風切り羽-56

友達になれるから

「今日、どうでしたか」
 紅茶で喉を潤すと、ドーナツを一口ずつにちぎって食べる聖樹さんに訊く。「おもしろかったよ」と聖樹さんは咲った。
 楽しかった、ではなく、おもしろかった、というのがあの四人っぽい。
「会ったのも久しぶりだったしね。時間取れてよかった。あの四人といると、疎外感感じないんで居心地がいいんだ」
 確かに、と思った。僕もあの四人といると、周囲と自分が違うという溝を感じない。聖樹さんや悠紗にもそんな溝はない。今日、沙霧さんにもそうなったわけだ。
「駅前に行ったんですよね」
「うん。昨日萌梨くんが行ったとことは違って、何かの権力があるっていうのでもないんで、ちょっとやったら移動の繰り返しだったよ。慌ただしかったし、萌梨くんは休んでてよかったかもね」
「はあ。ちょっとしかやらなくて、宣伝になるんですか」
「大してならなくていいんだって。どうせ一般大衆は自分たちが好きじゃないって」
「いいんでしょうか」
「誇りみたいだよ。世間を外れてる人に支持されるのがいいんだね」
 聖樹さんはドーナツをちぎって口に運ぶ。聖樹さんには、そうした上品な作法が嫌味なく似合う。
「みんな、あんまりここには帰ってこないんですよね」
「え、うん。電話も急用じゃない限りしないし──たまに手紙はくれるか。梨羽の詩の断片を送ってくるついでに」
「梨羽さんの」
「なくしたら困るんで、預かるためにね。レストランの紙ナプキンとか、ティッシュに書いてあったりもするんだよ。返事は出せないんで、ほとんど音信不通になる」
「一箇所に留まったりはしないんですね」
「ここ以外はね。ライヴしにきて、終わったらどこか行く」
「練習って、いつしてるんでしょうか」
「さあ。ライヴ前には近くのスタジオでやってるか。ほかは知らない。いつかはしてると思うよ。新しい曲の音は、さすがに合わせたりしなきゃいけないだろうし」
「です、よね。みんな、いつ頃にいろんなとこに行くようになったんですか」
「僕が専門に行ってた頃なんで──みんなが二十歳になるかならないかの頃。要が成人してからか。ひとり成人がついてると都合がいいらしくて。お正月過ごすところも、毎年違うんだ。何年もいろんなとこ転々としてて、全国のライヴハウスとかCDショップには顔広くなってる」
「テレビとかに頼るよりすごいんじゃないですか」
「要と葉月だったら、“地味”で済ましてもね」
 聖樹さんは咲い、ドーナツを口に放る。僕も一個食べようかなと思いつつ、カップを包んで温熱に指を温める。
「帰ってきたら、よく憶えてるなってくらいいろんな話してくれるよ。ライヴのこととか、出逢った人とか、おもしろかったり怒ったりしたこと。今日も話してもらった。僕はここに閉じこもってるんで、そういう話って新鮮でおもしろいんだ。今回はここで休みもするみたい。ここ一ヶ月は、ライブの予定は入れてないんだって。そのあとには入ってて、また行っちゃうね」
 カップにつけていた口を離し、「寂しいですか」と問うてみる。「ちょっとね」と聖樹さんは素直に笑んだ。
「あの四人が拠点置くんじゃなくて、流れ者やりたいんだったら、僕はそっちを応援するよ」
 こくんとした。聖樹さんがそうして友情を押しつけないので、あの四人も聖樹さんを許すのだろう。
「心配ではあるよ。放っておかれるのはよくても、いなくなっちゃうのは困るし。あちこちいって、軆持つのかなって。特に梨羽。梨羽は体力より精神力か」
「あ、今日の電話で、梨羽さんに少し元気ないって悠紗に聞きました。大丈夫でしたか」
「落ちこんではいても、泣かなかったし。今の梨羽は、ライヴ前で敏感にもなってるんだ。根つめすぎたとは要も言ってたか。ライヴやって、精神の安定取る前にまた新しいライヴが来て。それもあって、ここで休ませるんだと思う」
「そう、ですか。気持ち、戻るでしょうか」
「どうだろ。梨羽の回復ってまちまちなんだよね。何日もかけてだったり、何かの拍子だったり。まあ、今の梨羽はまだマシだよ。ほんとに落ちこんだら人前に出ないし、ぜんぜん切っかけもなく──梨羽の中ではあるのかな、泣き出したり唸ったりする。暴力的にはならなくても、なったほうがマシなくらい、梨羽は自分の中に溜めこんで隠すんだ。理由は僕たちに似てるかもしれないね」
「僕たちに」
「外に表してみて、それぐらいどうしたって言われるのが梨羽も怖いんだ」
 梨羽さんを想う。しつこいけれど、あの人は何なのだろう。いったい何にそんなに苦しんでいるのか。
