アスタリスク-9

Wish Move【3】

 そこには、煙草を吸いながらコンビニ弁当を食べている見知らぬ男がいた。僕とそんなに歳は変わりそうにないが、一応年上ではありそうだ。
 誰だろ、とおろおろしそうになると、「大丈夫だよ」と藤崎さんはおかしそうに笑う。
「彼はこないだ採用した子でね。福原ふくはらくんが就職決まって辞めちゃったから」
「おっす。留守中に採用されちまってすんません。これからよろしくお願いします」
「あ、……いえ。まだ、僕は復帰できるか分からないですけど」
「そうなんですか? 早く一緒に働けるといいっすね」
 僕がまばたきをしてたたずむと、「悪気はない子なの」と藤崎さんは笑ってその男の隣の食べかけのお弁当の前に座った。どうやら藤崎さんと男は休憩中だったらしい。
 僕はその男の隣の椅子にそろそろと腰を下ろし、男が長髪を縛ったり前髪をヘアピンで留めたりしているのに気づく。軆つきは細身だけど肩幅はしっかりある。男は僕の視線に気づくと、屈託なくにっこりしてきた。
「俺、夕乃ゆうの
「ゆーの……さん」
「さんいらないよ。君は何だっけ」
「あ、えと、月芽でいい」
「月芽ね。おっけ」
「君、中番で上がりだよね? よかったら、彼と話してる時間とかある?」
 藤崎さんが僕をしめして、夕乃にそんなことを言う。気にしなくても帰ると言おうとしたら、「はい、俺も話してみたかったんで」と夕乃はにっとした。
 藤崎さんは「ゆっくりしていって」とお弁当を片づけて、いそがしそうに売り場に戻っていった。僕は夕乃と顔を合わせる。夕乃は煙草をつぶし、改めて僕に頭を下げた。
「いないあいだに、いきなり現れててほんとごめん」
「えっ、いえ。そんな、僕休んでるし、福原さんも辞めたなら」
「ん、ありがと。月芽がいい奴でよかった」
 いい奴、なのだろうか。いや、僕はどす黒いほど暗い奴だ。そう思って、左腕の新しくなった包帯に感触がひりひりした。
「ほかの人に、月芽のことあれこれ聞いてるわけじゃないけど」と夕乃は割り箸で弁当の唐揚げを口に投げる。
「休養って、何か訳有り?」
「あ……うん」
「病気?」
「……精神的に。その、……死のうとした、というか」
 夕乃は僕を見た。ここまで言わないほうがよかったかと後悔がよぎる。しかし、夕乃は唐揚げを飲みこみ、「まあなあ」と頬杖をつく。
「いろいろあるよなあ」
「いろいろ……」
「あ、むしろ何もなかった感じ?」
「え、いや、……あったね」
「俺もいろいろあったから分かるわー」
 僕は夕乃の茶髪や制服から見える鎖骨を眺めて、確かにどこかしら荒んだような雰囲気があると思った。
 僕の視線に夕乃はにっとして、「まあ不良だったんだわ」と新しい煙草に火をつけた。
「片親でさー、小学生くらいまでは構ってほしくて優等生やってたけど。中学くらいから親に対してあきらめが出てきて、ダメになっちまってさ。ろくでもない奴とつるんで、毎晩遊び歩いてた」
「……僕は反対だな。親は、カスみたいだけど、やっぱり怖くて。不登校から引きこもりになって、手首ばっか切ってた」
「はは。ほんとに反対だ。でも、気持ちは分かる気がする」
「僕も……分かる気がする」
「高校は行かずに、十六から働いてるんだ。今、二十三な。そのあいだにも、いろいろあったかな。死のうと思ったこともある。実行はしなかったけどな」
「僕は、……ここ以外は、夜の店で黒服しかやったことない。続かなかったけど」
「俺は何やったかなあ。工事現場もレストランもやったけど──夜な。夜はやったことねえな。ホストやったことないわ」
「僕も、ホストじゃないけど。そこで好きになった女の人がいるんだ」
「ホステス?」
「同じ黒服やってた人」
「女で黒服とか、かっけえな」と夕乃は頬杖をついて煙草をふかす。
「でも、彼女には、もう僕はもう重いんだと思う。会いたいって言われたら会いにいくけど、会ってもふたりとも楽しくなくて。やって別れて。つきあえるなんて、もうないのに」
「つきあってないのか?」
「僕は告白したけど、彼女は考えられないって。その頃はそんな気まずくなかったんだけどな。いつのまにか……」
 そこまで言いかけて、僕は首を横に振った。
「変なメールが来てからだ」
「メール」
