アスタリスク-10

Wish Kiss【1】

 赤字閉店というわけではなかった。藤崎さんの働きで、むしろ店舗では黒字が続いていた。だが、幸か不幸かそれに対する評価で、もっと駅近の新店の店長に藤崎さんは任命された。そして、これまでの店舗はリニューアルという移転をすることになったのだ。
 もちろん、今の職場を基準に僕は部屋を探していたので、藤崎さんもそれを察して慌てて電話をくれたらしい。「ほんとごめん」と藤崎さんは何度も言っていたけど、僕は「いえ、大丈夫です」と言うしかなかった。
 大丈夫なんかじゃなかったけど。駅近となると場所も家賃も変わってくる。また一から考え直すことになる。何だかどっと疲れて、僕はベッドに倒れてしまった。
 翌日出勤すると、みんなの話題は無論リニューアルのことばかりになっていた。スタッフはまず、新店舗になっても勤務を続けるかを考えることになった。夕礼のとき、藤崎さんは来週ここは閉店し、その後二週間で業者は頼らずに移転し、新年から再スタートを切る無茶振りをされていることも発表した。
 閉店してからの一週間は店舗スタッフで商品を箱詰めし、さらに一週間にはヘルプスタッフも加わってトラックに搬入して新店舗に段ボールを運ぶ。そして、開封した中身をひたすら新店舗の棚に並べていく。
「マジで二週間ですか」と尋ねられると、「年末休むのに、年始まで準備中なんていきなり赤字でしょ」とおそらく上に同じことを言われた藤崎さんは息をついた。
 慌ただしく夕礼が終わると、一緒に本を加工していた夕乃に「どうするよ」と言われた。「できれば続けたい」と言いつつ、僕はうつむいた。
 駅が近くなったら、利用者もずいぶん変わってくるだろう。ここは地域密着な感じで客層は比較的おっとりしていた。でも、移転したら客はさらに機敏や気遣いを求めてくる。僕はそういう機転がなくてトロいから、不安がないと言えば嘘だった。
 それでも、辞めたいとは思えない。ここ以外に、こんな僕を雇ってくれるところなんてない気がする。「俺も月芽がいるなら一緒に働きたいかなー」と夕乃は言ってくれて、僕はちょっと咲った。
 それからは、ぼろぼろになるほどめまぐるしかった。他店のヘルプスタッフとの交流が意外と楽しかったりしたが、詰めた数を数えながら箱詰めしたり、その重い段ボールを身長ぐらい積み上げたり。朝早く出勤して、日づけが変わるまで働いて、睡眠時間が足りないまま翌朝になる。
 新店舗での作業になると、十分だった通勤が三十分になった。でも、何も考えなくていいいそがしさは、予想よりストレスではなかった。ぼろぼろに疲れて眠れるのは心地いい。
 あっという間に年が明け、新店舗のリニューアルオープンが訪れた。その日一日で百万も越える売り上げがあって、今までとは桁違いの売り上げにみんな声を上げて驚いた。
 新店舗になってから、新たに新人も補充された。慣れるまでのあと一ヶ月ほどは、ヘルプスタッフも数人入ってくれるそうだ。
 それだけ働いたので、十二月の給料はいつもより金額が多かった。一月は無理そうだけど、ぎりぎり二月に家を出られるだろうか? 急がなくていいのかもしれないが、僕は二十年以上我慢してきたのだ。遅いくらいだ。早く、一刻も早く、家を出たい。
 その事情は藤崎さんや夕乃が分かってくれていたので、僕は休日にひと思いに不動産屋に行って、希望を叶える物件を紹介してもらった。いくつか部屋を見た中で、ここだという場所が見つかると、運送屋の手配まで不動産屋に頼んでしまい、二月に間に合わなかったが、三月一日に僕は自分の部屋に引っ越すことを決めた。
 姉に手伝ってもらいながら、僕は段ボールに自分の荷物を詰めていった。もうこの家には戻らない。来るつもりもない。だから、とりあえず実家にキープしておくものなんてない。必要なものはすべて持っていかなくてはならない。いらないものは思い切って捨てる。
