Koromo Tsukinoha Novels
瑞海と教室を移動したり、花蘭と学食の昼食を取ったり、いつも通り過ごしていると、すぐ放課後になった。「あー」と今日は特に俺が濁った声を上げてつくえに突っ伏していると、瑞海と花蘭はぎりぎりまで時間につきあってくれた。
明日が登校ならふたりに会えるからまだいいのに、明日は土曜日で休みだ。週末だから、ゆっくり愛人様も顔を出すのだろうが。三人で学校を出て、「マジでつらかったら連絡しろ」と別れ際に瑞海は言って、花蘭もうなずき、俺はわずかに笑むと「そうする」と身を返し、ふたりとは逆方向のホームから電車に乗った。
少し暖房が暑いくらいの電車に揺られながら、扉にもたれて景色がオレンジ色に透けはじめるのを見つめた。日も長くなってきた。かあさんが亡くなったのもこの頃だった。あれから四年も過ぎたのだ。
とうさんに、かあさんを想って再婚するななんて、そんなことは思わない。勝手にすればいい。
しかし、なぜ俺までそこで暮らさなくてはならないのか。かあさんの心を踏みつけて、当時からずっとつきあってきた女なんて、俺は関わりたくない。
とうさんは、よっぽど俺の心がどうでもいいらしい。それを感じて、暗くなっていく景色に同化するようなため息をついた。
十九時頃に帰宅した家には、まだ誰もいなかった。キッチンを覗き、シンクでカップが割れたまま放ってあるのを見つける。それを片してから、買い置きのポテトチップスを手にして、部屋にこもることにした。
部屋のドアに鍵があればいいけど、そんなプライベートなものはついていない。宿題もやる気が起きないし、ポテトチップスを食べながらノートPCで動画を眺めた。だが、こういうものでくすりとも笑えないのは、相変わらずだ。
むしろバカらしさにいらいらしながら、すぐPCを閉じると、その上に伏せった。少し起動しただけなのに、PCはもう熱っぽい。
今日は一日、神経が毛羽立っていたから疲れた。眠い、とぼんやり思って、意識が途切れ途切れになっていく。そのまま、まぶたの重さに耐えられなくなって、目を閉じると、思考が暗く溶けていくように失われていった。息が静かに沈み、俺は眠ってしまっていた。
意識が揺らいで目が覚めたのは、何度もノックされて、名前を呼ぶ声がしたからだった。何だよ、と目をこすり、つけっぱなしの明かりが視覚に刺さって眉を寄せる。「莉雪」とまた声がして、それがとうさんの声であることに気分が悪くなり、舌打ちしながら回転椅子を立ち上がる。
「何」
ドアを開ける前に訊くと、「志保里と実鞠が来たぞ」と声が返ってきた。
シホリ。ミマリ。誰だよ。いや分かっているが。名前まではさすがに把握してねえよ。
いや、というか──ふたり?
「開けるぞ」
「……すぐ行くから、ちょっと待てよ」
「来るんだな?」
「ああ」
「じゃあ、みんなリビングにいるからな」
おとなしく足音が遠ざかるのを確認して、「あー……」と声をもらして、憂鬱なため息をつく。やっぱり、逃げておいたほうがよかったかな。
でも、逃げたらとうさんは俺と面識もないままの愛人と結婚していただろう。それもあとあと面倒だしなあ、と俺は制服も着替えていない自分を見下ろし、このままでいいかと部屋を出た。
キッチンを通り過ぎてリビングに向かうと、見知らぬ女がふたりいた。ひとりは、とうさんと同年代くらいの身綺麗にした女で、“愛人”だと分かった。
もうひとりは何なのだ。髪をツインテールにまとめ、ころんと大きな瞳をして、線も細く、俺より年下に見える幼稚な感じの女の子だ。そういえば、瞳のかたちや輪郭が女と似ている──