「いきなり、僕から連絡をよこすのはやめろって言われた。自分の都合のいいとき、連絡するから。仕事の邪魔だからケータイを鳴らしてほしくないって」
「野郎みたいな言い訳だな」
「言い訳?」
「それ、確実に男できたんだろ」
 僕は夕乃を見た。夕乃は唐揚げを口を投げ、ごはんも含む。そのもぐもぐと動く顎を見つめ、おとこ、と思った。
 ついで、嗤いそうになった。なぜ、それを想定しなかったのか。そうだ。決まっているじゃないか。ほかの男と過ごしているから、ケータイを鳴らしてほしくないのだ。中でも、男からの連絡なんて迷惑だろう。
 そうか。全部全部そういうわけか。志帆には、つきあう男ができたのだ。
「月芽?」
 僕ははっとして夕乃を見た。夕乃がちょっとばつの悪い顔をしている。
「ごめん、余計なこと言ったかも」
「いや、……僕は、バカだから。言われてよかったよ。言われないと気づかなかった」
「でも──」
「ありがとう。あ、確かめたほうがいいのかな。いや、もう連絡しないほうが……」
「ん、まあ、すっきりしたいなら確かめるのもいいけど。自分がそんなに強くないと思うなら、無理もすんなよ」
「……そうだね。考えてみる。ごめん、僕の変な話になっちゃって」
「女って、信頼できるのが滅多にいないよな。いや、男なら信じられるってわけでもないか。でも、月芽とは友達になれる気がする」
「夕乃は友達多そうなのに」
「んなことねえよ。家庭のことで見下されたり、仕事頑張るほどやっかまれたり。ろくな奴に出逢ってこなかった」
「そっか。僕でよければ、夕乃の話聞くから。聞いてもらったし」
「おう。じゃ、早く復帰してくれよな。一緒に働けるのがすっげえ楽しみ」
「うん。分かった」
 僕はわずかに咲うと、夕乃も咲って弁当を平らげた。僕たちはすぐに気が合って、そのあとも話を楽しめた。
 結局夜番が上がってくるまで話していて、閉店後になってから家に戻った。さいわい父も母も就寝したようで、家は真っ暗だった。僕は部屋で息をつき、夕乃いい人だった、と思いながらケータイを取り出した。
 夕乃とはもちろん連絡先を交換したが、僕が呼び出した番号は志帆のものだった。僕は深呼吸をして、電話をかけた。
 出ないよな、とは思っていた。でもそれなら留守電をして、メールもしようと思っていた。が、留守電に切り替わった瞬間、がちゃっと物音が耳に入ってきた。
『もう、何? うるさいんだけど』
 ついびくっとしてしまったけど、胸を抑えて僕は言葉を選ぶ。
「僕、……わ、分かったから」
『何にも分かってない、あれだけ電話はもう──』
「つきあってる人ができたんだよね?」
『……え?』
「それでいいんだよ。そうならそうだって言ってよ。何で隠すの?」
『隠す、って』
「好きな人ができたんだよね。もう恋愛できないって言ってたのに、彼氏作れたんだね」
『………っ、』
「……よかった。僕は平気だよ。傷つくかもって気にして隠してくれたのかもしれないけど、僕は志帆が恋をしてくれて嬉しいよ」
『そ……んなっ、何、そんなこと、ひと言もっ』
「言われなくても分かるよ。いや、分からなかったけど。友達に相談したら、男ができたんだよって言ってくれて」
『恋なんてしない。してないよ。けど……男といるよ。そうだよ、ほかの人とデートしてるの』
「……うん」
『あんたとぜんぜん違ってさ、優しいし、気遣いもあるし。かっこいいし、ほんとに、いい人で』
「うん」
『あんたなんか、嫌いなんだから。もう嫌い。疲れた。うんざりするし、いらいらしてたまらない』
 僕はうつむいて、まだ、と思った。
 まだ泣いちゃダメだ。あとで泣いていいから、志帆と話しているうちに泣いたらダメだ。
「友達も……無理かな」
『もう関わりたくない。ストーカーになるでしょ? あんた怖いよ』
 ちくり、と心臓が痛む。
 そこまで、言わなくてもいいのに。僕はおとなしく引き下がろうとしているではないか。なのに、何で言い返すように挑発してくるのか。
「ねえ、志帆──」
『もうこれで最後にしよう。さよなら。勝手に死ねば』
 ぷつっという音がして、電話が切れた。
 え、と僕はぽかんとした。何。何だ、今の。これが最後? 感情を抑えて、ゆっくり綺麗に終わろうとしているのに、唐突にこんな終わり方?