 そんな作業をしていると、胸が透いていく感じがあった。病院でも、先生に最近は表情が明るいと言われる。通院に付き添ってくれた姉と別れて、日が暮れた二月末の寒空を歩いた。息が白く映る。
 やっと家を出られるんだなあ、と思うと、不安なんかより安堵が染み渡った。もう父の怒鳴り声を聞かなくていいのだ。泣いて土下座する母を見なくていいのだ。そんなものは、全部置いていく。つらい夜は捨てていく。僕は新しい部屋で、ようやく健やかな心を育める。
 家に着いて、段ボールが積み上がった自分の部屋に入ると、ケータイを取り出した。いつのまにか着信がついていて、僕は何心なくケータイを開いた。
 そして、その瞬間、心臓が痛いほどに動脈を突き裂いた。
 ……アドレス帳から、消して、いなかった。そこには、二件の着歴が映っていて、それは──『志帆さん』からになっていた。
 急速に喉の奥に不穏な暗雲が立ち込める。何で。志帆、って。いまさら、何なのだ。何ヶ月連絡を取っていないか数えてもいないけど、僕はそれで穏やかに過ごせていた。
 嫌だ。放っておいてほしい。僕だって同じ気持ちだ、あのとき言われた雑言をそのまま返す。もう関わりたくない。
 無視しよう。そしてすぐに連絡先を削除して──そう思ったとき、突然ケータイに電話着信がつく。
『志帆さん』
 頭の中が、逆流が起きたように混濁する。何。何で。僕たちはもう別々の道に分かたれたはずではないのか。それを望んだのは、志帆のほうではないか。なのに、なぜ僕に電話なんて……
 吐き気までせりあげてきたのに、僕の震える指は、耳鳴りのような着信音を聞いていたくないために、通話ボタンを押してしまっていた。
『あ、月芽くん。久しぶり』
 僕は荒っぽくなりそうな息を抑えて、志帆の声が癇癪をはらんでいないことを内心確かめる。僕は静かに息を吐いて、「久しぶり」と消え入りそうに言った。
『どうしてるかなと思って。ずいぶん会ってないよね? 明日とかどう?』
 何を、言っているのだろう。僕は心が病んでいると言われるが、この女は頭がおかしいのか? なぜ何事もなかったような声で、気兼ねなく会っているような話を、そんなふうに持ちかけてこれるのか。
「……仕事、いそがしいから」
『あっ、仕事続いてるんだね。えらいじゃない』
 お前にそんなことを言われても、もう嬉しくない。
『そうだ、月芽くんが働いてる店に遊びに行ってみようかな』
 ふざけるな。
『あの月芽くんだもんね。ちゃんとやれてるのか見ておきたいし』
 どういう意味だよ。
『ねえ、じゃあ明日──』
「何か、用があるの?」
『えっ』
「用件だけ教えてくれたらそれでいいよ。わざわざ会わなくていい」
『えっ、でも、月芽くん、あたしに会いたいでしょ?』
 過呼吸がこみあげてくる。何だ。何だこの女。神経がイカれている。
『せっかくだから会おうよ、それから話──』
「話があるなら電話でいいから」
『少しぐらい時間あるでしょ?』
「会いたくない」
『……は?』
「もう会いたくない」
『………、何、』
「用がないなら切るね。じゃあ」
『何でっ? あたしのこと好きなんでしょ? ねえっ、いいじゃない、あたしもうあの男とはつきあってな──
 ぶつ、と電話を切った。どくん、どくん、と心臓が深く突き刺さる。すぐに電話かかってくる。
『志帆さん』
 言い知れない黒い影が心を覆って、恐怖に近い冷たさを背筋に覚える。僕は過呼吸を起こしながらケータイの電源を切った。そしてゴキブリだったみたいにケータイを床にはらいのけた。
「何で」「どうして」とうわごとがもれて、頭を抱えてがたがた震えはじめる。君がいない人生をやっと受け入れて、平穏になっていたのに。いまさら何なんだよ。僕の心を決めつけて、いったい何様なんだよ。僕はもう、お前のことなんて、ただ軽蔑してるだけなのに。
