アスタリスク-8

Wish Move【2】

 そのときも、何が理由だったかはもう知らない。秋の白昼に僕は自傷に耽っていて、突然カミソリを取り上げられた。はっと顔を上げると、久しぶりに会う姉が、僕の腕を見て悲鳴をこらえていた。
「何で……ちゃんと、働いて、こんなのはやめたんじゃなかったの!?」
 働く。そういえば、最近職場にちゃんと行っただろうか。傷を隠すシャツをちゃんと羽織っていかないと。
「たぶん、行ってる……」とろれつのまわっていない声で言うと、姉はケータイを取り出して電話をかけた。ここの住所や、僕の傷の具合を伝えている。脳内がぼんやりしていて、腐りはじめた果物みたいにどろどろになっている。
 そのうちサイレンが聞こえてきて、チャイムが鳴って、「こっちです」と姉が見知らぬ人たちを僕の部屋に案内した。昼間で父はいなかったが、母がめずらしく立ち上がって不安そうに覗きこんできた。「おかあさんですか」とか訊かれた母が挙動不審になったので、姉が「私が付き添うので」とそれに割って入った。
「おかあさんは、あいつにこのことを黙ってて。月芽は私の家にいることにして。できるよね?」
 僕は担架に乗せられ、「ずいぶん切ってるな」とか「深い傷はなさそうだ」とかいう声を聞いた。
 深い傷。ないのか。何で……何でそんなことあっさり言うんだよ。僕の心が大して傷んでいないみたいに。こんなにぼろぼろになっているのに。死にたいぐらい、奥深い壊死が起こっているのに。
 僕が傷ついていることを、どうしても誰も認めてくれないのだろう。分かってほしい人に分かってもらえないのだろう。志帆。君さえ僕を見ていてくれたら、僕は何を失っても──
 救急車に乗せられて、搬送先がすぐ見つからない間に手首も腕も手当てされた。「聞こえますかー?」と何度も訊かれて、うるさくて「もう死にたい」とつぶやくと、「答えたな」と今度は手首の脈を機械につながれる。ピッ、ピッ、ピッ、と聞いたことのあるあの音がして、「ちょっと心臓が速い」とか「ゆっくり息してごらん」とか言われて、僕は少し深呼吸した。
 姉が救急車に乗りこんできて、「ごめんね、月芽」と僕の右手を握った。受け入れる病院が決まっても、僕は救急車の天井をただ見つめていて、病院に着いてもされるがままで、姉が承諾したので縫合手術も受けた。糸で縫うのではなく、ホチキスで留めるやり方だった。
 短い時間で手術は終了し、僕は休憩室の堅いベッドに寝かされて毛布をかけられ、「おねえさん呼んできますね」と看護師の女の人は姉を呼びにいった。
「月芽の職場には、連絡入れておいたから」
 僕は枕元の丸椅子に腰かけて、姉に痙攣した視線を向けた。
「待ってるから、って言ってたよ」
「え……」
「ゆっくり休んでから、戻ってきてほしいって。女の人で、店長って言ってたけど」
 睫毛を伏せた。何でだろう、と思った。クビにするほうが楽なのに。こんな僕でも、まだ雇おうとしてくれる。一緒に働きたいと思ってくれる。なのに、僕は──
 ひと晩だけ病院に泊まったけど、翌日には帰宅した。日中なのに父がいて、僕はびくびくと左腕を隠して部屋に閉じこもった。
 姉がリビングに向かうと、「あいつは帰ってこなかったのか!?」と怒声が響き、「部屋が血で臭いから自分で掃除させろ!」とか「あんな息子は恥ずかしくなる!!」とか聞こえてきた。姉は言い返していたけど、結局泣き出しながら僕がいる部屋に飛びこんできた。
 僕は座りもせず突っ立っていた。姉は深呼吸してから、指先で涙をはらった。
「月芽、ずいぶん通院してないでしょ」
 僕はのろのろと脚を動かし、べっとりした血が乾いたベッドサイドに腰かけた。姉はその隣に座る。
「もう一度、あの心療内科に通ってみない? 月芽のことをよく知ってるあの先生がいいと思うんだ、新しい先生を探すより。さっきの病院の先生もそう言ってた」
 僕はジーンズの膝を見つめた。まだ半袖の左腕に、白い包帯が大袈裟に巻きついている。
「先生のところで心落ち着けてさ、今の職場に戻ろう。私もあの店長さんなら月芽のこと安心して預けられる。やってみようよ、それで、この家さえ出たらいいんだから」
 ぼんやり、あの心療内科の先生の穏やかな笑みを思い出した。
