風切り羽-58

いつか大人になっても【1】

 明け方に四人が宣伝に行ったかは分からなくて、どのみち昨日、朝には訪れないと約束していたそうで、僕と悠紗が十階の部屋を訪ねたのは昼食後の十三時過ぎだった。
 なかなか出てこなくて、「寝てるかな」と引き返そうとしたとき、『今開ける』とインターホンからひと言聞こえ、返事をする前にぶつっと切れた。悠紗と顔を合わせていると、鍵の開く音がしてドアが開く。
 顔を覗かせたのは葉月さんだった。ジーンズを穿くだけの上半身剥き出しの状態でどきっとした。肌の上には水滴が滴り、髪も雫を落としている。
「濡れてるよ」
 悠紗は睫毛をしばたかせる程度で、さして驚いていない。
「シャワー浴びてたもん。髭残ってない? 残ってるよな」
「ないよ。みんな寝てるの」
「いや、梨羽と紫苑は起きてる。『出ろよ』って蹴っときましたわ」
「要くんは」
「ありゃ死体。あ、坊やは何か久しぶりだねえ」
「そう、ですか」
「昨日も会ったか。来なかったしさ。ま、お入りなさい。寒いの」
 悠紗は葉月さんの腋の下を通って部屋に入りこむ。
 葉月さんが廊下に身を引くと、僕も玄関に踏みこんで靴を脱いだ。「鍵締めてね」と言われて鍵もかけた。
「寒い」とぶつぶつした葉月さんは、先に廊下を行ってしまった。服を着ているとわりあいしなやかに映っていたのに、その軆はけっこうがっしりしている。
 リビングには、向こうで雑誌を読む紫苑さん、中央でタオルを被って床に伏せる要さん、手前のコンポのところに横たわる梨羽さんがいた。葉月さんはいなくて──バスルームに舞い戻ったのだろう。
 先週の金曜日に来たときと情景が変わっていた。寄せ集めてあった荷物がすがたを消し、空になった大量のボストンバッグやデイパックは隅に追いやられている。
 部屋がめちゃくちゃなのは変わりなかった。衣類や生活用品、雑誌、楽器や楽譜諸々が床にじかにばらまかれ、ゴミ箱でなくゴミぶくろが直接置かれている。クローゼットのそばには、電気ストーブが焚かれていた。食べ物の残りや空き缶も放置されていて、よく眠れるなあ、といった感じだ。
 が、なぜかむさくるしくはない。たぶんこの、欲しいものがそこに放られているのが、四人なりの整頓なのだろう。
 悠紗と僕の来訪に、紫苑さんは興味もなさそうに雑誌を読み続け、迷彩模様の毛布に包まる梨羽さんはこちらに目を向ける。悠紗はテレビの前に座って、僕が見つめ返した。梨羽さんは鈍いまばたきをすると、眉を寄せて床に目をやる。
 今日も梨羽さんはヘッドホンを着用し、手元には開かれた空のCDケースを置いている。紫苑さんもギターを寄り添わせていた。
 僕はビデオとコンビニのふくろを避け、悠紗のそばにたどりついた。ノートは脇にやらせてもらい、ゲームを始めた悠紗のやや後ろに座る。
 先週もここでしていた、鈴城家にはないゲームだ。
「今日もみんな、練習行ってないね」
「えー。あ、そっか。明日か明後日には行くんじゃない」
「間に合うのかな」
「失敗したときはしたときって、いつも葉月くんが言ってるよ」
 そういえば、まあ、やりすぎて梨羽さんの心の調和が乱れるのも避けているのだっけ。
 梨羽さんは音楽に聴き入り、瞳や手足を微動もさせてない。あの状況でいいのか、回復しなくてはならないのか。傍目には良好に見えなくても、昨日聖樹さんはマシだと言っていた。
 悠紗の操作する主人公が敵をなぎたおして迷宮を進んでいくのを眺めていると、後方で音がして葉月さんが帰ってきた。頭にタオルをかぶり、服も着ている。
 葉月さんはストーブをつかむと要さんを足蹴にして向こうにやり、悠紗と僕のそばにストーブと共にやってくる。
「それ、取ってくれる?」
「え、どれですか」
「そのコンビニの」
 さっき避けたコンビニのふくろを取った。角張っていて、重さもある。
 髪を雑に拭く葉月さんにふくろを差し出すと、「サンキュ」と葉月さんは受け取った。足蹴にされた要さんがうめいていて一顧すると、「ほっとき」と葉月さんはタオルをそのへんに放る。
 ふくろから取り出されたのは、弁当とビールだ。
「あ、ぬるい。やだなあ、何で誰も冷蔵庫入れとかないんだよ。復讐として要のぶんも道連れじゃ」
 葉月さんはもう一本のビールをふくろに戻す。そして、弁当の蓋を開け、割り箸でフライをつつく。見つめていると、「食べたい?」と箸にエビフライを吊りさげられた。僕は首を振り、「大丈夫なんですか」と訊く。
「ん、何が?」
「賞味期限とか。冷蔵庫に入れてなくて」
「あー。ま、ちょっとぐらい。腹が痛くなるだけだろ」
