野生の風色-71

それでも救いたくて

「その子も事情があって、ストレスで暴力衝動に憑りつかれてた」
 真織さんのゆっくりした口調の話に、僕は黙って耳をかたむける。
「常にものをめちゃくちゃに壊して、目の前にいる人間を手あたり次第に殺そうとする。僕は医者になって何年目かで、その子の事情を知ってほんとに親身になった。それで、何年もかけて、その子から自滅的な衝動を取り去ったんだ」
「取り去った、んですか」
「うん」
「じゃあ、よかったんじゃ」
 真織さんは何ひとつこもらない笑みで、陽射しの中でうつむいた。「僕もそう思ってた」と外の鳥の声に紛れそうに言う。
「でも、心の病はそんなに簡単じゃなかった。僕はその子の心にあったものを取り去ったあと、代わりにそこに埋めるものを持ってなかったんだ。確かに、その子は暴れなくなったよ。代わりに、ずっと虚ろなまま、何もできなくなった」
「………、」
「奪っただけで、作れなかった。医者なんてみんなそうだって……いや、少なくとも自分は『作れない』医者だって思ったとき、僕は仕事を続けられなくなった」
 真織さんは細い息をつき、僕は紅茶の水面で自分の大きめの瞳を見た。
 そんなことも、あるのか。だが、すごく納得もできる。
 むずかしいんだな、と自分の胸のあたりが健康であることが、どんなに大切なのかが迫ってくる。
「心の傷は、その人の存在の一部になる。消せばいいってものじゃないんだ。消したら、骨抜きになる場合がある。だから必要なのは変えることで、それは並大抵の医者じゃダメだ。医者は肝心なところでは無力だ。与えられないから。あの子に必要なのは、満たされることだったんだと思う」
「……満たされる」
「医者は正直、患者を個人的な存在とは思ってない。線引きはする。そもそも、ひとりにかかりきったら、ほかの患者が痛み出す。でも、傷ついた心に必要なのは、自分を特別に想ってそばにいてくれる人なんだ」
「………、」
「あの子のことは後悔してても、医者を辞めたことに後悔はない。間違いなく、僕には才能がなかった。でもね、やっぱり救いたいんだ」
 僕は真織さんを見つめる。
「だから、僕は小説を書く。いろんな手紙が来るけど、その中に『ありがとう』『救われた』『ひとりじゃなかった』って言葉があって……僕も救われるんだ」
 僕はうなずいて、そっか、と遥を想った。医者は、確かに“遥”に目を向けていることはないだろう。遥の心そのものには構わず、そこに巣食う疾患ばかり見ている。
 僕は、遥を家族として受け入れたいとは思っている。特別になる覚悟はある。
 湯気は失っても温かい紅茶をすすると、僕は真織さんを見つめ直して、自然と遥との今までを語りはじめていた。僕の話を、真織さんは黙って最後まで聞いてくれた。
「悠芽くんは、遥くんが好きなんだね」
 希摘の家に居候することになったことまで吐き、僕が冷めた紅茶でひと息ついていると、真織さんは笑みを交えながら言った。
 背後では、朝陽は陽光となってまばゆさをおとなしくしはじめている。
「そ、そう、なんですかね」
「何とも想ってなければ、そこまでされたら見捨てるよ」
「義理、じゃないでしょうか」
「義理でも、そこまでやれない。遥くんは……家では、そこまでなってしまうことを受けてたんだね」
「その火傷みたいのが、当たり前ではあったみたいです」
「過去だけ見たら、遥くんは救いようがなかったんだろうね。でも、現在も視野に入れたらラッキーだ。悠芽くんがいた」
「僕ですか」と自信なく瞳を弱めると、「僕も希摘と同感だよ」と真織さんはおっとりと笑みを作る。
「遥くんは、悠芽くんに執着してると思う。ちゃんと態度で表してるし」
「……好きな子はイジメる、ですか」
「いや、遥くんなりのやり方で。引っぱたかれて、引っぱたき返したのは、すごく気持ちが表れてるね」
「え、どんな……」
「悠芽くんに心を開きたいっていう」
「どこがですか」
「悠芽くんには、親には絶対にできなかった反撃をしたんだ。悠芽くんは自分を虐待した親とは違うって認めることができてるんだよ。やり返しても、殺そうとはしてこない、分かってくれる相手だって」
 僕は、ぽかんとまばたきをした。
 まったく思いがけない角度で、物事を見せられたようだった。そんな見方もあるのか。引っぱたくなんて、嫌われているとしか取れなかった。虐待されてきた遥には、平手打ちは憎悪の表現でしかないと思っていた。
 違うのか。遥は僕が親と違うから、怖くないから、引っぱたけた。
「素直に言うのは怖いんだね。万一、そうじゃなかった場合の保険が、表出を曲げたんじゃないかな」
「……すごい、ですね。僕はぜんぜん、そんな視点に気づかなかったです」
「セオリー通りのことだよ」と真織さんは苦笑いをして、座布団の上を座り直す。食卓に当たる光の面積が変わる。
「大丈夫だよ。遥くんは、悠芽くんが今までやってきたことを、全部分かって受け止めてる」
「そう、でしょうか」
「うん。悠芽くんには拒否に見えたほかのことも、よく見直したら、許容があるはずだよ。それをすくい取ってみれば、遥くんとの関係も分かってくるんじゃないかな。もう、見捨てたりあきらめたりするには、悠芽くんは遥に踏みこみすぎてるよ」
「……はい」
「悠芽くんは、行きも帰りも分からない状態じゃない。行き先は見えかけてる。きっと遥くんを、冷たい風の中から暖かい家の中に迎え入れてあげられるよ」
 僕がこくんとすると、不意に真織さんは愧色を混ぜて、「何か、えらそうだね」と詫びてきた。僕は首を振り、「参考になりました」とお礼も言う。
 医者なんかいらない、と軽蔑していたけど、やはり助けられることもあるのだ。真織さんは、すでに医者ではないけれど──作家として、今も「誰かを救う人」だ。
 冷めて甘さだけ残る紅茶を飲みほす。真織さんの向こう側の、窓に射す外の光や色合いに細目をする。外でも、人の話し声や車の通り過ぎる音が聞こえはじめている。
 そろそろ寝起きのにぶさもなくなり、紅茶で胃も始動して、空腹を感じはじめてきた。「お腹空いたね」と真織さんも言い、僕はうなずく。「何か用意しようか」と真織さんは立ち上がり、無意識に遠慮しそうになったのを制して、僕はまたうなずく。そして、「手伝います」とカップを持って立ち上がると、真織さんとキッチンにいった。
 フライパンを熱する真織さんの隣で、スクランブルエッグ用のたまごをかきまぜる。
 僕は真織さんの助言を思う。希摘の言う通り、真織さんは明確な“答え”はくれなかった。そこは僕が見つける問題の要なのだ。遥をどうやって、家の中に招き入れるか。
 遥は充分すぎるほど僕に応えていた。僕はそれを考えなしに受け取り、裏の真意を理解してあげなかった。鵜呑みをやめて、理解の糸口を探そう。そうして、遥の態度が読めれば、必ず何かつかめる。
 よし。遥との今までの生活を、もう一回、じっくり思い返してみよう。
 そう心に決めると、フライパンで香りを立ててとろけたバターに、僕は泡立て器をひいて真織さんに溶きたまごを渡した。

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