらぐらしてた。軆がべたべたして、実富早く来ないかなあって思った。そしたら実富は戻ってきて、服を脱いでスポーツブラだけになってる私ににっこりして……同じ顔だなあって思ったのを憶えてる。実富は、私のそばに来た。ブラも脱いで横になってって言われて、私はそうした。仰向けで、実富は私の腰に馬乗りになって、私の軆を拭いた。目が合ったら実富は咲った。透き通るみたいな咲い方だった。そのときは、何でそんなに澄んでるのか分からなかった。窓も開けてなくて、部屋は蒸してた。眠たくなりそうに暑い。『ねえ』って言われた。私は実富を見た。実富は私の上に軆をかがめた。『キスしよっか』って実富は言った」
ふと、実摘は言葉を切った。飛季は彼女を覗いた。実摘の呼吸はこわばっていた。飛季は彼女の背中を慰撫する。暗闇で見つめ合い、実摘は飛季に密着する。
「私は実富に逆らえない。それで、全部始まった。私は実富にキスされた。舌も入れられた。何で実富が私とこんなことをしたがるのか、分からなかった。私が好きなのかなとも思ったけど、実富は誰かを好きになるような人じゃなかった。実富は自分が一番なの。勉強も運動もできて、性格だって何だっていいのは、それはみんなに褒められたいからじゃない。自分で自分を振り返ったとき、汚点がないことに満足してるの。実富は私とたっぷりキスしたあと、口を離した。またにっこりした。『おとうさんとおかあさんに言ったら、分かってるよね』って。私は、うなずくしかなかった。実富は私に服を着せた。その日一日、私はうつむいてた。実富が怖いっていうのが、急にせりあげてきて。おとうさんとおかあさん──誰でもいいから、言えばよかったのかもしれない。でも、言えなかった。その夜、すごく怖かった。実富がベッドに入ってきて、キスの続きをしようって言うんじゃないかって。私は毛布をかぶって寝た。実富はさっさと赤い毛布を『もういらない』っておかあさんにあげて、雑巾か何かにされてた。私は手放さなかった。『子供みたい』って、いつも両親は私にあきれてた。でも、あの家で、毛布は私の存在の切り札だった。その夜は、実富は何も仕掛けてこなかった。でも、次の日に『キスしようよ』って言われた。した。毎日した。夏休みが終わっても、変わらなかった。実富は私の軆を撫でるようになった。服を脱がされた。実富は私の軆じゅうにキスした。あそこも舐められた。冬休みに入る直前、十二歳になった直後だった。寒いからって、実富は私をベッドに連れこんで、私は実富に抱かれた。私はセックスの知識とか持ってなかったし、女同士なんてますます分からなかった。実富の指が軆の中に来たとき、すごく痛かった。いじられるほど、おへその辺りまでずきずきした。私は泣いてた。実富はくすくす笑ってた。慣れてくるとちょっと気持ちいいのが、すごく嫌だった」
飛季は実摘を抱いた。実摘の軆は小刻みに震えていた。
実摘は実富になるのを休み、飛季の名前を呼んだ。「うん」と覗きこむと、「飛季の顔が見たい」と実摘は言った。飛季はすぐ、ベッドスタンドの明かりをつけた。
闇に慣れていた眼球が、反射的に光を拒否する。まばたきをすると、瞳孔はオレンジの光になじむ。
実摘は泣いていなかった。乾いていた。
飛季は実摘の髪を梳く。実摘は飛季を見つめた。飛季が微笑むと、実摘の瞳は濡れた。
彼女は飛季の腕に埋まる。「実摘」と呼びかけると、彼女は飛季の胸板に頬を押しつぶした。「大丈夫」と実摘は言った。飛季はうなずいた。
実摘は三人称の実富になる。
「私と実富は、何回も、誰もいないときに寝た。外では同じだった。実富はみんなに愛されて、私はその実富のおまけ。誰も実富が私を犯してるなんて気づかなかった。実富は自分を汚さない。潔癖で、穢れない自分が、愛おしくてたまらない。私たちは内緒の肉体関係を持ち続けた。中学生になった。実富と寝るようになって、私はぼんやりするのが増えた。大人はみんな気にしなかった。私なんか、自己主張しないほうがよかった。同級生には、ときどき声をかけてくる人が出てきた。女子もいたけど、ほとんど男。つきあったり、寝たりした。嬉しかった。初めて実富に秘密で、ほかの人と触れ合った。もちろん、実富にはとっくにばれてたんだけど。舞い上がるのが落ち着くと、変なことに気がついた。私を抱くとき、みんな透明なの。実富に似た、あの透き通った目をして、私を抱く。私を見てないの。私の顔を見てる。私を見てるんじゃない。分かる? みんな、実富に手を出すのが怖くて、でも我慢できなくて、私を代わりにして抱いてたの。気づいたときはショックだった。私って何なんだろうって、この頃から自分の存在が分からなくなってきた。私はここにいるのかなって。親も学校も親戚も、謀ったみたいに私を見ない。昔からの疑問が、本物になっていった。私は存在するのか、何のために生まれたのか。バカバカしいのは分かってても、本気でそんな疑問が私を埋め尽くしていった。怖かった。実富の目を盗んでは、毛布の中であの夢のことを考えた。あの人に逢いたいって。夢の中で、あの人が私をじっと見つめてくれるのが、私の支えだった。あの人だったら、私を見て、私を抱いてくれるに違いないって。いつかあの人を捜しにいこうと思ってた。でも、思ってても、実富が私を解放しなかった。実富は澄んだ目で私を抱き続けた。実富が何で私と寝るのか、分からないままだった。十三歳になってて、私と実富は中学二年生になろうとしてた。冬の終わりかけで、そのぶん、寒い夜だった。私はやっと知った。実富に犯されるようになって、一年以上経ってた。おとうさんは出張で、おかあさんも帰ってきてなかった。実富はお風呂に入ってた。私はリビングでぼおっとしてた。電話が鳴った。いつもは実富が取るの。でも、実富はお風呂だったし、私が取った。おかあさんだった。仕事が遅くなるって。実富に代わってほしいって言われた。『お風呂だよ』って言っても、『呼んできて』って言われた。仕方なくて、私は実富を呼びにいった。そこで、私は全部分かった。実富が私を犯す理由も、透明な目も、実富にとっての私も。私の存在も終わった。とうに終わってたのを知った。私は実富に殺されてたの。実富はお風呂を上がったところだった。こっちには背中を向けて、曇った鏡の前に立ってた。華奢で白い背中に、雫が何粒も流れてた。綺麗だった。私と同じだった。何かそう思うとつらくて、私はうつむいた。でもすぐ電話を思い出して、声をかけようとした。そしたら実富は、腕を上げて鏡の中の自分の顔の輪郭を指でたどった。私は動けなくなった。妙に性的だった。実富の指がたどったところが、細く透明になった。実富のため息が聞こえた。私の軆を撫でるときにつく息だった。何でかな。私の心臓が、嫌な感じでどきどきしてきた。実富はそっと鏡をこすっていった。逃げなきゃと思った。鏡に実富の顔が映った。私の息は冷たくなった。実富は、私を抱くときと同じ顔をしてた。ひとつ違うのは、目が、透明じゃなかった。実富は実富を見てた。息が苦しくなった。疑問が解けていった。全部分かった。私は後ろに下がった。足の裏が擦れた。実富が振り返った」
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