秋から冬へ
そうして僕は、いつまでか知れない月城家の居候になった。
生活費もろもろは、やっぱり僕の家が出すそうだ。学校から連絡等あれば、家を中継して希摘の家に伝わる。希摘が夜起きているときは、僕は結華さんの部屋を借りることになった。
「こんなときに限って、喧嘩して帰ってきたりするんだよなあ」
そんな希摘のぼやきに、その際には僕はリビングで寝るというのも決まった。そんなさまざまな問題をほどくと、僕は久しぶりに気詰まりのない生活を取り返していった。
家が楽になると、自然と学校生活もこなせるようになった。集中力も記憶力も落ち着き、どうしても憶えられなかった単語のスペルや、解けなくていらいらしていた数式が、理解不可能ではなくなる。教師にも注意されなくなったし、このまま奪回する勉強をすれば、たぶん期末に傷痕も残らない。
桐越たちにも演技しなくてよくなったけど、三人は僕の無理にわざとだまされていてくれたらしく、元気になったことを喜んでくれた。思いのほか深かった友情に決まり悪くなりつつ、僕は以前の何てことはない毎日を過ごせるようになった。
ずっと内界に憑りつかれ、いつも頭の上にいた空を忘れがちだった。空にはまだ秋の匂いが残っていて、それに気づけてよかったと僕は落ち着いた青に顔を向ける。
あんなにぎらぎらと怒り狂っていた太陽は、光がひかえめになって柔らかくなっていた。秋の青空は凛と澄み、目を細めそうに高く見える。夜の星も、宝石のかけらのように目に沁みて、夕暮れは本当に一瞬だ。青空に白い雲がうっすらとかかると、寒さもあるようになっていた。
登下校中に頬を撫でる風は、日々冷たさを帯びて、頬を切る風になっていく。通学路の桜通りも、緑のざわめきを失い、ひらひらと落ち葉を降らすのも終えようとしていた。花や緑の減少にともない、風は切り裂く強さを持って抜けていく。
虫も減ったよなあと安堵と喜びを覚えつつ、制服も冬服になった僕は、軽い足取りで排気ガスの横断歩道を渡った。そして、商店街の左の裏道を抜けると、慣れてきた希摘の家に帰宅する。
その日は土曜日で、学校は午前中限りだった。十一月になって、一週間が過ぎている。さすがに年末には自宅に帰っていると思うが、いつまでここにいるのか──遥や家のことを考えはしていても、それより、負担に亀裂が入った心を修繕するのが先決だった。
希摘の家に鍵はかかっていなくて、やや遠慮しながら勝手にドアを開ける。希摘の家の匂いにも、馴染みはしなくても慣れてきた。
空腹を覚えつつ、靴を脱ぐ僕は、寝てるだろうなと昨日は夜更けまで起きていた希摘を想う。邪魔しないように部屋に直行せず、リビングに荷物を下ろしにいくと、「ほんとに帰ってきた」と声がして僕はまばたきをした。
結華さんだった。窓が通す陽が射す食卓に頬杖をつき、今日は髪はアップにまとめている。服装は白いプルオーバーに黒のタイトスカートだ。その隣には橙色のニットにデニムのストレートパンツを合わせたおばさんもいて、「おかえり」と微笑んでくれる。
「ただいまです」と僕はうっすら暖房がかかったリビングに踏みこむと、軽い荷物をフローリングに下ろした。
「うわー。学ランよ、学ラン」
「あんた、そういうの好きなの?」
「かわいいじゃない。悠芽くんはそそるわ。学ランって、だいぶ希少よね。うちの弟も似合いそうなのに」
「あの子は去年、制服は破り捨ててたわよ」
「うわ、病んでる。嫌ねえ、メンヘラの男って。あの子、お嫁さんもらえるのかしら」
「厳しいわね」
「心配だわ。にいさんも独身でしょう?」
「男前に生んでやったのにねえ」
「頼りなさげなのよ、にいさんは。でも、希摘ほど絶望的ではないわ」
歳の離れた女の人ふたりの雑談に臆していると、「おいで」と結華さんに手招きされる。逃げ出しても感じが悪いので、僕は希摘が起きてくるのを祈りつつ、食卓に近づいた。
結華さんの脇にあるのは、荷物でなく普段使いっぽいトートバッグだった。こないだのような家出でなく遊びにきただけだろうか。ちなみに、おじさんは土曜日は休日だと訊くけれど、遊びにいくのでいるほうが少ない。