 深夜、冷え切った指で志帆の連絡先は削除した。削除してから、拒否に登録するのを忘れたことに気づいた。志帆の番号なんて憶えていない。メールアドレスは見たら何となく分かるから、来たときに拒否しよう。でも電話は出ないと分からない。引っ越しのことで、誰から連絡が来るか分からないから、登録外の番号に出ないわけにもいかない。
 どうしよう。もう志帆と話したくない。好きな人に嫌いだの怖いだの言われる絶望を味わいたくない。涙がこぼれそうで出てこない。そのつっかえる感覚にぞっとした。涙が出ないと、僕はいつもカミソリで……
 その晩は何とか我慢して過ごした。でも、翌日からどんどん僕は魂がすり減っていくのを感じた。
 ケータイが怖い。いつ志帆から無神経な連絡が入るか分からなくて怖い。番号を変えたくても、部屋の契約などに使ってしまったので、しばらく変えるわけにもいかない。同じ理由で、用件が入ることがあるから放置するわけにもいかない。
 どうしよう。どうしよう。脳内が砕けていく。手首。手首を切ればいいのか? 血を吐いたら落ち着くんじゃないのか? 職場では平静に見えないと。
 よし、切って落ち着こう。切ってから出勤しよう。そうしたら大丈夫だ。まともに見えるためなら何でもいい。僕は手首にカミソリを走らせる。
 そんな頃に新しい部屋に引っ越して、いよいよハメを外しても見つける人もいなくなり、僕は頭の中が感電しかけるたびに、手首を切るようになった。意識が色あせ、記憶が飛ぶ。電話が鳴ると大袈裟に怯え、無意識に「ごめんなさい」とぶつぶつつぶやいた。手首から血を流しながら、おそるおそる折り返して、志帆ではないことにほっとして何とか話をする。
 通話が終わると、もうすでに何の電話だったか憶えていない。そういえば、僕はこちらに引っ越してきてから出勤はしただろうか? 忘れてしまった。もしかして今の電話がそのことだったのだろうか? メールが来て、『夕乃』の表記にほっとしてから、血まみれの手で開いてみる。
『昨日無断欠勤してたけど、大丈夫か?
 引っ越しが大変なだけならいいんだけど。
 あんまり無理すんなよ。
 俺は月芽が来るの待ってるぜ。』
 僕はその文章を何度も読み返して、仕事行ってなかった、と引き攣った笑いをひとりでこぼした。それはダメだ。ちゃんと働かないと。この部屋の家賃だって、これからははらってかなくてはならない。僕は僕を養わなくてはならない。
 ちゃんとしよう。手首を切って、きちんと生きていかなきゃ。
 また志帆の電話がかかってくることはなかった。なのに、僕の頭の線は、その可能性に怯えてどんどん切断されていった。
 不安になると、自分の血を見ないと落ち着かない。できるようになっていた接客の仕方が分からなくなってきた。笑顔。レジ打ち。トーク。うまくいかない。耐えられなくなると、一抹の理性でカウンター内を離れ、店の奥に行った。
 胸の名札を外して、安全ピンを手首の生傷に刺してえぐった。「死にたい」というつぶやきが口からこぼれる。血が長袖の奥へと伝っていく。あんまり僕がカウンターに戻ってこないと、藤崎さんが様子を見に来る。
 藤崎さんは僕をバックヤードで休ませた。やがて、何とか出勤しても売り場に出れなくて、バックで過ごすだけになってきた。たまに売り場に出ようと思っても、「そんな顔でお客さんの前に出ないでください」と疎ましそうに後輩に追い出される。僕はバックでつくえに伏せって、立場がどんどん溶けていく氷のように失くなっていくのを感じた。
 もうダメかもしれない。そう感じていたから、四月になって陽気が出てきたある日、藤崎さんに倉庫に呼ばれて、そこに藤崎さんでなく移転のときお世話になったエリアマネージャーもいたことで、何だか力が抜けていった。

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