陽炎の柩-59

失われていく

 頭が痛い。体内を踏み荒らす鈍痛が、どんどん内攻している。シーツの湿りに顔を押しつけた。肩甲骨や背中を確かめてさする手には、喉を捻られるような吐き気を誘う。実摘は唇を噛んで、きっとまだマシなこの頭痛に耐える。
 実富に軟禁されて、どのくらいか経っている。記憶を掘り返され、縫い目を鉤爪で裂かれた実摘は、精神状態を手荒く揺さぶられていた。削られた自我に自己回復は追いつかず、徐々に実摘は、砂の残骸と化してきている。
 寝たり食べたり、生活最低限のことをしているとき以外は、実富のおもちゃになっていた。実摘は彼女の愛撫を、口づけを、ほっそりした手を受けた。実富を実富と情交させた。実摘はここで、天国のような白い絨毯の上で、倒錯した愛の地獄を見ている。
 ふかふかの絨毯に手をつき、膝をつき、実摘はみじめに獣のかたちにされていた。細い手が、軆の奥をまさぐっている。何もかも嫌で、顔面をベッドのシーツに突っ伏す。
 息ができない。いろんなものが耳鳴りになって、交錯していた。耳障りな息遣い、蕩けた喘ぎ、こめかみに響くささやき、内なる抵抗の悲鳴。
 実摘は、一番最後の悲鳴に集中する。心まで実富に服従する犬にはなりたくなかった。自尊心のためにも、飛季のためにも。
 飛季。今頃、どうしているだろう。会いたい。いますぐ、彼の腕の中に戻りたい。飛季は哀しんでくれているだろうか。実摘が戻ったら、歓迎してくれるだろうか。
 ここに来て搾取される実摘は、早くも飛季に愛される資格などない気持ちになっている。それでも、飛季にもらった言葉を丁寧に舌に転がし、その味に神経をそそぐと、飛季の愛を信じられた。だいぶほっとした。この悪魔の下でも、飛季の存在は実摘の安らぎになる。
 ひとつ気がかりなのは、部屋にひとりぼっちになっている飛季だ。にらがいてくれているとは思うのだが、心配だ。実摘がいると落ち着くと飛季は言ってくれた。嬉しい言葉だったのに、この状態では不安もはらんでしまう。飛季はきっと、あの部屋で実摘の不在に怯えている。それを思うと、実摘も哀しくなった。
 実摘の生活の世話は、ときどき伊勇がしても、ほとんど実富がしている。食事も風呂も、実富と一緒だ。昔と同じだ。そんな既視感も、実摘の心をみしみしと圧迫した。
 小部屋のすりガラスのドアの先が、バスルームだった。何で鍵が、と思ったら、そこには人が通れる窓があった。しかし、広がる景色は空で、地上は遠いのをしめしている。「軆がつぶれたら困るからね」と実富はタイルに寝かせた実摘の裸体を泡立てた。自殺でなく、あくまで肉体の破損を懸念しているのだ。
 もうひとつの鍵がついたドアは、不愉快な部屋につながっていた。薄暗い室内には、手錠や縄、台、卑猥な器具が揃っていた。それらで、実富は実摘の軆を好き勝手にもてあそんだ。あらわに縛り、何時間も観賞し、うっとりと自慰する。実摘の性器に薬を塗り、無理に蕩けさせることもあった。そして、指先が伝っただけで感じてしまう実摘の表情を、実富は目を細めて見つめた。
 写真や映像も撮られた。実富は一回見直すと、すぐ壊して破って捨て、新しい作品を欲しがった。悪食を記録されながら犯されていると、実摘は生理的に吐き気がした。
 屈辱に実摘が泣き出すと、実富は優しくあやす。実摘は恐怖を殺して、実富を睨みつけた。実富は窃笑して取り合わなかった。
 だが、飛季の夢を見ていたときに起こされ、犯されたときは、実摘は実富の顔に唾を吐いた。実富は瞳を凍らせ、容赦なく実摘をぶった。頬、腹、すかさず立ち上がって背中やうなじに蹴りを落とす。
 実摘がぐったり無抵抗になると、彼女は温柔な瞳に戻って微笑んだ。実摘の軆には、実富の暴力による青痣が増えている。実富は、実摘を屈させる暴力なら厭わなかった。
 そして、実富の五官もそれに添ってねじれた。恍惚と実摘に触れるときには、視覚はゆがみ、染みついた痣は見えないようだ。実富は涙をこぼす実摘を抱きしめると、踏みにじった背中を撫でた。
 実富の暴力衝動の要因は、次第に分かってきた。飛季だ。飛季の名前を出したり、瞳に想いを浮かべたり、「会いたい」なんて訴えれば、実富は実摘を徹底的に虐待する。
「あなたを甘く見てた」
 昨日かおとといか、実摘を抱いてベッドに横になった実富は、そうつぶやいた。ここに来て毎日、このベッドで実富と一緒に寝ている。実富は、家にも学校にも行っていないようだ。実摘はさっき殴られた頬に、眉をひそめていた。
「お仕置きだったの。あなたを見つけても、すぐに取り返さなかったのは。先生を好きになるだけ、あとでつらくなると思って」
 実富は実摘の頬に触った。びりっとした痛みに目をつぶった。
「先生があなたを変えたのかな。でも、あの人に何があるの?」
 実摘は実富を見つめた。実富は見つめ返した。透明ではなかったが、どのみち、実富の瞳の光にはすくんでしまう。実摘は睫毛を伏せた。
「あなたには、先生は必要ない」
「………、あるよ」
「ない。先生だって可哀想」
「何で」
