風切り羽-54

気にかける電話

 そのあとも、沙霧さんと僕は、聖樹さんや悠紗、XENONや音楽について閑話を交わした。
 十六時前には断って水切りの食器を拭きにいき、それが終わると洗濯物を見にいく。よさそうだったので取りこんだ。
 あの男の子たちはいなくなっている。
 部屋に帰ると、沙霧さんはゲームを引っ張り出していた。どさっと洗濯物を床に落とし、「勝手にしていいんですか」と訊いてみる。
「さあ。悠のデータいじらなきゃいいだろ」
 よく分からなかったので、うなずいておいた。沙霧さんが始めたのは、悠紗が苦戦しているブロックゲームだ。ちっともできない僕にしたら悠紗もすごいのだけど、沙霧さんはもっとうまい。
「ゲーム好きなんですよね」
「まあな。暗いかな」
「いえ。いつぐらいに始めたんですか」
「小学校に上がる前にはやってた。誕生日に買ってもらってさ。もうそれは壊れてる」
「一緒のですか」
「いや、これはまだ発売もされてなかった」
 僕と話しながらも、沙霧さんは効率良くブロックを消して高得点を弾き出している。僕も床に座り、洗濯物をたたんだ。「萌梨はゲームとかしないのか」と沙霧さんはこちらを一瞥する。
「観るほうが好きです」
「そっか。おもしろい?」
「まあ」
「ふうん。変わってるな」
「そうですか」
「俺は観てるのつまんないや。自分でやりたいせいかな」
 悠紗も、観ているのはつまらないと話していた気がする。好きな人はそうなのだろう。
 洗濯物をたたむのが中盤にさしかかり、沙霧さんがいくつもステージを越えているときだった。
 突然電話が鳴って、僕も沙霧さんもびくっとした。僕はタオルの皺を伸ばしていた手を止め、沙霧さんは画面を“Pause”にする。
「何? 誰?」
「さ、あ」
「俺、出ようか」
 甘えてうなずきそうになったものの、聖樹さんが電話をすると言っていたのを思い出す。出かけて四時間近く経っているし、そうかもしれない。「怪しかったら変わってくれますか」と言うと、沙霧さんは承諾してくれる。
 僕はタオルを置いて立ち上がった。仕切りの端にある、何段かの正方形の引き出しが僕の腰に届く細長い棚の電話のところに行く。僕は一回呼吸して、受話器を取ると耳に当てた。
「もしもし」
『あ、萌梨くん?』
 その声を、内心反芻した。聖樹さん、の声に聞こえた。確認すると、『そうだよ』と返ってきて、ほっと肩のちからを抜く。
『なかなか出ないんで心配したよ。何にもない?』
「あ、はい。ないです」
 窺ってきていた沙霧さんも、聖樹さんだと察して安心したみたいだ。受話器の向こうでは何やら話し声がしていて、雑音もある。
「外なんですか」
『え、どうして』
「話し声が」
『ああ。いや、車の中だよ。さっき集まって、別のところに行ってるんだ』
『みやげにハンバーガーかチキンどっちがいいか訊いといて』と声がした。
『聞こえた?』
「………、どっちでもいいです」
『伝えとく。あのね、昨日ほど遅くはならないと思うんだけど、早くもないと思うんだ。次の次のところで終わる予定でね。二十時は過ぎると思う。ひとりで平気?』
「あ、あの、今はひとりじゃないです。沙霧さんが来てるんです」
 向こうで叫び声がした。『こぼすんじゃねえ』と聞こえた。『ちょっと黙ってよ』と聖樹さんはそちらに強く言い、僕との会話に戻る。
『えと、え、沙霧?』
「はい」
『そうなんだ。またいきなり来て。ちゃんと話せてる?』
「はい。ゆっくり話せました」
『そっか。よかった。ひとりなのがつらかったら、悠を下ろしていこうかなと思ったんだ。疲れてきてるみたいなんで』
「え、大丈夫ですか」
『歩きまわらせなければ。動くのはつらいみたい。沙霧がいるなら、沙霧にいてもらおうか』
「沙霧さんが迷惑だったら、ひとりでもいいですよ」
『頼めばいてくれるよ。僕が頼もうか。代わってくれる?』
「あ、はい」
 受話器を耳から離して沙霧さんを呼んだ。沙霧さんはゲームを一時停止にしてやってくる。
 沙霧さんに受話器を渡した僕は、その場に所在なく立った。夕ごはんどうしようかな、とキッチンを一瞥したりする。
 沙霧さんと聖樹さんは、要さんと葉月さんのそれとはまた別に軽妙にやりあう。沙霧さんは聖樹さんに弟としてあつかわれるのが苦しい様子はないし、兄弟っぽくしようと自分を抑えて演技しているふうもない。恋愛じゃないというのは、あながち弁解ではないようだ。
「萌梨」と呼ばれて、沙霧さんに顔を上げた。要さんほどではなくも、聖樹さんよりは首の角度が急になる。沙霧さんは僕に受話器をさしだした。
「代わってくれって」
「聖樹さんですか」
「いや、悠」
「悠紗」
 受け取った受話器を耳に当てる。沙霧さんはテレビの前に戻っていった。「悠紗」と呼びかけると、『萌梨くん?』と悠紗の問い返しの声がする。「うん」と答えると、照れたような笑みがした。
「何?」
『んー、何かおかしいね、電話なの』
「はは、そっか。何かあったの?」
『ん、元気かなあって。嫌なことなかった?』
「うん。悠紗はいいの? 疲れてるって」