そこまで思って、俺はとうさんの財布の中の女の子の写真を思い出した。
そうだ。あの子だ。
何だよ。まさか、本当に俺の腹違いの兄妹とか? やめてくれよ。
「莉雪」ととうさんにうながされてソファの隅に腰を下ろしても、左斜めに並んで腰かける女ふたりに、俺はどんな顔をすればいいのか分からない。
「莉雪には、いろいろ誤解させたままで悪いと思ってたんだが、この機会にちゃんと話そう」
とうさんは、俺たちひとりひとりの前に紅茶を用意してから、俺の隣に座る。
「実鞠は事情知ってかるから、説明の手伝いをしてくれるな?」
「うん、慧人おじさん」
ツインテールがうなずき、俺と目が合うと、にこっとなんかしてくる。こっちが「ミマリ」かと俺は目をそらし、肘掛けに頬杖をついた。
「とうさんと志保里は、高校時代からの知り合いなんだ」
「……はあ」
「あと、志保里の夫の稔は、とうさんと古い友人で──」
「え、夫?」
「そうだ。志保里は結婚してたんだ」
「……『してた』」
「稔もな、病気で数年前に亡くなってしまったんだよ。お前のかあさんみたいに」
俺はとうさんに横目をしてから、志保里と実鞠を見て、「で?」と冷めた声で話をうながす。
「莉雪は、とうさんと志保里をやましく見ているみたいだが、お互いに伴侶がいるあいだは、何もなかったんだ。ただ、ほとんど同時に映莉子や稔が亡くなって、それから……」
俺は思わず、嘲笑をもらした。
「くだらねえ。じゃあ、何でかあさんが、あんたによそに女いること知ってたんだよ」
「それは、映莉子も勘違いを」
「俺、かあさんに言われたぜ。『新しいおかあさんと仲良くね』って。かあさんは、あんたたちがこうすることが分かってたんだ。分かりながら、ひとりで死んでいったんだよ。都合よく話をまとめんじゃねえ。そんなのに騙されるわけ──」
「何でそんなひどいこと言うの⁉」
俺の嫌味を叫ぶようにさえぎったのは、とうさんでなく、表情を怒らせた実鞠だった。
「慧人おじさんはパパの親友で、私たちのこと心配してくれてただけなの! そう言ってるのが何で分からないの⁉」
「実鞠」と志保里が実鞠をたしなめようとしたが、実鞠は立ち上がって俺を睨みつける。俺はそれを鼻で嗤って、「お前は何にも知らないだけだろ」と吐き捨てる。
「てか、あんた何? この女の娘なのは分かるけど、父親は誰だよ。こいつ? それともミノルとかいうほう? どっちか断言できるのか?」
「なっ……ふざけないでよっ。何も知らないのはあなたのほうじゃないっ。おかあさんが大切だったのは分かるけど、被害妄想で慧人おじさんを悪く言わないでよっ」
俺は瞳をゆがめ、顔を背けて歯噛みしていたけど、「お前は平気なのかよ」と何とかこらえて言う。
「何が?」
「自分の母親が、昔からこいつと会ってたのは知ってたんだろ。夫を放り出して、ほかの男に会ってるとか──」
「友達だから会うでしょ! それだけで『放り出す』とか、あんた心狭すぎるんじゃないの⁉」
「てめ、」
俺も立ち上がりかけたのをとうさんが止め、実鞠のことも志保里が隣に座らせる。
何なんだよ。最悪じゃないか。とうさんと志保里が結婚したら、こんなのと兄妹になるのか?
そう思っていたとき、「莉雪くんには、実鞠と仲良くしてほしいわ」と志保里がやっとまともに言葉を発する。
「ママ、私、あいつ嫌だよ」
「っせえなっ。俺だって──」
「頼むよ、喧嘩しないでくれ。これから家族になるんだ」
追い討ちのようにとうさんが言い、俺は深く息を吐くと、ソファに沈む。家族って……こいつは本気なのか?