僕が座ると、「もうお昼なのね」とおばさんは食卓に広げた個装紙のクッキーを口に放った。
「何食べたい?」
「特上お寿司、取らない?」
「却下。悠芽くんは」
「え、えと、何でもいいです。ピラフでもうどんでも」
「うどんにしましょうか。あーあ、腹ごしらえしたら仕事残ってるんだわ」
「ごめんね、邪魔して」
「いいのよ。今日、泊まるの?」
「帰るかな」
「めずらしいわね」
「今回はね」と結華さんが悪戯っぽく微笑むと、「まあ、あんたの自由よ」とおばさんは三人ぶんの昼食を作りにいった。結華さんはおばさんがいた座ぶとんに移ると、「こっちおいで」と自分が座っていた隣をしめす。
「あ、制服着替えたいかしら」
「いえ、服とかは希摘の部屋にありますし」
「取ってきたら?」
「起こしちゃったらあれですし。大丈夫です」
「優しいのねえ、あんな変な奴に」
首をかしげて咲いつつ、体温が溶けてきた僕は、結華さんの体温が残る座ぶとんに移らせてもらう。
変。まあ、希摘は変と言われるのは好きなのか。
「かあさんにちょっと聞いたわ」と結華さんはおもしろそうに笑んで、個装紙を開く。結華さんの瞳は希摘のように穏やかというより挑発的なので、そういう笑みが似合っている。
「家でいざこざあったんだって?」
「ん、まあ」
「家ねえ。家の問題ってのには、あたし、実に疎いのよね」
そうかな、と思っても、そうか。この家は、かなり変わっていても、問題はない。問題のある家なら、僕自身、転がりこんでこんなに心地よかったりしない。
「学校なら、ちょっと分かるけどね」
「学校」
「あたしも昔は、希摘みたいなもんだったのよ」
「登校拒否してたんですか」
「いや、それはしなかったけど。クラスメイトには、えらい嫌われたわ。合わせなかったのよね。教室は嫌いだった」
「それでも行ってたんですか」
「ほかにやることなかったしねえ」と結華さんは紅茶を取って、口をつける。湯気も香りも消えている。
「希摘みたいに、学校行かなくてどうするってこともなかったのよ。学校行かなきゃ、こもるか切れるかだった。切れてたかな」
「切れる、って」
「売りとかさ。グレるのも特に惹かれなかったのよね。親がそれで苦労したの知ってたし」
「……はあ」
「悠芽くんは、学校と相性いいのね」
「どう、なんでしょうね。こなすことはできます。好きってわけでも」
「自然と教室にいることはできるんでしょ? あたしはダメだったわ。その嫌悪感を殺しもせずに発散しながら教室にいたんで、嫌われたわね。妬みよ。自分もそうしたいけど、できない」
そういえば、希摘もそんな感じだったかもしれない。つんとした態度で自分をつらぬいて、強調性ゼロ。「教師の言いつけを守る」ような人間の嫉妬は確かに買っていた。
「イジメとかされました?」
「うーん、友達はいなかったけど、あたしはそれで平気だったわよ。学校は、やりたいこと見つかるまでのヒマつぶしで、想い出作る気もなかった。やることないんで、中卒も高卒も取った感じね」
「はあ」
「悠芽くんは、将来の夢とかある?」
「え、まあ」
「あたしはそれがなかったのよ。未来は漠然として、自分は何がしたいのかしらって。高校終わっても見つからなくて、焦りもあったけど、周りに合わせるのは嫌だった。十八になったからって、一生を決めるなんてあたしにはできなかった」
ちょっと意外で、まじろいてしまう。結華さんにそういうまじめな部分があるとは。やっぱ希摘のおねえさんだなあと感じて、それを言ってみると、「あいつに似てるの?」とクッキーをかじる結華さんは蒼ざめた。
キッチンからだしの匂いがただよってくる。匂いを嗅ぐと、胃が急に空腹を強調して、空っぽを訴えた。僕はバタークッキーで胃をなだめると、「今は何か見つかったんですか?」と訊いてみる。
「え」
「したいこと」
「あー、まあね。二十歳のときに、ようやく見つかりました」