『平気だよ。今ね、車にいてみんな休んでるもん』
『俺は休んでねえぞ』と声がした。要さんだ。運転しているのだろう。
「みんな疲れたりしてない? 梨羽さんは、何ともない?」
『少し元気ない。でもおとうさんがいるし。ほかのみんなは元気。萌梨くんは沙霧くんといるんだよね』
「うん」
『僕も会いたかったな。ふふ、萌梨くん、沙霧くんと仲良くなれたんだね。楽しいでしょ』
「うん」と僕は返し、話はちょっと沙霧さんのことになった。それが何となく今日のことになってくると、『帰ってからにしなさい』と聖樹さんが悠紗の電話を取り上げる。
 そういえば、車の中ということは、これは四人の携帯電話を借りているのだろう。
『ごめんね』と聖樹さんの声が聞こえてきた。
『帰ってから聞いてあげてね。今日──はこの子が疲れて寝ちゃうか。明日にでも』
「はい」
『あ、それで、沙霧いてくれるって。夕ごはんは、あの子に出前でも取ってもらったらいいよ。僕たちも外で食べると思うし』
「分かりました」
『あとね、面倒で悪いんだけど、お風呂焚いておいてくれるかな。帰る前──二十時過ぎくらいに』
 僕が請けあうと、『じゃあ』と聖樹さんは締めくくる声で言った。
『元気そうでよかったよ。沙霧に感謝しなくちゃね。ハンバーガーかチキン、待ってて』
「はい」と笑ってしまい、電話を切った。
 聖樹さんも元気そうだったな、と思った。よかった。やっぱり、友達といると気が楽になるのだろう。特にあの四人とは全部さらしあっているのだし、“普通”の演技も要さない。暗くなっても取り繕わずに吐き出し、紛らしたりなぐさめたりしてもらえるのだ。
 僕はリビングに戻って、たたみかけの洗濯物の真ん中に腰をおろす。
「悠、何て?」
 二十時か、と当面十七時であるのを頭に残す僕に、沙霧さんはゲームの手を休めずに訊く。
「心配してくれたみたいです。その、理由は知らなくても、僕がときどき落ちこむのは知ってますから」
「そっか」
 置いていたタオルを取って折りたたむ。沙霧さんにここにいてもらえるのを確かめると、「邪魔かな」と遠慮された。慌てて首を振る。
「僕は助かります。沙霧さんにも都合がありますし。明日、学校ですよね」
「構わないよ。どうせ俺には月曜の午前中は存在しないんで」
「はあ」
「そこまで遅くもならないんだろ。ここから家も近いし、今日バイクだし」
「あ、いつもはそうじゃないんですか」
「いつもは歩き。俺、昨日ひと晩中そのへんで遊んでて、友達の家に泊まってきたんだ。で、その帰りに来た」
 鼻白み、「今でも遊ぶんですか」と言葉を拾う。僕の不安げな様子に沙霧さんは笑い、「中学のときのやばい奴らとは違うよ」と言った。つい、安堵の息をつく。
「友達、いるんですね」
「上辺のな。俺は悠みたくかたくなではないんで、口先はどうにだってするんだ。そっちのがやりやすいし」
 恋人──は、いないだろう。繕いの女の人の恋人なら、持ったことがあるかもしれない。けれど、きっと、それは沙霧さんには恋人ではない。
「最近は家にいるのもつらいんだよな。俺もここに逃げられるのは助かるよ」
「そう、ですか。家、嫌いなんですか」
「別に。ただ、俺、今年受験生だろ。普通だったら、こんなふらふらしないで勉強やってなきゃいけないんだよな。帰ったら将来のことをどう思ってるんだとか、大学は出ておいたほうがいいとか言われまくる。滅入るんだよなあ。ま、心配させるのも何なんで、今日は帰る」
「大学、行きたいんですか」
「ぜんぜん。高校だって行きたくなかったんだ。働くのがマシ。俺は学校と合わないんだよ。何でかは分かんなくても、肌が合わない。酒も煙草もやめられたけど、学校サボるのは残ったし」
「サボって遊んだりは」
「は、しない。俺は、遊びたくてサボるんじゃないしさ。教室にいたくないだけ」
 いいなあ、と思った。いたくなかったら、そこにいるのをやめる。そういうのは、すごくうらやましい。
 僕はそれができなかった。あんなに苦しいと思っていたくせに、結局学校に行き、家にも帰っていた。学校と家の往復という線路を外れられなかった。
 余裕がなかったのも憶えている。逃げ出す余裕ではなく、逃げ出すのを思いつく余裕だ。あのときの僕には、あまりにも苦痛が眼前にありすぎた。
 苦しい。つらい。死にたい。
 そんなのがぐるぐるして、逃げればいい、などとは思いつきもしなかった。その場から失せるという解決策で頭を循環していたのは、死ねばいいという手段だけだ。
 高飛びなんて、先月こうして事実やってみて気がついた。僕にはまず絶望があって、最初にそれがあるおかげで、ほかは何にも見えなくなっていた。
 洗濯物をたたみ終えると、どこにしまえばいいかは分からなくて隅にやっておいた。タオルは浴室に持っていく。
 陽が落ちるとカーテンを閉め、明かりをつけた。そのあとは沙霧さんと話したり、ゲームを眺めたりした。

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