Wish Kiss【3】
次の日、目が覚めたときにはお昼をまわっていた。家を出て、不眠症は改善されてきた。借りるとき意識したわけではなくとも、わりと防音がしっかりしたアパートなのか、隣人がうるさいこともない。いつどんな音がするかびくびくする必要がなく、安心して眠れた。
面接予約が入っているとか、採用通知を待っているとか、何かやっている最中なら、多少焦りがやわらいで自傷もしない。次の面接さえ決まらないとか、また不採用のときとか、切ってしまうけれど。
ちなみにベッドは実家に置いてきたので、敷きぶとんを使っている。なるべく毎日ベランダに干す。「万年床はカビが生えるからね」と姉に言われたからだ。
今日も暑いぐらい晴れていて、肌が焼けそうだった。料理はせずにまたコンビニに行き、バターデニッシュとカフェオレを買って帰宅する。それをもそもそと胃におさめると、床に転がって天井を眺めた。
風俗かあ、と改めて考えた。一応、姉や夕乃に相談したほうがいいのだろうか。反対されるだけだろうか。決まって始めてみせてしまったほうがいいか。いや、むしろ隠したほうがいいのか。
分かんないや、とため息をつき、ごろごろしながら時間が経つのを待った。秒針がいらつくから、この部屋に時計はかけていない。時刻はケータイで確認する。日が暮れはじめてふとんを取りこみ、十九時をついにまわると、僕は部屋の真ん中でチラシを手にケータイを握った。
不穏な鼓動が喉までもやもやと手を伸ばしてくる。本当に、いいのだろうか。踏みこんでしまっていいのか。昼の仕事が決まったら辞めるとかできるのか。辞めるときは『辞めます』で済むのか。辞める心配ばかりしているが、そもそも始められるのか。
僕の脳裏に、家の中に響き渡っていた恐ろしい音や声がよぎる。全部、あいつのせいだ。同性に軆を売るまで僕を追いこんだのはあいつだ。あいつは僕がそんな仕事を始めたらののしってくるだろうが、お前のせいなんだ。お前さえまともな父親だったら──
僕は息を吐いて、番号を入力するとコール音を耳に当てた。
『はい』
わりと若そうな男の声だった。「チラシとネットで、面接のこと読んだんですけど」とどもらないように気をつけながら言う。『ああ』と相手は慣れた様子で答える。
『いくつ?』
「二十一です」
『二十一かー。まあいいや、名前。フルネームじゃなくてもいい』
「……月芽、です」
『面接いつ来れる?』
「あ、い、いつでも」
『今日の二十一時は?』
今日。二十一時って、二時間もないではないか。が、断っていいものか分からないので、訊いておく。
「お店の場所が、まだよく分かってなくて」
『駅まで迎え行くから、最寄りまで来れたらいいよ』
「あ、そう──ですか。じゃあ、今日行けます」
『駅着いたらまた電話くれる?』
「はい。分かりました」
『じゃあ、あとで』
がちゃっと電話はあっけなく切られて、表示された通話時間は一分もなかった。
何だか、理由はないけれど、もっと濃い電話を想像していた。あっさりしているというか、そっけないほど簡単だった。まあ、いいのだけど。濃かったほうが怖かったし。意外と、仕事内容もこんなふうにさっぱりしているのかもしれない。
僕はケータイを置くと、電話の緊張と初夏の陽気で汗ばんでいたので軽くシャワーを浴びて、着替えをしてから荷物をまとめて家を出た。
目的の最寄り駅は、駅検索ですぐ分かる。乗り換えがスムーズにいけば、三十分くらいだろう。電車の中は帰宅ラッシュで、スーツの大人の中で制服の高校生もまだちらほらしている。僕と同年代のグループの笑い声が神経を引っかいた。
この時期から、電車の中はいくら冷房をかけていてもどこからともなく汗臭い。シートに座れないまま電車を乗り換え、初めて乗る路線に出たので、ややおろおろしながらも目的駅に到着した。
二十時四十分をまわっていた。思ったより人がごった返している駅ではないが、階段や通路を人が行き来している。何番出口とかを何も訊いていなかった僕は、改札を抜ける前に店に電話をかけた。
『あ、さっき電話くれた子だね。今から迎え行くけど、何番出口にいる?』
「あ、どこなのか訊いてないので、まだ改札です」