「あなたなんかこの世にいないと知ったとき、あなたといたときもひとりぼっちだったって傷つくのは、先生よ」
 実摘は顔を上げた。実富は微笑した。
「先生を想ってるなら、先生を忘れること」
「そんなの、」
「あなたは存在しないの。先生への気持ちだって、人間だって思い上がってる錯覚」
 口では痛罵を紡ぎながら、腕では彼女は実摘を優しく抱き寄せた。
 実摘の肩は震えていた。そうなのだろうか。飛季を忘れるほうが飛季のためなのか。それが本当だったら、実摘は飛季を忘れてもいい。自分がつらいのなんか、飛季の幸せに較べたらくだらない。
 飛季を想っているのなら、飛季を忘れる──しばらく考えた。ダメだ、と思い直した。
 実摘に忘れられたら、飛季は哀しむ。哀しんでくれる。飛季と実摘は、恋人同士だ。なのに、忘れるのは変だ。実富が間違っている。実摘は飛季を心に留めていていい。
 実富には、その答えは言わなかった。黙って彼女の柔らかな胸に頬を当て、従順にする。実富は自分自身を慈しみ、愛撫しながら、満足そうに眠った。
 実摘はいつもこのとき、実富を殺して逃げようかと思う。が、部屋を出たところで奴隷が駆けつけ、半殺しに、もしかすると殺害されるのは明らかだ。ここで死んで、飛季に再会できないのはまずい。実摘はおとなしく眠りにつく。
 飛季なら、いつか助けにきてくれる。そう考えると、ちょっと安らかになれた。
 来る日も来る日も、実富は実摘を介して自分を犯す。実摘の口許には、塩味の液体が垂れ流れていく。あふれる涙は、ぽたぽたとシーツに染みこむ。
 冷たいシーツに額をこすりつけたとき、突然髪を鷲掴みにされた。実摘はすくみあがった。実富は手を離した。動けなくなった隙に、彼女は実摘を床に組み敷いた。
 彼女の汗が降りそそいでいた背中に、絨毯の起毛が気持ち悪かった。実富は実摘にのしかかる。
 実富はこの体位が好きだ。実摘は嫌いだ。理由は同じだ。顔が見えるからだ。
 目をつぶろうとすると、実富の指にまぶたをこじあけられる。実富の頬は上気して唇は濡れ、過度な異常性にその顔は美しくすらある。
 実富は悪魔だ。禁忌を犯して、すさまじく美しい。実摘は怖かった。実富に犯されていると、その凄絶な悪魔の顔を見ていると、罪悪感に駆られる。この悪魔を悪魔にしているのは、自分だと見せつけられる。
 飛季にも語ったが、実摘は実富の病気そのものだ。実富の狂気は実摘だ。実富は実摘がいなければ、こんなことをしていただろうか。できるわけがない。誰が自分と交われるものか。実富は自分への激しい愛にとまどい、性欲を押し殺していたかもしれない。
 実摘がいて、彼女の想いは暴発した。実摘を犯せば、自分と愛し合える。実富のねじれていた愛から、理性を奪い取ったのは、ほかならぬ実摘なのだ。
 実富の陶酔した顔を見ていると、その真実を突きつけられて実摘は愕然とする。そして、自分さえいなかったら実富はこんなことにはならなかったと、罪悪感にさいなまれる。
 自己を削ぐ。自分はいない。いてはいけない。ただの肉の塊だ。実富のために造られたおもちゃだ。そうすりこまれてしまう。実富に犯されれば犯されるほど、その悪魔の顔が焼きつくほど、実摘の内的なものはすべて悪循環の奔流に飲みこまれた。
 実富は目を大きく開いている。そこに己の肉体や顔かたちを貪欲に取りこむ。這わした手でその感触を楽しみ、深くいじっては狂おしい愛をそそぐ。壊れた笑いを含んだ息遣いは、極致に立っている。実富は自分自身を指でかきまわし、理想的な快感にうめいて瞳を潤ませた。
 実摘はそこに絶対的な至福を見る。こわばっていると、首に実富の腕がまわってきた。抱き寄せた頭の耳に口を寄せ、実富は実摘にささやく。
「綺麗」
 甘ったるい声だった。生唾をすする雑音が、卑猥だった。その声は透け、実摘の鼓膜では熟さない。実摘を反射鏡にして実富にはねかえって、その言葉は意味を成した果実になる。
 実富は甘く狂う果物を自分で咀嚼し、打ち震えた。実摘は恐怖に心臓を小さくさせ、震動しそうな軆をこらえる。
「こっち見て。ねえ」
 実富の瞳が、瞳に広がった。彼女の陶酔の涙が、そのまま瞳にしたたりそうだった。実富の瞳に、実富がいる。実摘は透けていて、どこにも影もない。実富は自分を抱いている悦びに息を荒げる。
「最高」
 水飴のような口調だ。
「ずっと探してた」
 実富は呼吸を詰まらせ、苦しげに肺を整えると、冷たい耳を咬んだ。大量の唾液は耳孔に垂れこんでくる。
「愛してる」
 耳を塞ぎたかった。実富の指が、奥を探った。血管に巡った甘美な無限の愛に、彼女はひくつきながら笑う。麻薬中毒の末期の笑いに似ている。うなじに唇を当てて舌を這わせる。汗に湿った実富の髪が喉元をかすった。
 実摘は目をつむった。涙がこぼれていった。脳が空白に染まるとそれも止まり、胸がぽっかり空いた。現実感がなくなっていく。愛液の匂いが蒸発する中で、いつも悪い白昼夢の中にいる気分になる。そして脱力する。自分が自分でなくなる。

第六十章へ

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