 聖樹さんや僕がされたようなことをされたのではないという。それは昨今、イジメでも虐待でも、心を病むことはたくさんあるけれど。
「梨羽は繊細すぎるんだ」と聖樹さんはカップを手に取った。
「歌で分かるんじゃないかな。上辺しか聴けない人は、梨羽は歌の通り過激な人間だって思うだろうね。でも、本当に攻撃的でがさつな性格だったら、言動で発散しておけばいい。歌で表す必要もない。梨羽の歌は、梨羽が弱くて繊細だからこそ、暴力的なんだ」
 そう説明されると、合点がいった。梨羽さんの歌を思い返す。こんな歌とあの梨羽さんはつながらないと思った。が、梨羽さんが乱暴な人だとしたらつながるのか。いや、なおさらつながらない。
 あの歌には、強い人間には測れない情念がこめられている。煩わしいほど弱い人間でないと分からない、小さな痛みが。時間が細分化できるようなそれも、細分化されてもその灰を、梨羽さんは捨てずに、しかもきちんと感知して歌にこめている。
 梨羽さんの歌には、がなりたてる熱を取り去れば空っぽ、という危うさはないのだ。
「前に要が言ってたよ。梨羽は歌に乗せないと、言いたいことが言えないし、言いたいことがまとまらないって。で、梨羽は本心をさらすのが怖いんだし、その才能が憎らしい」
「むずかしい、ですよね。音楽する人って、好きでやるって単純なものだと思ってました」
「ほとんどはそうじゃないかな。梨羽にとっての音楽はそうじゃなくて、強迫観念になってる」
「強迫観念」
「梨羽が自分で言ってた。逃げたくても逃げられないって。そんなに嫌だったら歌うなって思うよね。梨羽自身そう思うんだよ。しょっちゅう詩を書くのも歌うのもやめようって思うらしいし。このライヴが終わって休んで、思いつめるのが落ち着くといいね」
「です、ね」
 僕は紅茶を飲んで、聖樹さんはドーナツをちぎった。怖い。憎らしい。逃げたくても逃げられない。そんな話を聞かされると、今度の“EPILEPSY”は大丈夫なのかと案じてしまう。
 まあ、大丈夫なのだろうか。結局のところ、梨羽さんは中学生のときから歌い続けている。
 ひとりでなくバンドであるおかげだろう。あの三人は梨羽さんの強迫観念を把握し、ならばせめて神経を逆撫でない音で梨羽さんを守っているのだ。精神的なバンドだよなあ、と僕は紅茶の渋い甘味を喉にすべらせる。
 ドーナツを食べる聖樹さんに、カップを置いた僕は箱を覗いてしまった。「一個食べていいですか」と訊くと、「どうぞ」と聖樹さんは一笑する。
 僕は粉砂糖のかかった、きつね色の穴が空いていないドーナツを取った。聖樹さんのようにちぎりはせず、そのまま食べる。中にカスタードクリームが包まれていた。
「僕も甘いもの食べたかったんだよね」
 手の中のドーナツを食べ終えた聖樹さんは、座卓のそばの床に無造作に置かれているティッシュを取って指をぬぐう。
「甘いの、好きなんですか」
「いや、特には。疲れたせいかな」
「疲れた、ですか」
「悪い疲れじゃないよ。あの四人といると、いつもそうなんだ。よく分かんないかな」
「いえ。何となく分かります。何ていうか、精神的なものじゃないんですよね」
「うん。これが普通の人が言ってる疲れなんだろうね」
 聖樹さんは丸めたティッシュをラックのかたわらの小さめのゴミ箱に放ると、「そういえば」と僕を向いた。
「萌梨くんは、疲れ取れた? だるそうではなくなったね」
「あ、はい。沙霧さんも相手してくれましたし」
「そっか。そうだね。さっきも沙霧と仲良かったんで、ほっとしたよ」
「最初は怖かったです。沙霧さんが気を遣ってくれて。やっと悠紗が沙霧さんをかばってたのが分かってきました」
「はは。沙霧は許したあとは早いほうだし、まだ仲良くなれるよ」
 こくんとした僕はドーナツをかじり、沙霧さんに傷を一瞥させたのを思い出した。たとえさわりでも、重大なことだったのに、なぜか頭にまとわりついていない。
 沙霧さんが不用意に探ってきたり、といって、闇雲に態度や会話から排除したりもしなかったせいだろう。さりげなく心遣ってくれていた。
 あんなに敵意剥き出しだったのになあと苦笑したくなっても、あの敵意も聖樹さんと悠紗を想ってこそのものだった。大して想っていなければ、わざわざ不快をぶつけて敵を増やしたりしない。口先はどうにでもすると沙霧さんも言っていた。
 僕は沙霧さんの上辺ではない友達になれると思う。僕は沙霧さんを許せたし、沙霧さんも僕を許した。傷口を理解し、適切に対応してくれたから、きっと大丈夫だ。

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