崩壊する意識
実摘はただ虚しく、半眼で白い天井を見つめていた。
実富は、一日の大半を実摘と過ごしたけれど、絶えず一緒というわけでもなかった。部屋に残された実摘は、ベッドに座っておとなしくしている。逃げ出したいのは山々でも、殴られて蹴られて全身痣だらけで、動くのがつらかった。
こちらの体調が悪くても、とめどない実富の愛は、義務のごとく実摘の軆を開かせる。そこで抗えば、実富は実摘を引っぱたき、抵抗する気力も奪ったところを利用する。実摘の心身はぼろぼろで、休める時間だけが救いだった。実富が留守にすると、実摘はベッドで損なった心や傷ついた軆を安んじた。
逃げよう、という想いを実行する余裕はなかった。環境もあったし、実摘自身のこの状態もある。深刻化する衰弱が目先にあり、実摘の潜在意識は過去に押し戻されつつある。この理不尽な虐待を逃げたいという当たり前の感情も、そんなのは非望ではないかと不安になってしまう。
実富と離れた隙に、実摘は必死に破壊された自己のかけらをかき集めた。そうして、自分を死守して回復させるのが、せめてもの実富の支配下からの精神的な逃亡だった。
実摘の自己再生の鍵は、やはり飛季だった。彼にもらった愛情を反芻するのが、実摘の心には最も有効だった。『実摘』と飛季に呼んでもらった毎日を思い返すと、自分は実摘だ、と信じられて癒される。
飛季に出逢わずにこうして実富に縛られ、辱められていれば、確実に洋服で首を吊っていた。しかし、実富の実摘への侵蝕は酷になる一方だ。今は飛季を信じている。彼に愛されている自信もある。だが、このまま引き裂かれていれば、実摘は内面的な壊死を起こすだろう。
心が死ねば、おしまいだ。記憶は残っても、心が死んだら実摘の脳内では圧倒的に実富が強い。それは最悪の事態なのに、そうなる可能性は日に日に強まっている。考えすぎて、心の極限を越えるときもあった。
実摘は絶望を決めこんで、ひとり泣き出した。あやしてくれる飛季もおらず、実摘の涙は止まらない。そうしているうちに、実富が帰ってくる。実摘がしくしくと鬱に沈んでいるのに気づくと、実富はにっこりと歩み寄ってきた。
「どうしたの?」
頭では分かっている。それが禁句であることは。しかし、実摘は苦しみに絆され、禁断の本音をもらす。
「飛季に会いたい」
実富は実摘を見つめた。物静かなその瞳は氷結していった。白く曇ると、実富は実摘の胸倉をつかんで、頬を強く殴った。うなだれていた実摘は、歯を食い縛るヒマもなく、口の中に鉄の味が走らせる。
実富は実摘を床に引きずりおろし、膝を腹に刺した。実摘はうめいて、口元に血を垂らした。床に放り投げられると肩を踏まれ、実摘は防御としてうつぶせになって丸まった。すると、背中を蹴られて仰向けに戻され、実富は実摘に馬乗りになる。
「先生に同情する」
頬に拳が飛ぶ。喉に血が垂れ流れ、実摘は喘いだ。
「あなたなんかに想われて、誰が喜ぶの? 先生はあなたがいなくなってほっとしてる。決まってる」
「飛季は、」
実摘は、無表情に実摘を殴った。言葉の途中だったせいで、舌が大きく裂けた。実摘は口ごもる。傷口が痛みに合わせて血を生む。
「よく聞いて。あなたには、私のもの以外である立場はないの」
口内に血が溜まる。実摘は目をつぶった。
「あなたは私のもの」
実摘は、血の混じった唾液を実富に吐いた。実富は言葉を止めた。
「飛季と僕のことなんか、何にも知らないくせにっ。僕は飛季のものだ。もうあんたとはいたくないんだよっ。飛季に会わせろよ、この変態──」