 何で。どうしてこの人は、僕のことをそんなに邪慳にあつかうようになったのか。あんなに優しい人だったのに。
 僕は唇を噛み、電話をもう一度かけた。出ない。留守電。またかける。コール音。留守電。切る。もう一度。突然、『うるさいなあっ!』といういらだった声が飛びこんできた。
『最後って言ったの分かんなかった!?』
「何で、僕にそんなひどい態度取るの? 僕は、ちゃんと、離れようとしてるのに」
『じゃあ、何で電話かけてくるんだよっ』
「志帆さんには感謝してるから。ちゃんとお礼を言って──」
『うざいんだよ、そんな綺麗事っ。もういいから、あたしに関わらないで。消えて。死んでいいから!』
「死んだらいいの? 死んだら許してくれる? 僕なんか死ねばいいの?」
『そういうのが鬱陶しいっ。そうだよ、死ね! ああ、もうっ……いらつくっ』
「何で……」
 結局、こらえきれずに涙が落ちていく。
 こんなはずじゃなかったのに。きちんと話して、志帆の恋を祝福して、離れていくつもりだったのに。なぜこんなにぎすぎすしてうまくいかないのだろう。
 そばにいてくれるだけで心強かった人が、今、どんな人よりも僕の心を滅多刺しにする。血があふれて、脈打つたび赤くしたたって、黒い血だまりになっていく。
 分かった、と言おうとした。じゃあ、もう連絡を取るのもやめよう。男ができて、その時点で志帆が僕を切らなかった理由は、よく分からないけど。
 まあ何でもいい。おしまいだ。もう志帆とはこれで最後だ。
 でも、それを口にしたらお前がえらそうに終わらせるなと今ひどく激昂した声の志帆は吐き捨て、もっとひどいことを言うだろう。僕にできるのは、その悪循環から身を守ることだ。
 ゆっくりケータイを膝におろし、通話ボタンを押した。電話が切れる。ぱたぱたと涙が降りしきって、過呼吸気味になって胸のあたりをつかんだ。
 十一月の終わり頃、志帆と連絡を取らないことが当たり前になり、たまに夕乃が休憩時間にしゃべってくれて、姉と通院も続け、僕はだいぶ落ち着いてきた。手首も切っていない。救急車のお世話になってから、まだたった二ヶ月だけど。
 十二月になると、ようやく職場に復帰することもできた。みんな温かく迎えてくれて、ここなら長く勤められるという確信も持ててきた。僕がそれを話すと姉は喜んでくれて、「自分の部屋探すって、すっごく楽しいんだよ」と住宅情報誌を持ってきたりした。
 家にいるときは、その雑誌をめくって眺めた。広さはなくていい。風呂トイレはついていてほしい。できればフローリング。洗濯物を干せる程度のベランダが欲しい。駅は近いと助かるけど、無理は言わない。
 そんなふうに条件を書き出して、改めて雑誌を見ると、条件に合う物件もちらほらしていた。療養時期もあったとはいえ、今の職場に勤めはじめてもうじき一年だ。貯金もけっこう貯まった。早く部屋を決めて、年明けには家を出たい。
 三月と四月は、転居シーズンになって運送屋がぼったくるからやめろと姉にも言われている。あと少しだ。あと少しで、この家から解放される。
 光が胸に射すのを感じていた。そんなときだった。オフの日に突然ケータイが鳴って、見ると藤崎さんだった。何だろ、と僕は通話ボタンを押して電話に出る。
「お疲れ様です」
『お疲れ様。あのね、突然なんだけど。ひとり暮らし始めるってこないだ話してたよね?』
「え、ああ。まあ」
『もう部屋とか決まった?』
「いえ、ぜんぜん。検討はしてますけど」
『そっか。よかったあ……一応、よかった』
「何か、あったんですか?」
 嫌な予感がしたが、僕はそう訊いた。『あのね』と藤崎さんは息を吸って、吐き出すのと一緒に言った。
『うちの店舗、年内になくなっちゃうことになった……』

第十章

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