病【3】
実摘は激しくおののいていた。飛季は彼女の軆をさすった。実摘はこじあけた記憶に飲みこまれ、こちらを見ない。飛季は彼女を抱きこんだ。
「実富はにっこりした。『どうしたの?』って言った。私は震えてて、『おかあさん』、って舌を噛みそうになりながら言った。『電話、代わってって』。実富は軆にバスタオルを巻いて、『そう』って答えながらこっちに来た。すれちがいざまに、ささやかれた。『分かった?』って」
実摘は、口をつぐんだ。飛季は彼女を愛撫した。実摘は目をつむって、飛季の感触と匂いを吸収した。痛ましい記憶に温柔な現実をそそぎ、心を緩和させているのだろう。
少し落ち着いた実摘は、飛季を見つめた。飛季は、少し無理をして咲った。
「飛季……」
実摘、の口調だ。
「ん」
「痛いの」
「えっ」
「飛季が痛いなら、お話やめてもいいよ」
心配そうな実摘に、飛季は頬を熱くした。ここでそうしてなぐさめるのは、飛季のほうではないか。何を立場を逆転させているのだろう。
「俺は平気だよ。ごめん、俺のほうがこんなで」
実摘はかぶりを振った。
「普通なの」
「え」
「飛季がほんとに僕を好きだったら、普通なの。僕、痛すぎて麻痺して分かんないもん。僕の気持ちをすくえる飛季のほうが、麻痺できる僕より痛いんだよ。僕が好きなだけ、飛季はずきずきするの」
飛季は実摘を抱きしめた。何秒か黙って、「痛いよ」と正直につぶやいた。
「すごく痛い」
実摘は震えて、幾度かうなずいた。
「でも、聞けるから」
「え」
「話せるなら」
実摘は睫毛を揺らし、こくりとした。飛季は息を抑えた。実摘は、記憶に目を閉じる。
「その夜のあと、実富は私に正体をさらしていった。私を見てるふりもしなくなった。実富は自己陶酔者だった。うぬぼれとか、そんなレベルじゃない。自己愛でもない。病的な自己陶酔者だった。自分にしか欲情できない。ほかの人間には興味がない。実富には実富の世界があって、その孤高で自分と愛し合ってた。そういう、生まれつきだと思う。実富は、愛されようと思えば誰にでも愛された。孤独ではなかった。生まれたあとで受けた、捻くれる傷はなかった。ずっと隣にいたんだもん、それは断言できる。よく考えれば、実富は怪我するのも嫌いだった。軆に傷がつくのが嫌だったんだね。実富は自分がいればいい。実富が愛してやまないのは自分ひとり。実富の喉を渇かせて、心臓を高鳴らせて、あそこを濡れさせるのは、実富自身しかいなかった。そのせいで、私は実富に犯され続けてた。私は実富の立体的な鏡だった。自分としてる、って実富は思って、私を抱いてたんだと思う。私のことなんか、何とも想ってなかった。おもちゃだった。実富には私は自慰の道具だった。実富って、病的に完璧でしょ。あれもそのせい。実富は、自分が完璧だってことに酔うの。傷ひとつない自分が快感なの。実富は自分に酔い痴れるためだったら、何も惜しまなかった。実富が誰かにぐらついたり、特別あつかいしないのも当然。実富は、内面の自己陶酔を、外面では自信に変換できた。自信の光を、みんなに崇拝されてた。でも、実富は他者なんか必要なかった。誰もいらない。私を除いては。私がいたせいで、実富の自己陶酔は病気に達したのかもしれない。私がいることが、実富の病気だった。自分とそっくりなんて、自己陶酔者には一番いちゃいけない。どんなに完璧な自己陶酔者でも、自分とはセックスできない。たぶん、それが自己陶酔者の正気の戒め。実富にはそれがなかった。私がいた。実富は私を犯した。私を媒体にして、実富は自分を犯した。自分を愛撫して、かきまわして、気持ちよくなって。実富はずっとずっと自分とセックスしてた。一回だって私としてるなんて思わなかった。実富には、私は私じゃなかった。私は実富だった」
言葉を切った実摘は、深い息をついた。彼女は泣いていない。麻痺しているのだろうか。顔を伏せられているので窺えない。
飛季は黙って実摘を抱きしめた。実摘の額が、みぞおちにこすれる。
「実富は私に暗示をかけた。『あなたはいない』って。毎日ささやかれた。あなたは邪魔、消えなさいって。軆だけになってしまえばいいって。そしたら、私があなたの価値を拾ってあげるって。ひどいよ。自覚しろ、って言うの。軆は残して、精神だけ死んでしまえって。『あなた自身でいる限り、あなたは誰にも存在しない』って。『あなたさえ捨てたら、私だけはあなたを見てあげる』って。『どっちがマシか、分かるでしょう?』って。毎日毎日言われて、いつもいつも頭に響くようになった。私はいない。私はいない。私なんか存在しない。実富のために作られた、細胞のかけら。心を持っても、それはゴミクズ。がんがんしてた。怖かった。実富は私を殺しつづけた。私は空っぽになっていった。ただの物体になっていった。実富のマネキンみたいになった。私はいなくなった。実富はもちろん、私を見たりしなかった。実富は実富を犯した。