 あの先生は、僕を認めてくれたっけ。僕は病気だと言ってくれたっけ。すべてが演技のように感じる、この感覚。それ自体が病気だと。
「私も付き添うから。一緒に病院行こう。月芽なら頑張れる」
 僕は姉に頭を抱かれて、小さくうなずいた。姉は僕の頭を撫でてくれた。この人は、昔から何だかんだで僕を面倒を見てくれる。父なんかより。母よりずっと。
 そうして、僕は療養期間に入ることになった。二十歳になって、まだ半年も経っていなかった。姉が以前よりこまめに僕の様子を見にきてくれた。そんな姉について買い物ぐらい行けるようになると、病院にも再び通いはじめた。
 先生は変わらずそこにいて、僕と再会できたことを喜んでくれた。そして、けして詮索ではなく、この二年間のあいだの様子を訪ねてきた。僕は途切れ途切れに話していたけど、次第に感情があふれてきて、急激に涙をこぼしながら志帆のことまで打ち明けていた。
 先生は「ひとりでそんなに成長したんですね」と言った。成長。そうなのだろうか。「でも、人に迷惑かけるだけの奴だし」と嗚咽を抑えて言うと、「昔の月芽くんなら」と先生はおっとりと微笑んだ。
「きっと、誰かと関わること自体避けていましたよ。人に恋をして、仕事で仲間を持って、今の月芽くんは迷惑をかけるくらい他者と関わっているんです。素晴らしいことですよ」
「迷惑なのに、……迷惑ならかけないほうがいいのに、」
「どんな月芽くんでも、受け入れてくれる人はきっといます。少なくとも、僕は月芽くんがまたこうして会いにきて、話をしてくれて嬉しいですよ」
 僕は先生を見て、咲えなかったけど、それは先生も分かっているようにうなずいてくれた。僕は鼻をすすって、「また来ます」とぽつりと言った。先生は再度うなずき、「少しおねえさんともお話しますね」と姉と交代するように言った。
 僕は診察室を出ると、姉に先生のほうをうながした。目をこすって待合室を見やる。二年前に通っていた頃より、人が多くなっている気がした。
 僕のケータイは、ずっと鳴らなかった。志帆からの着信もなかった。今から死ぬ、という僕のメールが最後だ。
 久々に電話が来たと思ったら、藤崎さんだった。『無理は言わないけど』と藤崎さんはゆっくり言葉を選んでいる様子で言う。
『顔だけ見せに来るのもつらい? みんな心配してるよ。復帰はまだぜんぜん焦らなくていいから』
 僕は唇を噛み、正直怖かったけど、「少しだけなら」と答えた。『ほんと?』と藤崎さんは嬉しそうに声をはずませ、『きつくないときでいいからね』と念を押して、僕が「はい」と答えると、通話は途切れた。
 僕は息をついて、シーツにケータイを投げ、まだホチキスの針が刺さったままで包帯の取れていない左腕を見下ろした。今週末に姉に一緒に病院に行き、まだ抜糸はしないが、消毒してもらうことになっている。そのとき、姉に少し職場に行きたいことも相談しよう。
 ベッドに倒れて目を閉じると、秋の虫の声が壊れそうなほど透明に響いていることに気づいた。
 姉は僕が職場に向かうことには賛成してくれて、行きづらかったら付き添うとも言ってくれた。僕はやや考え、入口までついてきてもらうことにした。「今日行っちゃう?」と外科での消毒が終わると姉は言って、僕は無表情のままこくんとした。
 そんなわけで、僕は自宅からほとんど離れていない職場におもむいた。
「あれ……えっ、あれっ、来てくれたの!?」
 僕が自動ドアを抜けて、入口のそばに買取カウンターをちらりとすると、「いらっしゃいませー」と言いかけた女のスタッフが、僕の姿にぴたっと手を止めた。僕はどうすればいいのか迷って、「すみません」と小さく頭を下げる。するとそのスタッフはカウンターをまわって目の前に駆け寄ってきて、「わあ、また来てくれたあ」といきなり抱きついてきたのでびっくりする。
 そうしていると、ほかのスタッフも僕に気づいて、誰かが藤崎さんを呼びにいった。藤崎さんも僕を見て安堵を浮かべ、「ほんと、無事でよかった」と背伸びしてから僕の頭を撫でた。
「じゃあ月芽、私は先に帰っておくから」
 姉がそう言って去ってしまうと、僕は藤咲さんにバックヤードに連れていかれた。

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