実富は腕を振り上げ、実摘の顔面を殴打した。さっと立ち上がると、実摘も腕をつかんで立たせ、腹に拳を打ちこむ。実摘は喉にせりあげた衝撃にうめき、首をぐにゃりと垂らす。
視界が朦朧とする。喉に粘ついたものが流れる。脱力して膝を落とすと、実富はさらにその腰に蹴りを入れた。実摘は絨毯に崩れた。それでも実富は、執拗に実摘の背骨を踏み躙った。
実摘がすすり泣きはじめると、実富はおおいかぶさってきた。ついで、唇を殴られた。唇で唇をつぶされた。実富は実摘をきつく吸う。舌に染みこんだ血もすすって飲みこみ、舌や歯を愛撫して味わう。実摘は萎縮していく。
「大丈夫……」
実富は微笑んでいた。瞳が透き通って、濡れていた。
「怒ったりしてない」
頬に手が添えられる。崇めたうっとりした手つきだ。その手のひらはゆっくりと頬にあてがわれ、愛撫が皮膚を同化させていく。
「あなたなんか、いないんだからね。誰も見てない。私だって」
実摘は瞳を硬く怯えさせた。実富は、あふれる欲望をこらえるこわばった笑みをした。
実富は再び口づけた。深く、実富自身に。
実富は実摘の服を脱がせた。あらわになった肌に、実富の透明な瞳と手と息が駆けまわった。実富は実摘の脚を広げさせ、渇いた性器を口にした。実摘は感じなかった。でも、実富の舌なめずりのくちゃくちゃという音が、まるで愛液のようだった。実摘はずきずきとほてる頬を、恥ずかしさに熱くする。
実富は笑いが混じった蕩けた息を吐き、軆を起こした。自分も服を脱ぎ、しっとりした肌同士をこすりあわせる。実摘は鳥肌を立てた。実富の口づけが全身に降る。実摘には何も響かない、冷たい口づけだ。実富は、実摘の肌で自分の肌を味わう。
やがて膣を広げられ、指を一本ずつ挿入される。実摘は痛みと圧迫感にうめく。膣をいじられるなんて慣れているはずなのに、実富にされると、初めてそうされたように苦痛だ。
殴られた頬が腫れ上がっている。触らなくても、血管のうごめきに合わせて鈍痛がうねる。
実富の行為は、無理やりなのに長い。いや、彼女にはこれは強姦ではない。自分との情交だ。彼女に実摘はいない。実摘の軆は通過点だ。実富は、自分の欲望のみ追求する。実摘に無理な体勢をさせようが、実摘が痛みに悲鳴を上げようが、実富は構わない。実摘の反応など見えてない。
実摘は哭し、疲れるとむせぶばかりになり、悲愴感に落ちこんでいく。実摘の嗚咽と、実富の吐息が重なる。実富は実富を堪能する。瞳で舐め、手でさすり、性器でこすって。澄んだ視線が、吸い取る愛撫が、利己的な指が、何もかも実摘には息苦しい。
彼女がぶつける行為はすべて透明で、実摘には空虚だった。実富は残らず自分ひとりでたいらげる。
毎日そうしたふうだった。強姦と暴力が延々と続く。実摘の正常な部分は、日ごと虚弱になっていった。
ここに来て、何日経ったのか分からない。ずいぶんと飛季が遠のいたのは確かだ。代わりに、実富の微笑がすぐそばにある。
頭は重くて腰はだるく、背中は断続して痛んで頬は腫れぼったい。そしてそれが蒸発どころか染みわたる前の新鮮なうちに、新たな痛みが体当たりしてきた。
おかしくなりそうだった。頭の糸がふっつり切れそうで、実摘は怖かった。狂ったらどうなるのだろう。めちゃくちゃに暴れて脱走するのか。あの伊勇のように、実富の犬になるのか。
いや、実摘が狂ったら、実富は実摘を薬殺でもしそうだ。そして、防腐加工するのだろう。実摘には虫も涌かない。殺された自我に、実摘は死に、永久に実富の愛の道具として生きる。
『死んだ生から生きている死へ』