実鞠は、とうさんの言葉には素直にしゅんとなる。
「実鞠、莉雪は事情を知らなかったから混乱してるんだよ。ひどいこと聞かせてごめんな」
「……ううん。慧人おじさんは悪くないよ」
「ありがとう。なあ、莉雪。とうさんと志保里は、誰かを傷つけたくておつきあいしてるんじゃないんだ。周りも幸せにすることを考えてる」
「……正気じゃねえよ」
小さく吐き捨てる。こいつらの感覚が分からなくて、目の前がくらくらしている。
「あんたの話を信じたとしても、死んだ親友の女に手え出したわけだろ? 最低じゃん」
「志保里ととうさんは、ただ伴侶を失った痛みがお互い分かるから──」
「痛み⁉ そんなもんあんたにあるのかよ、かあさんが死んだら、いっそうその女としけこんでたじゃねえか」
「っ、あんたねえ、言い方があるでしょ!」
「ガキは黙ってろっ。マジでふざけんなよ。人が死んだことまで、都合いい言い訳にしやがって。生きてるときだって会ってたくせに、綺麗事みたいに言うんじゃねえよ。俺はガキの頃から、あんたが家に関心がないことは分かってた。あんたはずっと、その女にしか興味がなかったんだ。俺とかあさんのことはバカにして、その女のことしか考えてなかった!」
「莉雪、落ち着いて──」
「志保里さん──だっけ? あんたもせめて、ずっと愛人としてつきあってきましたって挨拶ぐらいするかと思ったら、それもなしかよ。ふざけんじゃねえよ。再婚だのは何だのは勝手だけど、俺は絶対、その中のひとりにならねえからなっ」
足を踏み鳴らしてソファを立ち上がり、手をつけなかった紅茶の水面が揺れ、「莉雪」と呼ばれても無視して部屋に戻った。頭が感電したみたいに熱くて、ばちばちと火花がいらつく。ベッドに軆を投げ、腕でまぶたを覆って深呼吸する。
こんなの……かあさんが、みじめすぎるじゃないか。泣き出しそうに、俺はそう思った。
とうさんが志保里に手を出したのが、かあさんの生前だろうが死後だろうが、この際、関係ない。どのみち、とうさんの心はあの女にあったことに変わりはない。
もっと言えば、俺より実鞠のほうがかわいいくらいなのだろう。だから財布に写真も入れている。俺の写真はもちろん入っていなかった。
何で俺を作った? どうしてかあさんと結婚した? 実鞠の父親と喧嘩して、志保里を奪えばよかったじゃないか。不倫の仲になるくらいなら、そのほうがよほど親友を裏切っていない。
あんな奴らが家族になるなんて、ぞっとする。俺の意志なんて、もはやここでは底辺なのだ。とうさんは志保里と結婚し、実鞠とは兄妹になる。
動きまわるたびうるさい害虫は三匹になる。こんなところが俺の家だなんて嫌だ。こんなに、血みどろになるまで神経をかきむしってくる家、俺の居場所じゃない。
帰ってこなくなるだけでいい。俺の生活から消えてくれればいい。この家で物音を立てないでほしい。俺のことを、この家に放っておくだけでいいのに。
とうさんと志保里は、三月の終わりに籍を入れた。その前から、志保里も実鞠も既に荷物をこの家に運びこみはじめていたが。
俺と実鞠は、どうしても噛み合わなかった。言葉、仕草、反応、互いにいちいちすべていらつく。
かといって、志保里がマシということもなかった。すぐとうさんの影に隠れて、俺とは取り合おうとしない、しおらしいようで陰険な態度が癇に障った。
俺は部屋にこもって、ふたりの侵入を何も手伝わなかった。「手伝え」ととうさんは言ったが、「いいよ、あんな人」という実鞠の聞こえよがしの答えに、初めてとうさん以外の誰かを死ねばいいと思った。かあさんの死で、軽々しく「死ね」なんて思わないようにしてきたけど、それでもこらえられなかった。
こいつらを駆除してくれる殺虫剤はないのか。そう思うけど、何の手段もなくて、この家には志保里と実鞠が棲みつくようになった。
実鞠は年下に見えたが、同い年だった。誕生日は俺のほうが先らしい。それだけなら放っておけばよかったが、彼女が編入する高校が俺と同じところだと分かって、そのときはとうさんと実鞠に「何でだよっ」と声を荒げてしまった。
実鞠も勧められた高校に俺がいるとそのとき知ったらしく、「どうして」ととうさんを見た。「頼る人がいるほうが実鞠もいいかと思ったんだよ」ととうさんは言い、「こんな人、頼らなくていい」と実鞠はふくれ、「俺も知らねえし」と俺もそっけなく言い返す。「いい加減に打ち解けてくれよ」ととうさんは参って言ったが、俺と実鞠は睨みあってからそっぽを向いた。
【第三話へ】