「……はあ」
 葉月さんは笑い、「大丈夫だよ」とエビフライを食べて飲みこむ。
「今朝買ってきた奴なんだ」
「今朝。あ、行ったんですか」
「そお。行ったんですよ。ヤクが抜けて燃えカスとなった方々に、宣伝してきました」
「………、分かってもらえるんですか」
「会社帰りの生っ白いにいちゃんよっかなー」
「やくって何」と画面を一時停止にした悠紗が、相変わらず質問する。
「自分をよく分かってない奴が大好きなものです」
「好きになったら分かるの?」
「分からなくてもどうでもよくなるんじゃない。悠はヤクなんかやっちゃダメよ。脳みそ腐らせなくても、君には俺たちがいる」
「うん」と笑んだ悠紗は、テレビに向き直って敵を消滅させていく。「萌梨にもな」と葉月さんは続け、僕はきょとんとしたのち、少し咲った。
「宣伝はもうおしまいですか」
「腰入れてやるのはな。どっか行ったついでにやったりはする」
「ライヴは今週の週末なんですよね」
「来てくれる?」
「あ、はい。行ってよければ」
「じゃ、来なさい。しかし、俺こっちに来てからドラムに触ってないような。ひゃー、やばいですわ」
 言いながら、葉月さんは箸でごはんをすくい、練習より食事を取っている。
 ほんとにいいのかな、と思う。聖樹さんも言っていた。こっちを心配させるだけさせておいて──結局は成功するのか。けれど、そんなに音楽や練習に無頓着にされると、杞憂もしたくなる。
「練習とか、ほんとにしないんですか」
「いや、しないとなー。リハもなかったっけ。って、寝てるか。こいつ、よく寝るんだよな。こんなに身長が無駄にあるのは、そのせいに違いない」
 葉月さんに脚をはたかれても、要さんは起きない。疲れもあると思うが、多くの夜を不眠症にさいなまれる僕にしたら、熟睡できるのはうらやましくもある。
「嫌味な奴だよなあ。自殺した奴の遺書には、眠っても自分が死んだ夢で飛び起きて眠れないようにしたいとか書いてたのに。儚いね。何ですか、これは」
 無言で要さんを見直した。寝息に合わせて肩を穏やかに上下させ、ぐっすりとしている。確かに嫌味かもしれない。
「あっちもバカだよな。そんなん、罪悪感も羞恥心もある奴にしか効かないんだよ。こんな破廉恥野郎がこたえるわけないじゃん」
「……はあ」
「要がやったことがいいとは言わなくても、向こうもなあ。ま、悲劇の主人公になってたんだな。自分以外はみんな観客で、同情されると酔いしれる。ところが要は観客じゃなかったのでした。あー、残念っ」
 葉月さんを見た。
 僕のその目に、葉月さんは愧笑する。怪訝そうにされれば、ある意味一貫性があって恐怖に納得を織りまぜられても、言動や信念に反して葉月さんには顔色を察せる恥がある。要さんもだ。
 結果、どうも僕は混乱させられる。
「へへ。萌梨には分かんないか。聖樹みたいな目だね。こんなの言うたび、聖樹も理解不能の目えするんだよな」
「その人、つらかったと思いますよ」
「そりゃあね。マゾじゃなかったろうし。つっても、要は冷めてたよ。あの遺書に、そういう態度が正解だとも自信持ってた」
「何で、ですか」
「ほんとにつらくてただ消えたい奴は、いちいち遺書なんか書いて自分の死を飾り立てないよ。もっとひっそりしてて、感情なんかなくなる。死ぬっていなくなることだよ。死にたい奴は消えたい奴なの。告発したいとか理解求めて自己顕示できるなら、生きられるよ」
 葉月さんはいったんビールを喉に流しこむ。
「生きられることが傷ついてないとは決まってないじゃん。遺書書く時点で、彼は生きられたんだ。で、もっと効果的に要に復讐できてた。でも、傷に酔っちまった。こう言っちゃ悪いけど、バカだね。自分の生き方も分かってなかったんだ。ま、分かってる奴だったら要の神経にも障らなかったかねえ」
 葉月さんはからからすると、食事を続行した。僕は葉月さんを見つめた。やはりこの人は、スティック片手にポルノ雑誌をめくっているだけの人ではない。聖樹さんや悠紗、梨羽さんに許された人だ。
 さらりと聞かされると冷酷な視点に聞こえても、葉月さんの意見に間違いはない。僕も死にたくなったとき──あの光もない深海の渦に落ちこんだとき、誰かにこの痛みを託していこうとは思わない。思ったこともない。
 僕の場合、どうせ誰も分からないのだからと死にたくなるのであって、むしろ誰にも知られないうちにこっそり消えようと考える。あのときの僕は、無感覚で無感情だ。真っ暗の中に孤独で、生きていても死んでいても変わらないと生死の境界線があやふやになって、ふらふらと死に振れるのだ。
