色褪せた水底で
やけに久しい、光景を行き来する感覚の中に、飛季はいた。
抜け殻状態であわただしい日を過ごしたのち、飛季は年末年始の休暇に突入した。待ち侘びていたこの行事がひどい拷問になっている。一日の大半、ベッドに虚脱して、無気力な自分の底に落ちている。
この部屋に奇妙な暴状を残して実摘が消え、何日か過ぎていた。「チョコレートケーキが食べたい」と実摘が言っていたクリスマスも虚しく過ぎ、世の中は正月へと昂揚している。
クリスマスには、淡い望みでチョコレートケーキを買ってきた。実摘はやはり帰ってこなくて、もしかしたらと期待した自分がみじめになった。実摘は、正月には雑煮も汁粉も食べたいと言っていたが、作って待っていそうな自分が怖い。さすがに、ひとりで初詣には行かないと思うけれど。
実摘とは、いろんな約束をしていた。それが未来の保証だと取っていたのは、飛季ひとりのうぬぼれだったのだろうか。
実摘はこの部屋を蒸発した。約束がひとつも果たされない絶望的な日々に、飛季は堕ちこんでいる。情けないと自覚していても、どうにもならなかった。
初恋が突如として砕けた少年のような心境だ。いや、飛季の初恋は実摘だ。腐っていた飛季の心に、あの子は初めて新鮮な血をそそいだ。飛季には、実摘は本気で生涯一度の恋であり、彼女以外の人間にはこんな想いを抱きたくなかった。
愛してる、なんて無責任な言葉は、実摘のためにしかなかった。それが、こんなかたちで停頓してしまうなんて。
ベッドに横たわって、ぐったりと死んでいた。にぶくシーツにうつぶせになる。実摘がいなくなってシーツを変えていない。億劫なのも、実摘の匂いが消えるのが怖いのもある。それでも、染みこむ実摘の匂いは薄くなっている。
泣きたくなりながら、シーツに頬を当てる。実摘がいない。このベッドに横になれば、腕に実摘を抱きしめるのが当たり前になっていた。埋まる実摘の頭がなく、飛季の胸は本当に空っぽだ。
実摘が消え、そして、実富が消えた。あの夜の翌日午後、飛季は吐きそうな気分で綾香家を訪ねた。そこには実富の両親、そして実富の担任教師もいた。飛季の頭は実摘のことでいっぱいで、交わされる話にも上の空だった。
実富の母親は、ぼうっとしている飛季が癪に障ったのか、ずいぶんな剣幕でこちらを責めた。母親の荒れ方はひどく、父親がそれをなだめていた。飛季は、実摘の失踪を語ったときの彼女の淡々とした様子と、この取り乱した様子を比較してしまい、やりきれなくなった。
父親のほうは、逆上というより茫然としている様子だ。「すみません、突然すぎて、妻も僕も現実感がなくて……」と目を泳がせている。
実富の担任教師は、三十くらいの女性教諭だった。彼女もかなり動揺している様子で、左薬指には指輪が光る手が震えていた。「学校では、本当に問題はなかったの?」と実富の母親は彼女にも咬みつき、「綾香さんはみんなに慕われていて、そんな、滅多なことは……」と心もとない声で答えていた。
警察にも連絡が行った。ふたごの姉も謎の蒸発を遂げているということで、腰の重い警察も動いたようだ。家庭教師として実富と密接だったということで、飛季も聴取された。変わった様子はなかったとまったくの事実を述べた。疑ってくる警察特有の目つきに、実摘にかくまっていたことがよぎったものの、当然、口にはしなかった。
実富が行方不明になった話は、住宅街の恰好のうわさになった。実摘という家出した姉がいることを、うわさで初めて知った人も多いらしい。家でひどいことがあって子供たちは逃げたのではないか、とささやく人もいた。
実富の母親は、初めはそんな近所の住人に「デマを言わないでください!」と咬みついていたものの、「あんなふうに切れるならねえ」「娘さんたちもつらかったでしょう」と人々の憶測は止まらず、次第に彼女は家に引きこもるようになった。
そんな状況が耳に入ってくるくらいには、飛季は一応、実富失踪の渦中にいた。いや、渦中どころか、実摘のことも知っているのだから、真相も分かっていた。でも何も口外せず、他人事の感覚しかなかった。狼狽して焦る周囲が、銀幕の向こうに見えた。
飛季の心は、実摘の不在で色褪せていた。実摘がいなくなって、飛季は死んでいる。実摘と同時に消え失せた、あの歪曲した少女によって殺された。実摘を奪うという、最もむごたらしい方法で。
飛季は、実富に精神をもぎとられた。あんなガキに、と情けない反面、ただのガキじゃない、と実摘に聞かされた彼女の屈折にぞっとする。実摘は、あんな狂った少女の元に拉致された。
ため息をついた。仰向けになると、前髪が額を流れた。
ふと、仰向けの飛季に馬乗りになった実摘が、胸に耳を当てるのが好きだったことを思い出す。今、飛季の軆の上は軽く、実摘の危なげな体重に抑えられた腹の甘い息苦しさもない。
実摘を想った。仕種や表情や言葉を。柔らかい感触、なじむ体温、すっぽり包めた幼い軆。実摘がくれたものは数知れない。
実摘は、飛季の幸福をたくさん紡いだ。それは細い指先だったり、桃色の唇だったり、濡れた瞳だったりした。彼女はちぎれそうな綿菓子のような頬をしていた。栗色の髪のあいだを、この指は行ったり来たりした。
何度も抱いた。初めて、軆を重ねる良さが分かった。実摘には、いろいろ初めてを教わった。初めて誰かに執着したし、初めて他者を正視したし、初めて素顔をさらすことかができた。愛情を知った。そのぶん、彼女が隣にいないと信じられないほどつらかった。
実摘がいない。寂しい、と心でつぶやいてみる。喉元がぎゅっと疼き、まくらに顔を埋めた。
寂しい。そうだ。自分は寂しいのだ。実摘がいなくて、すごく寂しい。実摘のいない生活なんて受け入れたくない。すっかり弱くなった。飛季のほうが実摘に依存していたのかもしれない。飛季には、実摘を失うことは人生を変える重大事だった。
どうすればいいのだろう。ここで受け身になっていても、どうにもならない。
捜しにいくのか? どこに? 実富が実摘を連れていくとしたら? どこも浮かばない。
ただ、ひとつ瞥然としたのは、一時期通っていたあの物騒な街だった。行方をくらますには、あそこは最適だ。が、現実的には近隣を失せている可能性が高い。
何をすべきなのか。どうすれば実摘は帰ってくるのか。
飛季には、実摘が必要だった。そばにいてほしかった。実摘を取り戻せるのなら、飛季は何をしたっていい。
だけど、肝心の何をすればいいのかが、飛季には分からなかった。
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