新しい家族
希摘の部屋には明かりがつき、暖房はかかっていなくて、少し寒かった。鳥肌がじわりとしても、震えるほどでもない。
ベッドサイドに腰かけ、ふと外に聞こえた鳥の甲高い声に、窓のほうを見る。空の色は毎日冬の気配を帯び、蒼ざめつつある。
今年も残り二ヵ月だ。僕は家を想い、遥を想った。年末までに問題が尽きないようなら、遥は否応なしに病院に引き戻される。
九月初めに遥が帰ってきて、僕たちはほとんど接触しなかった。僕と関わらず、遥はどうだったのだろう。両親を味方につけ、僕をはじけて、満足だったのか。だとしたら、僕は遥をあきらめたほうがいい。はじかれるのは御免でも、要は、遥は僕と関わらなければ平穏なのだ。
しかし、そんな気がしないのは、かあさんや希摘に感化されているせいか、あるいは僕のうぬぼれか。
遥の僕への態度を思うと、あきらめて当然だという気がする。遥は僕のせいで、切れたし、家出したし、薬も恐喝も、自殺未遂までした。羅列するほど、僕は遥に近づいてはならない気がする。
でも、鬱のときのじっと見つめてくる瞳や、切れたあとの痛ましいの嗚咽、手首に血をあふれさせたり僕を親と錯誤したりしたときの、すがりつく涙や言葉を想うと、あいつは僕に心を開こうとしてんのかなあと思わなくもない。
なぜ、遥は心を開こうとしたあと、いつも中断して、閉ざしてしまうのだろう。僕は遥に、思い直しをさせる何かをしているのだろうか。
希摘は、遥は僕にいてほしいのだと言った。遥が切れる前には、確かに僕との空白がある場合がある。家出したときは、前日と異なって僕が食事を持っていかなかった。自殺未遂の前の説教にも、僕は同席しなかった。このあいだの部屋荒らしの前は、もう言うまでもない。でも、希摘は僕が始終くっついているのも解決ではないと言った。
どうすれば、遥の心そのものを気丈にしてやれるのだろう。癒すなんて、即座にできないのは分かっている。しかし、日常を生きる上での気強さはあったほうがいい。
遥は、変化も怖がっている。癒される未知より、化膿した過去をえらんでいるのだ。癒してやろうと医者に引っかきまわされたのも、焼きついているのだろう。どうすれば、治療を怖がらないようにできるのか──信頼されることだろうか。
堂々巡りだな、と首を垂れる。信頼されるかどうかは、すなわち、遥が心を開くかどうか、遥が僕をどう思っているかというところに根ざす。
どうなのだろう。希摘は、遥は僕を必要としていると言う。あの日遥を見て、絶対そうだと言い切るようになった。ならば、僕はどうやってそれを汲み取り、遥の心に光を灯すことができるのか。遥がどういう基準で心を開閉するのか、それが分からなくて、結局僕は空回りになっている。
僕は遥とやっていく才能ないのかなあ、とため息をついていると、ドアが開いた。顔を出したのはもちろん希摘で、手にトーストとコーンスープの缶を連れている。
足でドアを閉めた彼は、こちらに来て、「暗い顔」と僕を覗きこんだ。「家のこと考えてたから」と素直に言うと、「そっか」と希摘はエアコンに目を移す。
「暖房つけていい?」
「うん。寒くなってきたよね」
「やだよなあ。俺、冬嫌い」
「そう?」
「重いもん。服とか、暖房とか」
「僕は夏のがばてるな」
「悠芽はクーラー強くないもんな。暖房は大丈夫?」
「暖房は平気。眠くなるけど」
希摘は笑って、バターが香ばしいトーストをくわえ、コーンスープはベッドに置くと、リモコンで暖房をつけた。僕の腰に転がってきたコーンスープは常温で、「熱くないとまずくない?」と僕はそれを手に取る。温風に前髪を舞い上げた希摘は、「熱いと、舌火傷するもん」と隣に座った。
「パンのクズ、シーツに落ちてるよ」