「二十歳」
「今の旦那様に逢ってね、彼の奥さんが、あたしだわって」
「奥さん」
「平凡だけどね。二十年間いろんなもの自分に当てはめてきて、一番しっくり来たのよね」
なるほど、と僕はうなずく。結婚とは、そういう感覚で結わえられるものなのか。正直、僕は結婚なんて遠すぎて、謎の嫌悪感すらあるけど、そんなふうに想ってくれる女の子ならいいかもしれない。僕といるのを自分の一部と感じる、というのはあってほしい。
「学校なんて、やろうと思えば思い入れも持たずに済む場所なのよ。でも、家に問題ってのはきついでしょ」
「ん、まあ。わりと」
「いとこの子が訳ありなんだっけ」
「いろいろあって、希摘より社会とダメですね。馴染めないというか、反発する感じ。僕と同い年なのも、いろいろむずかしくて」
「あー、その年頃でタメの他人って微妙よね。歳取ると、同い年は無条件の共感みたいになるけど。でも話を聞いた感じ、周囲から見れば、悠芽くんが一番彼に近いんでしょ?」
「どう、なんでしょうね。僕は分かんないです。僕なりに関係を解決してこようとはしてきたんです。それを受け止めてもらえたって感じたことはないんで、僕は絶望的って感じてます」
「ふうん」と結華さんはティッシュを取り、テーブルに広げて指についたクッキーの欠片をはらう。爪にはラメの水色のマニキュアが塗られている。
「何回ぐらい振られたの?」
「振られる、って──何回もです。いつも結局は引っぱたかれるんです」
「まあ、いくら振っても執念深い男って嫌よねえ」
「………、」
「ふふ、別に恋愛じゃないでしょ。そういうのには、しぶといってのは一番の愛じゃないかしら?」
「あ、愛ですか」
「いとこの子に、応えてほしいんでしょ」
「嫌いではないです。あいつが家族に馴染んだらいいなとは思います」
「いとこくんは、いつも頭ごなしに悠芽くんを振るの?」
「応えてくれたようなそぶりをしたら、いきなり引っぱたきます」
「それは気があるわね。うんざりしてたら、始めっから拒否するもの。悠芽くんが食い下がってたら、そのうち折れるわよ」
そう、だろうか。しかし、そのうちというのが厄介だ。明日かもしれないし、十年後かもしれない。遥の傷の深さに比例するなんて言われたら、死ぬ間際も該当する。
「試してるのかも」
「試す?」
「わがままにつきあってくれればくれるほど、愛されてるんだわって感じるじゃない? いとこくんを許せるうちは、わがままにつきあっとけばいいのよ。悠芽くんがしんどくなったら切り捨てるの」
「……はあ」
「自分の限界は守るのよ。そっちのが後腐れないしね。待つって忍耐がいるけど、あたしだって自分の一生を適当に決めたくなくて、彼に出逢うまで待ったんだもの」
結華さんがにっこり言ったとき、うどんをこしらえたおばさんがどんぶりを持ってきた。結華さんと話したので緊張も解け、僕はだいぶ自然にふたりとの輪にいられた。
昼食が終わると、結華さんが食器を洗い、おばさんはダイニングのテーブルでの仕事に取りかかる。僕は宿題をし、結華さんが戻ると雑談していた。
あくびしながら希摘が降りてきたのは、十五時前だった。
「あー、また喧嘩したのか」
腫れぼったい目をこする希摘は、結華さんのすがたを認めて、飽き飽きとそんな開口をした。「うるさいわね」と結華さんは整えた眉を顰めて、寝起きでくしゃくしゃの弟にクッキーを個装紙ごとを投げつける。パーカーと緩いジーンズの希摘は、それを当てられるも避けるもせず、手で受け止めると、「食べ物は粗末にしない」と歩み寄ってきた。
「あんたに言われたくないわ」
「俺は別に、食べ物を粗末にしないよ」
「でも、言われたくないのよ」
「ふん」と希摘はテーブルにクッキーを置き、「おはよ」と僕には笑みを作る。
「ごめんな。今日土曜日だっけ。着替えぐらい取りにきてよかったのに」
「大丈夫だよ。あ、でも着替えてきていい?」
「俺も何か食べたら部屋行く。そのままいていいよ」