飛季にも観せた、死体が腐る映画を想う。あの映画にはそんな一節があった。実摘はそれに強く惹かれた。この地獄にさしこむ細い希望を表わす、それほどの形容もなかった。
実摘は、死んだあとぐらい解放されたかった。飛季もいる。今は、死への希望より飛季のために、実摘は自律を失いたくない。飛季に再会するのだ。飛季に抱かれたい。飛季の性器だったら、実摘は許せる。
飛季だけだ。ほかの人間は気持ち悪い。なのに、毎日毎日されている。狂気の妄想に浸る自慰の道具にされ、実摘は命の腐臭を嗅いでいる。
実摘は、ヒマさえあれば殻に閉じこもった。内界を全宇宙にして、外界の存立を否定した。そこで飛季を想って、耐えた。実富は実摘の壁をぶち壊そうと、さながら鈍器を掲げている。
実摘は、ベッドにもぐりこむ。このふとんのにおいには慣れられない。せめてにらがいればいいのにと思う。でも、にらはあの部屋に残って、飛季を守っている。それを思い出すと、自分はひとりで耐えるのはやむをえないと思い直す。
犯されていない、もしくは殴られていないときには、実摘は実富の隣でも沈みこんだ。実富は実摘を抱き起こして、腕に包んだ。反抗しなければ、彼女はおっとりと実摘の頭を撫でている。が、決まってそのうち、髪や肌の手触りや柔らかい体温に目の焦点を泳がせはじめ、口づけたり押し倒したりしてくる。
この部屋は、内側からはドアを開けられない仕組みになっていた。実富が外に出るときは、誰かが鍵を開けにくる。だいたい、伊勇だった。彼は、実富の側近みたいなものらしい。
実富は伊勇を携帯電話で呼ぶ。食事を頼むこともある。しゃべらずにメールだ。伊勇は来る。実摘は全裸、実富はバスタオル一枚の光景で、彼は実摘に嫉妬を向ける。実摘は真っ白な頭で、こいつは実富の性癖分かってるんだな、と思う。「ごはんが終わった頃に来てね」と、実富はすぐに伊勇を下がらせる。
「あの子はね」
実富は、伊勇から受け取った食事の乗ったトレイを持ってくる。シチューの匂いがした。
「私が拾ってあげたの」
トレイを静かに床に置き、実富は実摘を抱き起こした。犯される前に殴られていた実摘は虚脱し、されるがままになる。
「公園で泡を吹いて倒れてたのを見つけて。私が拾ってあげなかったら、あの子はくだらない薬で死んでたの」
だが、伊勇が犬になっているのは、命の恩人だからではないだろう。彼はただ、実富にひと目惚れしたのだ。実富はビーフシチューをゆっくりとかき混ぜる。もちろん、伊勇の心理は彼女も承知しているのだろう。
実富は実摘に食事をさせた。粗末どころか、わりと凝ったものだ。このシチューもじっくり煮こまれ、蕩けそうにおいしい。
そんな食事や大きなベッド、高そうな絨毯、この部屋自体、実富はどこからそんな金を得ているのか。実摘の疑問を読み取ったとき、実富はこう答えていた。
「私のことが大好き、っていうお金持ちの人がいるの。大人もいるし、お金持ちの子供もいる。いろいろね。私が欲しいと言えば、必ずくれるの。見返りに私が何かするわけでもないのに、とにかく私を喜ばせたいみたい」
食事が終わると、実富は服を着て、伊勇と部屋を出ていった。実摘はひとりになった。服はない。痣が疼く素肌にブランケットを巻きつけ、実摘は陰鬱とした空間のひずみに身をひそめる。
強姦に並び、少女とは思えない実富の暴力もすさまじかった。護身術で多少心得ているのは知っていたけれど、家にいた頃、手は上げられなかった。家でぐったりさせると、親への言い訳が面倒だったのだろう。それに、今と較べて当時は実摘の自意識も希薄で、暴力を持ちこんでまで服従させなくてよかった。