「え、どこ? あー、もういいや。あとで掃除すればよし」
「しなかったら、僕がするよ。虫が来たら嫌だから」
「虫、まだいる?」
「減ってはきたけど。いるのはいるでしょ」
「部屋に虫がいたら、それは感じ悪いな」
希摘はそう言って、トーストにかじりつく。きつね色にたっぷりバターが染みこみ、匂いも柔らかでおいしそうだ。十五時半ぐらいで、おやつを食べてもいい時間帯だから、僕はちょっとつらい。でもうどんとお菓子食べたし、と自制すると、手の中のコーンスープも希摘に返した。
「僕、ゲームでもさせてくれたら、気にしなくていいよ」
「ん、何が?」
「真織さん来たし、一階にいても」
「ああ。大丈夫。兄貴は今日泊まって、明日もいるんだってさ。それに今は姉貴いるし」
「結華さん、嫌い?」
「嫌いじゃないけど、口達者に負けないように頭使う」
「頭使ってるの」
「使ってますよ。無意識じゃ、あの人には負けます」
「無意識と思ってた」と僕は脚をぶらつかせ、何だか上の空な僕を希摘は見つめる。さく、とトーストを食べたあと、「悠芽のほうが話したいんじゃない?」と希摘は言った。
「ん、誰と?」
「兄貴。元医者じゃん」
「今は作家でしょ」
「知識はある」
「医者には頼りたくないよ」
「兄貴は作家だよ」
僕は希摘と見合った。ついで、ベッドに腰を沈めると、「自分で答え出さなきゃ意味がないってことは、ないかな」とまぶたを重くする。
「兄貴は答えなんかくれないよ」
「そ、かな」
「分析とか助言だけで、答えはくれないと思う。答えは他人が見つけるもんじゃないよ」
「真織さんは、少しは僕んちのこと知ってんだっけ」
「うん」
「僕は……遥に、どう思われてるかが分かんないんだよね」
「必要としてんだってば」
「必要とされてて、僕は何したらいいの?」
「答えは悠芽にしか分かりませーん」
僕のジト目を無視して、希摘はトーストを胃におさめていく。希摘が正しいのは分かっていたので、僕は力を抜いた瞳を室内に放った。僕の荷物はクローゼットの前に積まれ、制服は借りたハンガーでかけてある。制服に皺が寄ると、風紀がどうとか言われるのだ。
「兄貴なら」と希摘はトーストを食べ終わると、取ったティッシュの上に手をはらった。
「俺より細かく助言くれるよ」
「細かく」
「説明できる語彙とか、表現力とかは、兄貴のほうが高い」
「真織さんが、迷惑ってのはない? だって、そういう……医者の仕事は、自分から辞めたんでしょ」
希摘は僕を見た。僕は瞳に懸念を溜めて見返す。考えた希摘は、「たぶん大丈夫だよ」とティッシュを丸めた。
「兄貴は、一対一じゃなくなっただけだもん」
希摘は、ティッシュをゴミ箱にやると、長い指でコーンスープのプルリングを開けた。後頭部の髪が温風に揺れて、うなじが生暖かい。ひとりだけで考えて、ずるずるこの家にいるのも迷惑だろう。空中に目を細めた僕は、機会があれば、真織さんと話すことを視野に入れた。
その日の夕食は、腹ごしらえに帰ってきたおじさんも合わせて、大所帯になってしまった。「僕、外れてもいいけど」と揃うのも久々であろう家族に遠慮すると、「今は悠芽もうちの子だからいいの」と希摘が僕を隣に座らせる。
今日の献立は、焼肉だった。相変わらず、月城家の箸は早い。この家庭で育つなら、レアが好みであるのが単純に得だ。が、僕はよく焼かないと生臭くて食べられない。希摘が末っ子の幅をきかせてウェルダンを作ってくれて、僕はやっと夕食にありついた。
「俺とこいつもしょっちゅう喧嘩したけど、結華と健司くんほどじゃないな」