「分かった」と食卓に散らかしていた勉強道具をまとめ、そばに置いていた通学かばんにしまう。
「宿題してたの?」
「うん。それと中間の勉強。結華さんと話もしてた」
「あー、ごめん。話相手させられたんだな」
「え、いや。そんなことは」
「あんた、うるさいのよ。悠芽くんに恋人できたら意地悪しそうね」
「姉貴みたいな女だったら、するかもしれない」
「あんたなんか、一生童貞なんだから」
「女がみんな、喧嘩しては出戻りするもんなら、俺はそれでもいいよ」
「今回は喧嘩じゃないわ。夜には帰るわよ」
「あー、そうなの。てるてる坊主下げなきゃ、明日は降るな」
結華さんはクッキーをまた投げ、「割れたら姉貴が食えよな」と希摘は眉をひそめ、落ちたクッキーを拾う。僕は苦笑を噛んで立ち上がり、かばんを肩にかける。土曜日のかばんは、肩にみしっと重みが来ないのがいい。
遥との仲が改善されてもなかなかこんなふうにはなれないだろうな、と希摘と結華さんのやりとりを見ると思う。兄弟より、友達になると割り切ったほうがいいだろうか。一週間以上離れている家を想いつつ、「じゃあ着替えてくるね」とリビングを出た。
提げていると壁に当たって邪魔なかばんを抱えて、階段に足をかけようとしたとき、何やら玄関のほうで物音がした。おじさんかな、とつい玄関を覗き、そこにいた人に僕はしばたいてしまう。
「真織さん」
そう、希摘と結華さんの兄である真織さんだった。すらりとした体質に、シャツとベージュのスラックスを合わせている。
真織さんも、眼鏡の奥の希摘に似た目を開き、「悠芽くん?」と落ち着いた声で僕を確認した。僕はうなずき、「お久しぶりです」と頭も下げる。「こちらこそ」と真織さんは穏やかな瞳に笑みを浮かべ、ドアマットに上がった。
「希摘に会いに?」
「ん、いや、というか──」
「あれ、にいさん来た?」
ふと開いたリビングのドアに、結華さんの声がした。
「結華。久しぶりだね」
「ちゃんと来たくれたのね」
「来いって威したのは結華だろ」
「威すって人聞き悪いなー」
むすっとする結華さんに苦笑する真織さんは、背が高くて、それが特に華奢な印象を与える。兄弟共通のしっとりした黒髪を、肩まで伸ばしているのは、執筆中に縛るためだと以前言っていた。希摘によく似ていて、鼻筋や顎といった素描だけが大人びた線になった感じだ。
「いそがしいってぼやいてたけど、原稿は?」
「脱稿はしたよ」
「そ。よかったわ」
「あと、希摘にも用があったからね。で、知らせって?」
「それはとうさんも帰ってから。希摘は今起きてたわよ。あの子、会うたび生意気になってくんだから」
「聞こえてるんですけど」
いつのまにか、希摘がリビングの入口にいた。ココアの甘い香りと湯気を立てるカップに口をつけている。
「立ち聞きなんて、趣味悪くなったわね」と結華さんは腰に手を当てた。
「俺を生意気にさせるのは、姉貴のそういう言動だと思うよ」
「責任転嫁しないでよ」
「事実じゃん」
「帰ってきて早々、喧嘩なんか見せるなよ」
「兄貴、おかえり。姉貴がいるときに偶然だね」
「いや、結華に呼ばれたんだよ」
「そなの? 何で」
「さあね。電話じゃ教えてくれなかったんで、来たんだ」
「何?」と希摘は訝った眉で結華さんを見て、「いいニュースよ」と結華さんは得意気に笑みを作る。
「へえ。離婚成立?」
「もう嫌よっ、こんな弟。かわいくないったらありゃしない」
「あ、悠芽。ごめんな。ごたごた離れて、ここに来てんのに」
「ううん。えと──じゃあ、着替えてくるね」
「うん。俺もすぐ行く」
「着替え?」と真織さんが不思議そうにして、「こっちで説明するよ」と希摘は兄をリビングに招く。結華さんは、もうリビングに入っていってしまっている。
兄弟だよなあ、と僕はしみじみ納得し、希摘の部屋に行くと、重たい冬の制服をトレーナーとカーゴパンツに着替えた。
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