風切り羽-57

もし話せるなら

 聖樹さんに上目をした。聖樹さんは沙霧さんに全部隠している。話しても受け入れてもらえず、沙霧さんを失くすのが嫌だといつか言っていた。
 そのときは同調した。今は杞憂ではないかと思い直せる。
 沙霧さんは僕を理解してくれた。もちろん、他人と身内では衝撃も動揺も違う。聖樹さんの逡巡は間違いではない。しかし、拒否されると断定もできない。打撃に勝って受け入れてくれる可能性は、ある。沙霧さんには、聖樹さんは適当で澄ます相手ではない。
「何?」と聖樹さんが僕の視線に小首をかしげた。僕はドーナツにつけている口を離し、聖樹さんの勝手でもある、と躊躇った。受け入れてもらえない、というのは口実で単に話したくないだけだったら。聖樹さんが話したくなければ、話しても大丈夫では、と僕が諭すのはお節介だ。
 それにやはり、沙霧さんは僕相手のように首尾よく冷静になれない可能性もある。聖樹さんは僕に不思議そうにしている。
 僕はひと口紅茶を飲み、気を鎮めた。
「聖樹さん」
「ん」
「無理に答えてくれなくていいんです」
「うん」
「もし受け入れて分かってくれるんだったら、沙霧さんにあのこと話しますか」
「えっ」
 聖樹さんは面食らい、僕を凝視した。僕はまっすぐ見つめ返す。聖樹さんはまばたきをして、一度紅茶の水面に目を落とすと、「どうして」と顔をあげる。
「話したい、と思うなら、その、お話が」
 聖樹さんは怪訝そうになおも僕を見つめたのち、「そう言われると嫌でも話したいって言いたくなる」と言った。僕は少し咲った。
「じゃあ、聖樹さんが迷惑って思ったら忘れてください」
「うん」
 ティッシュを一枚取り、その上にドーナツを置いた。食べながら話すのは不謹慎だと思った。
 聖樹さんに向き直ると、僕は端的に口火を切る。
「今日、僕、沙霧さんに話したんです」
「え」と聖樹さんはぽかんとした。「話した」と反復され、僕はうなずき、「向こうでされてたことです」とつけたした。聖樹さんの瞳に狼狽が走った。
「っていっても、聖樹さんに話したくらい詳しくじゃないです。ただ、そういうことをされてたって。具体的なことも話してません。家のことも伏せました。ただ男に──その、そういうことされてたんで、ここに来たっていうのを話したんです」
 聖樹さんは、何も言わなかった。瞳が渦巻いて、そうとう動顛はしていた。「聖樹さんのことは言ってないですよ」と僕は言った。いちいち言うと怪しいかと思ったものの、聖樹さんはそれにうなずく動作を返す。
「それは、分かる、けど」
 聖樹さんは僕を見る。泣きそうで子供の色があって、僕の胸も痛んだ。
「何で、言えたの? 沙霧に問いつめられた、とか」
「僕が自分で言ったんです。沙霧さんは、無理に話さなくてもいいって言ってくれました」
「そ、う。じゃ、何で言おうと思ったの? いや、それは、沙霧が話しても無駄な人とは思わないけど──」
 答えに迷った。
 なぜ言おうと思ったのか。沙霧さんが同性愛者だったからだ。識別で越した上での嫌悪を、俗見の嫌悪と勘違いされたくもなかった。男同士の存在を知り、同性同士にも情交と強姦に違いがあるのが分かり、侮蔑しない人だと思った。
 が、沙霧さんが同性愛者であることに勝手に触れるのはいただけない。決定的な核心はぼかすしかなかった。
「沙霧さんにもお話してもらったんです」
「えっ」
「中学校のとき、いろいろあったこととか」
「いろいろ」
「生活が壊れたことです。いっぱい悪いことして、家にも帰らなかったって」
「あ、ああ。あのときね」
「あと、聖樹さんの別れた奥さんと仲が悪かったこととか」
 これには、聖樹さんはかすかに咲った。そしてその笑みが、幼い瞳に大人の落ち着きをわずかに取り戻させる。
「うん、仲悪かったな。沙霧が一番最初に、僕と彼女がいるべきじゃないって分かってたんだよね」
「そのお礼ってわけではないですけど。沙霧さんには、やっぱり僕がここに逃げこむのが腑に落ちてないとこもあったと思うんです。話してて沙霧さんが怖い人じゃないのも分かりましたし、そういうのを教えてもらって気持ちも許せてきて、だったらちゃんとすっきりさせたくて、それで」
「話した、の」
 こくんとした。「そう」と聖樹さんは息をついた。僕はカップを取って、喉を濡らした。聖樹さんは一考し、「どうだった?」と訊いてくる。
「分かってくれました」
 聖樹さんは慮外そうに目を開く。
「ほんとに」
「はい。あれが笑いごとじゃなくて、苦しいことだっていうのは分かってくれました。僕がここにいたほうがいいのも」
「そう、なんだ」
 聖樹さんはまぶたを半分おろし、紅茶の水面を見つめた。僕には、聖樹さんの複雑な心は明確には測りかねた。聖樹さんを混乱させたくなくて、もともとの話題に帰って趣旨をしめす。
「沙霧さんだったら、お話しても大丈夫じゃないかって思ったんです」
 聖樹さんは、弱い瞳に僕を映す。
「話せって命令じゃないです。聖樹さんが決めることですし、たくさんの人に知られたくないのも分かります。僕は他人でも聖樹さんは家族なんで、受け取り方も変わるでしょうし」
「……うん」
「沙霧さんは、聖樹さんを嫌になったり笑ったりはしないと思ったんです。びっくりはしても、否定はしないです。他人の僕にしなかったんですし、聖樹さんにはますますできないんじゃないかって。絶対に沙霧さんが聖樹さんを否定するとは決まってないのは、知っててほしくて」
 聖樹さんの瞳は再び落ちた。僕は緘黙したのち、出しゃばった自覚と謝罪を伝えた。聖樹さんはかぶりを振った。「けどね」と聖樹さんは僕を見る。
「話せるかは分かんない。頭では分かっても、気持ちでは怖がるよ。それに、僕、何年も隠してきたでしょ。分かってくれたらくれたで、沙霧、それに落ちこむんじゃないかって」
 その提議に、そうか、と思った。聖樹さんが沙霧さんに告白すると、ずっと演技していたという事実も内含される。沙霧さんは頼られなかった自分に、消沈するだろう。聖樹さんが沙霧さんに告白するなら、そういう盲点もあるのだ。
「ごめんなさい」と僕が言うと、聖樹さんははっとした。「余計なこと言いました」と反省すると、「僕が神経質なのもあるんだ」と聖樹さんは制す。
「それでも、話せる自信がなくて。あんまり口にもしたくないし。ごめんね」
「いえ」
「教えてくれたのはありがたいよ。沙霧には、嘘ついてて申し訳なくなるときもあったんだ。ちょっと考えを変えられるかもしれない」
「そうですか」と少し咲えて、「考えてみるよ」と聖樹さんもいつものおっとりとした笑みをした。僕は食べかけのドーナツを手に取ってうなずき、口の中にカスタードクリームを広げた。

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