何枚かの肉を、一気にタレに浸す僕の正面のおじさんの言葉に、「喧嘩じゃないって言ってんでしょ」と結華さんは鉄板に野菜をどさっと乗せる。鉄板では、肉や野菜が焼けるおいしそうな音が上がり、香ばしい匂いと熱く白い湯気も立ちのぼっている。
「じゃあ、何でいるんだ」
「ひどいわね、かわいい娘に向かって。帰ってきちゃいけないっていうの?」
「健司くんは、夕飯どうするんだよ」
「今日出張なのよ。明日、空港に迎えにいくわ」
「浮気相手といたらどうする?」
希摘のそんな言葉に、結華さんは舌打ちする。
「悠芽くん、君の隣にいるそいつ、一発殴って」
「え」とほどよい焦げめのついた肉を口に運ぼうとしていた僕は、とまどって希摘を見、「悠芽は、姉貴じゃなくて俺の友達なの」と希摘は結華さんに舌を出す。
「ムカつく。じゃあ、にいさんが殴ってよ。あたしの兄でしょ」
「あのなあ──」
「兄貴は、俺の兄でもあるよ」
「口答えしないでよ」
「何でそんなに、弟に暴力をふるうことに固執するわけ」
「あんた、殴らなきゃ黙らないじゃない」
「ふたりともやめなさい、恋人同士みたいに」
「はあ!?」
希摘と結華さんは、味噌汁に口をつけるおばさんを見、僕や真織さんは笑いを噛んでしまう。「結華みたいな嫁、連れてくるなよ」と希摘に言ったおじさんに、「任せて」と希摘は請けあい、「何よ」と結華さんは睥睨をくれる。
「父親っていうのは、娘を溺愛するものよ」
「犯していいのか」
「とうさんは度合を知らないわね。あんまりあたしのこと貶すなら、来年生まれる孫には会わせないわよ」
さりげない言葉に、食卓が止まった。じゅーっ、という音と匂いだけが残り、手や口はぽかんと停止する。
「孫……?」とおじさんがゆっくり繰り返し、「そ」と結華さんは腰のあたりをしめした。
「三ヵ月だって」
得意気な笑みの結華さんを除き、一家は唐突な朗報に顔を合わせた。
僕だけ、その感動に仲間入りしていいのかまごついて、結華さんを見た。「この子の母親も、“あたし”なのよ」と僕の視線に気づいた結華さんは言い、僕はその満たされた瞳を見つめて、つい咲ってしまった。
それから、とっさの動顛の沈黙が裏返り、「ワイン開けよう」とおじさんはおばさんに酒を持ってくるように言った。
「何だ、いつ分かったんだ」
「昨日よ。その前に体調が変だなあって調べて、陽性だったの。健司が出勤したあと、病院行って確実になったのよね」
「そうか。そういうことはさっさと言えよ」
「離婚成立とか言われて、邪魔されたのよ」
「姉貴が幸せそうに報告するなんて、それぐらいと思ったんだもん」
「うるさいわねえ」
「知らせってそのことだったんだ?」
驚きを残す真織さんの声に、結華さんはうなずく。
「みんなに知ってほしかったの」
「そっか」
「健司くんには知らせないのか」
「だから、明日は空港まで迎えにいってやるの。いつもはそんな世話しないわよ」
「タクシーで行くんだぞ。電車とかバスで軆つぶすのは良くないからな。あと、俺たちは飲むけど、お前はジュースだ」
「はいはい」
急に心配症になるおじさんと、それに苦笑する結華さんを眺めて、希摘は何やら複雑そうに甘い香りのキャベツをかじる。「どうしたの?」と訊くと、「俺、おじさんじゃん」と希摘はどうやらその語感に眉を寄せた。僕は咲ってしまって、「希摘が叔父さんなら、おもしろい子に育ちそうだね」とタレに浸した肉とごはんを口に入れる。希摘は僕は肘で突いた。
「うちに洋酒ってなかったわ」とおばさんは日本酒の瓶を持ってきて、未来の初孫を祝い、夕食は宴会みたいになっていく。