私の軆を使って、自分を抱いた。私の頭はぐらぐらしてた。実富と離れたとき──実富が眠ったりお風呂に入ったりして、私ひとりで毛布に包まれたとき、そのときだけ、私はちょっと私になれて、泣いた。夢のことを考えてた。早くあの人に逢わなきゃいけなかった。あの人に殺される前に死にそうだった。死ぬことしか考えられなかった。生きてる限り、このすがたでしかない。実富と同じすがた。死ぬ以外、分からなかった。死ぬ以外に救われる道はなかった。あの人に殺されて、あの柩で眠りたかった。あの人の視線を受けて、私はここに生きてるって実感して、実感してる隙に殺してほしかった。終わりたかった。私は私になって、その中で眠りたかった。毛布の中で、あの人の中で、私の中で。それが私の柩だった。早くそこに行かなきゃいけなかった。実富に殺されそうだった。実富に殺されるのがつらすぎて、自分を否定したまま、あの人を捨てて自殺しそうだった。実富に犯されるようになって、二年以上経ってた。実富が私をおもちゃにしてるって知って、一年が経ってた。冬が明けて、春が始まってた。その頃の記憶はほとんどない。実富に犯されてたのと、毛布の中で夢の人を想って耐えてたのしか、憶えてない。ほかは断片的であやふや。実富は私をはだかにして、眺めたり触ったりして遊んでた。私はうつむいてた。部屋だった。実富は私の髪を撫でて言った。『お願いがあるの』。私は実富を見た。実富は私を見てた。『何』って答えたら、実富はにっこりして、『あなたのその肩のほくろ、消していい?』って言った。消す、って意味が分からなくて、私が首をかしげてたら、実富は部屋を出ていった。カーテンの向こうで蝶々がひらひらしてて、ああ春なのかってそのとき思った。実富が戻ってきた。包丁を持ってた。『これでくりぬきましょう』って実富は言った。そんなときにも、私は逆らえなかった。実富ははだかの私をうつぶせにした。腰に馬乗りになって、包丁で何のためらいもなく私の肩をえぐった。すごく痛かった。死ぬんじゃないかってくらい。血がどくどくしてた。私は泣いた。実富はかまわなかった。頭が冷たくなっていった。実富は私を仰向けにした。私の目は霞んでた。実富はまたにっこりして、『これであなたは消えた』って言った」
実摘は息を吸う。吐くばかりになっていたようだ。彼女が心配だった。泣き虫の実摘が、こんな壮絶な話をしていて、いまだに泣いていない。実摘は容赦なく吐露を続行した。
「私が家出したのは、その次の日。当然、傷のことは親には口止めされてた。まだ服は長袖で、自然に隠せた。シーツの片づけも手当ても、実富がした。傷にガーゼをあてながら、『治ったら楽しみ』って実富は言った。私は一生肩が動かせなくなるんじゃないかと思った。実富が眠ってるあいだに、必要なものをリュックに全部詰めた。そのまま出ていこうかとも考えたけど、実富に気づかれたら怖いから、ちょっと考えた。リュックは通学かばんに入れておいた。次の日、私は実富と一緒に学校に行った。クラスは離れてて、棟も違った。実富は別館で、私は本館。私たちは靴箱で別れた。実富が別館に行って見えなくなったら、私は急いで校門に戻って、学校を出ていった。実富は追いかけてこなかった。チャイムが鳴った。私は走って駅に行った。走ると肩が痛くて泣きそうになっても、のろのろ歩くのは怖かった。電車でその町を出た。何回か適当に乗り換えして、でもお金が足りなくなったらダメだから、一番始めに当たった大きな駅で降りた。それが、この町だった。すごく肩が痛くて、病院に行こうかと思った。でも、保険証もないし、家に連絡されるって思ってやめた。夢の人を捜そうと思った。あの人だったら、肩を鎮めてくれるし、私を私として抱いて、ほくろなんかなくても平気にしてくれる。あの人に抱かれて、私は私になりたかった。たくさんの男と寝た。見つからなかった。いろんな男と寝てるうちに、それでお金も貯めていった。どんな男と寝ても、私は死んだままだった。殺すために、私を生き返らせてくれる人はいなかった。一ヶ月以上経った。夢の人はあきらめかけてた。ふらふらしてた。歩いてた。雨が降ってきて、そばにあったコンビニの路地裏に座った。ぼうっとしてたら、そのコンビニに大きなバイクに乗ったおにいさんが来た。そんなバイクに乗れるなら、お金持ってる人かなって、だったら買ってもらおうと思った。私はバイクを降りたおにいさんのそばに行った。おにいさんは、すごく背が高かった。振り向いた顔はすごく綺麗だった。でも、すごく寂しそうだった。それが飛季だった」
飛季は息を詰めた。急に実摘が動いた。腕を緩めると、実摘は頭をもたげてくる。橙色の光に彼女の顔が照らされる。視線が重なった。
「飛季……」
実摘は飛季の服を握る。
「飛季、だったの」
「うん」
「やっと、飛季だった」
飛季は実摘を擁した。実摘も飛季に抱きついた。
【第五十三章へ】