実富は、実摘の自我に手加減なしに暴力を振るう。振るって、弱ったところを犯し、たっぷり自分を愉しむ。実富には、実摘への暴力も、自分への愛をむさぼる不可欠な一過になっていた。
実富は実摘の顔を覗きこみ、胸を上下させる性的な呼吸をする。実富の瞳は澄んで、かつ、ゆがんでいる。張りつめた水分が、陶然と実富の欲望を表わしている。
実富は実摘の頬をさすった。実摘は、顎や歯にも走った激痛に、眉根に皺を刻んだ。実富は突き抜ける瞳を崩さずに、実摘に口づける。絡む舌が痛い。血の味がする。
実摘は、実富の頭が狂っていることは分かっている。それでも信じられなかった。なぜ彼女は、現在の実摘の顔も鏡にできるのか。ここに来て、実摘は鏡など見ていないが、ひどい顔になっているのは顔面の感覚で分かる。
もう実摘の顔はつぶれ、美しい実富とはぜんぜん違う。なのに、実富は実摘を鏡にする。
彼女は視覚で見ていない。脳で直接見ている。実富の視覚は、脳内の心象だ。いや、五感すべてが脳の造りごとに添っている。触覚は肌の腫れに気づかない。味覚は血の味が分からない。聴覚は実摘の悲鳴も聞こえない。嗅覚は──。
そういえば、嗅覚は分からない。それが要になっているのかもしれない。おそらく実富は、実摘に自分の匂いを嗅いでいるのだ。
実富の濡れた性器が、眼前にあった。陰毛まで湿るそれに、実摘は暗い瞳をした。実富は実摘の口を開けさせ、性器を押しつけた。拒否しようとすると、実富は実摘の髪をつかんで頭を固定し、ぐっと性器を押しつける。
実摘は目を白黒させた。実富は実摘の呼吸を塞いで笑った。息ができない。実摘は脚をばたつかせた。実富はやっと腰を引き、呼吸ができる程度にする。実摘は混乱した肺をなだめた。
実富は実摘の髪を握り直すと、奉仕を強要した。従わず脱力していると、実富は実摘の頭をおおうように腰をかがめる。彼女の息遣いが耳障りに鼓膜を探る。実富は、実摘の顔面に脚のあいだを押しつけた。
瞬間、口中から喉へと塩からいものがあふれた。実摘は、実富を押しのける。喉元に、黄色い液体が垂れ流れた。放尿されたのだ。体内に尿が滑りおちていくのを感じ、実摘は強烈な吐き気を覚えた。
唾と小便を絨毯に吐いた。白い起毛は、さっと黄色に染まる。実富はこちらに一歩歩み寄ると、みずからの尿に濡れた実摘の顎を上げさせ、悠然と微笑んだ。
「舐めないなら、これを出すよ?」
実摘は泣きたくなりながら、小便に濡れる実富の性器を舐めた。実富は腰を小刻みに揺すり、実摘の頭蓋骨を快感の波に合わせて動かした。舌の傷口が開いて、金属の匂いに似た血の味がする。小便の塩からい味もする。
実富は目を閉じて、自分の口と唇に酔った。実摘は、愛液のぬめりに泣き出しながら、奉仕した。実富が絶頂に達して、事が終わっても、ベッドに突っ伏してすすり泣いた。
何にも感じられない。何を感じればいいのだろう。哀しめばいいのか。苦しいとかつらいとか。屈辱だろうか。分からない。とりあえず、心がずたずただ。何が効くのか分からない。
何かあった気もする。なかっただろうか。いや、自分には何もない。実富のおまけだ。何にもない。空っぽだ──
軆を起こされた。実摘の顔は、混濁した体液でどろどろだ。実富は実摘を抱きしめ、背中を丁寧に愛撫した。実富は実摘に耳語した。
「いい子」
耳元に唾液がしたたる。実摘はまぶたを壊し、軆じゅうの骨を軟化させていた。実富の声はとても甘やかで、脳は甘味に騙されてその言葉を飲みこんでしまう。
「そうやって、消えてしまえばいい……」
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