こういう、新しく家族が芽生えた瞬間というのは、僕は初めてだ。ひとりっこだし、母方の実家以外の親戚ともつきあいがない。と思ったら、遥が来たときも、新しく家族が増えたときなのか。月城家のみんなは、まだ見ぬ結華さんのお腹の子を、無条件に、躊躇も懐疑もなく、家族として受け入れ、祝福している。僕は肉を噛みしめ、僕んちは遥にそういうのがなかったな、と不意に気がついた。
僕は遥に躊躇いがちだった。窺って、探って、それは疑うというより、彼を知らないからだったのだけど、傷にひずんだ遥の心が疑念と捕らえたのはありうる。
僕が遥に、無条件ではなかったのは確かだ。何かを知っておかないと、彼に接するのが怖かった。何だろうと受け入れてやる、と詮索もなしに受け止めることはしなかった。いつも僕は、遥に切り札を欲しがった。よそよそしく、心を交わさない、他人みたいに。そう、僕は遥を心に許していなかった。
遥は何も知ろうとしない相手にこそ、心を開きたいのだろうか。無知より愛情を優先し、無鉄砲なぐらい包みこむ。僕は遥にぶつかって、ふろしきを広げても、それで遥を包みこみはしなかった。遥が落ち着けば、もう放った。
いや、落ち着いたのなら関わるのは良くないかという僕なりの配慮だったのだが、遥が僕を警戒していなかったとしたらどうだろう。さっきは取り乱していたけど、落ち着いたらきちんと話そう、と待っていたとしたら。僕は来なくて、関わったのを後悔されたのかと、途中で面倒になったのかと、裏切られたのかと──そう思ったことも、遥にはあったかもしれない。
入院中、遥は僕を呼び出して、もう自分に関わるなと言った。あれが、僕に裏切られることには疲れたという表示だったのだろうか。僕は遥に無鉄砲になるときはあっても、その態度を持続させなかった。それで遥も思い直して、僕を締め出した。
遥は相手の包容力を見て、相手に自分の傷が負担にならないかを測り、心を開閉する。そうだ。遥の傷は遥が一番知っている。誰彼構わず撒き散らしても、飛び散った血を相手に不快がられたらと、遥は怖いのではないか。もしかして、遥は、こちらを思いやって心を閉ざしている?
僕たちに、そのべとつく血がつかないように、つけて鬱陶しがられないように、心の傷を塞いでいる。遥は、僕たちに血をつけたら、嫌がられると思っているのだ。家族だと受け入れられている気がしないから──
遥にはそういう思いやりがあるとは思えない、とは思わない。むしろ遥は、そうとう神経が細くて繊細だ。細いから切れてしまうのだ。太ければ切れたりしない。
心の痛みなら、遥は死ぬほど味わっている。それを他人にばらまいてやろうと無神経になるには、遥には切れる神経がある。遥は自分を祝福しない僕たちに、自分を否定しまくった実の両親を見て、殺されないよう心を押しつぶしているのかもしれない。
どうすれば、遥の家族になれるのだろう。赤ん坊が芽生えたように、何も悩むことなく、遥を家族だと認められるのだろう。僕は遥に、たくさん失敗してしまった。たぶん、あとがないところに来ている。
遥を野生の草原から保護し、僕の家の中の暖炉の前に座らせたい。僕が遥にふろしきを広げるきっかけは、いつも遥に何かあったときだった。だとしたら、次に遥に問題が起こったときがチャンスなのか?
「どしたの?」と希摘が首をかたむけて覗きこんでくる。僕は希摘を見て、笑みを作ると首を振った。「そ」と希摘は菜箸を使い、僕の皿に肉や輪切りのとうもろこしをくれる。
ここで話すことでもない。部屋に戻ったら、希摘の意見ももらおう。遥に問題が起きたら、今度は、途中で投げずにつきあう。そればかりが手ではないだろうが、もし何か持ち上がれば、必ず生かすのだ。
僕はひとり胸でうなずくと、まだ噛んでいた肉を思い切って飲みこんだ。
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