『じゃあ、三番出口が近いから。出たらすぐ右にコンビニがある。あ、今の服教えて』
「白と黒のボーダーのTシャツと、カーキのパンツです」
『了解。五分くらい待って』
また電話はがちゃっと切られる。
僕はきょろきょろしてから、三番出口に出る改札を抜けてから通路を抜け、通りに出た。確かに隣に白い光を放つコンビニがあった。
何となく、下を向いて待ってしまう。足元は暗い。後ろめたいというか、恥ずかしかった。僕はぜんぜん美少年じゃないし、二十歳も過ぎているし、何よりも間抜けだし。なのに、軆を売るなんて大胆な仕事をしようとしている。
昼の仕事のほうが、まだ想像がつくだけ簡単だったのではないか。僕は自分が風俗に行ったことさえないのだ。どうしよう、今なら通路を駆け戻って逃げることも──そう思ったときには、ぽん、と肩をたたかれていてはっと顔を上げた。
「あれ、ツキメ──くん、だよね」
僕より年上だとは思うが、また二十代くらいのシャツと黒いスラックスの男が、僕を見てそうまばたいた。僕はどきまぎしつつうなずいて、「初めまして」ととりあえず言う。
「二十一って聞いたけど……」
「二十一です」
「ほんとに? 高校生じゃなくて?」
「ち、違います」
「ふうん。まあ、確かにある意味かわいいね」
それ悪い意味だよな、と思っていると、「じゃあ、店行こう」とその人は歩き出した。僕は慌ててそのあとをついていく。通りを横切り、一気に静かになるビル街に出る。その中のひとつのビルに案内され、エレベーターで五階に向かった。
扉が開くと、「お疲れ様でーす」と言いながらちょうど入れ違いにエレベーターに乗っていく男の子がいた。すれ違いざまにいい匂いがする綺麗な男の子だった。店の子かな、と思っていると、「お疲れ様です」と案内してきた人に奥のドアの中へとうながされた。
「おや、ずいぶん純朴そうな子が来たね」
そう言ったのは、背広を着た普通のサラリーマンに見えるおじさんだった。座卓を挟んで向かい合ったソファに勧められ、「失礼します」と僕はそこに座っておじさんは向かいに座る。案内してきた人が、おじさんと僕にお茶を出してくれた。
「二十一歳っていうのは本当なんだね?」
「はい。あの、履歴書──」
「ああ、見せてくれるかな」
リュックから取り出した僕の履歴書を広げて目を通したおじさんは、特に内容に触れることなくそれを座卓に置いた。
「こういう仕事をしたことはあるのかい」
「いえ、ないです」
「うちはここの近くのホテルと提携していてね、お客さんへのサービスはそこでしてもらうんだが」
「は、……い」
「サービス内容は、お客さんが選んだコースによってさまざまだが、まあ基本的にオーラルとアナルのセットだ」
意味が分からなくてぽかんとしてしまうと、おじさんは噴き出して、「そんなことも知らない男の子なんて、逆にそそるねえ」と身を乗り出して僕の耳に口を寄せた。
「お客さんのイチモツをしゃぶって、それをお尻に挿入ってことだ」
「は!?」
素で声を上げてしまうと、「いいねえ」とおじさんは僕の頭を撫でてその手を内腿に伸ばしてくる。ぞわっととっさに鳥肌が立つ。
「でも、君がきちんとできるかどうかは確かめないとね」
「た、確かめ……る、というと」
「今から、君は私と奥の部屋でふたりきりになる。分かるね?」
分かる──けど、いや、それは……え、今から? 今からって言った? 今から僕は、このおじさんとそういうことをするということか? しゃぶって挿入? それは、もっと先に言ってもらっておかないと、心の準備がないというか。
それを口にしようとしても、最悪なことにショックで声が出ない。「さあ」とおじさんは僕をソファから立たせて、僕は震える手をつかまれて引き寄せらせる。肩を抱かれると、背広の臭いに汗の臭いが混じっていて吐き気がした。
じゅる、と生々しい音がしてびくっとおじさんを見ると、おじさんが僕の耳たぶに舌を這わせている。嫌悪感で軆が硬直していく。奥へとつながるドアにおじさんが手をかける。
嘘だ、と頭の中が急速にかきまわされてくる。嘘だ嘘だ嘘だ、男となんて嘘だ。こんなおじさんのものをしゃぶって、あろうことから肛門から体内に許すなんて。そんなの嫌だ。気持ち悪い──!