 でも、死の淵に立った人でないと、あの絶望感もその原理も分からない。葉月さんを見て、聖樹さんと友達だからかなと思った。それとも、葉月さんにも死にたくなったときがあるのか──。
 僕の視線に、「何?」と葉月さんはカツレツを飲みこむ。
「何か訊きたそう」
「………、葉月さんは死にたくなったことがあるんですか」
「は? ないよ。俺には死ぬ理由ないもん」
「何か、死にたい気持ちをよく言い表してましたね」
「ありゃ半分は聖樹の受け売り。萌梨なら聖樹の気持ち、分かるだろ」
「はあ──」
 あれ、と引っかかった。僕なら聖樹さんの気持ちが分かる。確かに聖樹さんと僕は、似通った虐げを受けていた。だが、なぜ葉月さんが、僕が聖樹さんと似たことをされていたと知っているのか。
 僕が聖樹さんのことを知っているのを指しているのか。それは先日要さんにも指摘されたし、たぶんそうだろうと納得しておいた。
 葉月さんが弁当を空にしたとき、そういえば静かだった悠紗は、迷宮のトラップを越せずに苦戦していた。しばし眺めていた葉月さんは、「貸して」と手を伸ばした。「ダメ」と悠紗はコントローラーを抱きしめる。
「僕がする」
「さっきから何回も失敗して。おにいさんが手本見せてあげます」
「そしたら、僕できないでしょっ」
「セーブしなきゃいいじゃん」
「そしたら取ったアイテムとか消えちゃう」
「どっちにしろ、死にますよそいつ」
「それはいいもん」
「あー、歯がゆいなあ、もう」
 そのとき、要さんが──悠紗とぎゃあぎゃあしている葉月さんの腰を蹴って──起床した。
 葉月さんはうめいて床に伏せった。要さんは息をつき、だるそうに上体を起こす。
「ったく、けっこうな目覚まし時計だぜ」
「要くんおはよー」
「おはよ。よし、今のうちにゲームしろ」
「うんっ」
 悠紗はコントローラーを握り直し、トラップに再挑戦する。要さんはこちらにも「おはよ」と言い、十三時半には見合わない挨拶だけれど、「おはようございます」と返す。
 唸った葉月さんが、要さんを流し睨む。
「ちきしょー、将来、異様に俺の足腰がとっととダメになったら、絶対てめえのせいだ」
「世話してやるんで安心しろ」
「ふん。寄生虫になって復讐してやる」
 要さんは葉月さんを小突くと、あくびを噛み、床に散らかった服やタオルをあさった。葉月さんは起き上がって腰をさすり、「ライヴ前なのに」とぶつくさする。前髪をかきあげた要さんはにやにやして、「忘れてなかったか」と言う。
「そのために帰ってきたんじゃん。あと、梨羽の療養」
「ま、お前そんなにやわじゃないだろ」
「実は梨羽より虚弱体質」
「はいはい。そういや梨羽──何かきてないか」
 見ると、梨羽さんは頭もすっぽりと迷彩柄に覆わせている。うるさかったのだろうか。ちなみに紫苑さんは変わらない。
「ライヴ近いからじゃないの」
「やばくなったらほっとくなよ。うちの看板なんだし」
「了解」
 要さんはバスルームに行き、葉月さんはビールの残りをすすってこんもりした迷彩柄を観察する。よく見ると、鈍い身動ぎはしていても、梨羽さんはこちらが不安になりそうに一見ぴくりともしない。
「あいつは一種の病気だよな」と葉月さんはつぶやく。
「病気、ですか」
「あれが正常な人間ですか」
「………、まあ」
「精神科とか連れていったら、ホコリ出まくるよ。何とか欠陥児とかさ。あ、もう大人か。鬱病とか統失とか」
「暴れたりはしないんですね」
「うん」
 葉月さんは、空っぽになったらしいビールの缶を握ったりへこましたりで遊ぶ。
「ステージじゃやばいよ。呼吸困難になるぐらい歌う。あいつ、クスリはしないからなあ」
「くすり」
「歌手ってよく薬物やってんじゃん。歌うのって肺活量いるし、けっこう苦しいんだよ。クスリやるとそれが楽になるらしいんだわ。食うか食われるかで薬と音楽やってる奴もいる。こらえるか手え出すか、音楽やる洗礼みたいなもんだね」
「そう、なんですか」
「うちのヴォーカルは、自己破壊するのが怖いだけか。あいつは自分を放棄するより、苦しんでたほうが懺悔になると思ってる」
「懺悔」
「そお。梨羽にしたら神様、俺たちにしたら梨羽を蝕む悪魔ちゃん」
 うわさされているのが聞こえているのか聞こえていないのか、梨羽さんは何も反応しない。
 懺悔。聖樹さんも言っていた。梨羽さんが聖樹さんを理解してかばうのは、梨羽さんなりの懺悔だと。

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