結論から言うと、僕はできなかった。口に入れられて軽く嘔吐してしまったし、尻は尻でまず指でほぐそうとされた時点で痛すぎて泣いてしまった。殺されるほうがマシな気がした。それぐらい、辱められるのは精神的にきつかった。
おじさんが僕の「試験」をあきらめて解放すると、僕は泣いて謝りながら「無理です」と繰り返した。「まあ、そういう子はめずらしくないからね」とさっきまで異常な変態に見えていたおじさんは、普通のサラリーマンの顔に戻って、僕の正面に座ってお茶を勧めた。僕はそのお茶に手をつける気力もなく、まだ残る掘られかけた異物の痛みに眉を顰めた。
「じゃあ、ここには来なかったということで」
おじさんがそう言うと、僕はこくこくと何度もうなずいた。「すみませんでした」とまだ泣きながらその部屋をあとにすると、引き攣った足取りでエレベーターに乗って一階に降り、ビルの入口でずるずると座りこんでしまった。
嗚咽がおさまるまで、動けなかった。壁にもたれて、風俗もできない、と思った。気持ち悪いという理由で、この仕事も僕にはできない。本当に、僕は何の仕事もできない。
何でこんなにダメなのだろう。生きて行く力がない。才能もない。我慢強さもない。僕は何もできない。自分をあの家から助けなくてはならないのに、そのためなら何だってするつもりなのに、しょせん、つらいと思ってしまったら向かい合えなくなる。
何だろう。僕は死ねばいいのか? 無理に生きる必要はないんじゃないか? ここまで生きる強さがないのは、死ぬべきだからなんじゃないのか?
手首を見た。リストバンドで隠している。また、帰って、切らなきゃ。そう思ったときだった。
「あれ、おにいさん」
びくんと顔を上げると、そこには息を飲むほど綺麗な男の子が立っていた。まだ十代だろう。黒髪と紅唇が映える白皙、長い睫毛、細い骨格、すらりと伸びる手足に折れそうな腰──
彼は僕の目の前にしゃがむと、「よしよし」と言って僕の頭を撫でた。何だろう。分からなくて怯えた目を震わせると、「ふふ」と彼は艶めかしく微笑んだ。
「『試験』、無理だったの?」
僕は甘い香りがする彼に目を上げた。そして気づいた。この人、来たときにエレベーターですれちがった人だ。ということは、たぶんあの店で働いている──
「男とやるのなんて、慣れたら簡単なんだけどねえ」
僕は視線を彷徨わせ、無理だよ、と言おうとした。言おうとして、目を開いた。言葉を発そうとして開いた口に、彼が唇を重ねてきたからだ。え、と頭が真っ白になった隙に、彼は僕の口の中に舌を入れて、何かをころんと移してくる。優しい甘い味がふわりと広がって、彼は顔を離すとにっこりした。
「それ舐め終わったら、全部忘れて、おうちに帰るんだよ」
僕は彼を見た。彼は唇についた唾液を舐めて、立ち上がってビルの中に入っていこうとする。
「あ、あのっ」
振り返ってきた彼に、僕は何を言いたいのかよく分からず、ちょっと沈黙してしまう。口の中はいちごとミルクが混ざった味で、いつか食べたことがある飴だと思った。
「君の、名前……」
「紅だよ」
「べに……」
「源氏名だけどね」
「……ありが、とう。紅」
「ん。どういたしまして」
紅はにこっと愛嬌をこめて咲うと、軽く頭を下げてエレベーターホールへと歩いていってしまった。僕は舌を動かし、飴の甘さをゆっくり舐めた。
今さっき、僕は同性は無理な男だと思い知った。なのに、何でこの飴を買って帰ろうなんて思っているのだろう。叶うことなら甘やかに残像するあの笑顔をまた見たい、なんて……いったい僕は、何を考えているのだろう。
【第十三章へ】