狂おしい音の中心
眼鏡をかけた聖樹さんが出勤すると、部屋には朝特有の慌ただしさがなくなる。
空気の流れがゆったりになって、燦々としていた太陽もレースカーテンに揺らめく。あちらでは朝にのんびりするのを知る由もなかった僕には、こういう空間は不思議な感じだ。
広義には登校拒否をする僕は、八時を過ぎても座卓について、バターを塗ったトーストをかじっていた。登園拒否児の悠紗も、隣でいちごジャムのトーストを食べている。
僕が来て以来、保育園に行っていない悠紗は、保母さんはともかく、園児には引っ越してしまったと思われているだろう。
ゆるりとした悠紗と僕に、ひとりいそがしい聖樹さんは苦笑しつつも、何も言わない。毎朝息子の泣き顔を見るのもつらかっただろうし、僕が落ち着いているのにもほっとしてくれるみたいだ。
指についたジャムを舐め、「今日はみんなのとこ行けないね」と悠紗は言った。僕はトーストを飲みこんでうなずく。
「今週いっぱいは行けないね」
「会えるのは“EPILEPSY”のときかあ。まいっか、萌梨くんいるもん」
あやふやに照れ咲いし、ミルクティーに口をつける。
「前に預かってもらうの兼ねてたときは、練習のとき、どうしてたの」
「練習ついていったり、誰もいないのがいいときは保育園だったよ。ジュースとか売ってるとことかあって、そこにいてもよくても、髪染めた人とか刺青の人とかもうろうろしてるんだもん」
「はあ」
XENONのたぐいの音楽をやる人が集まっているとしたら、そんな格好の人がいてもおかしくなさそうだ。
「見た目より優しくて、何か構ってきたりするんだよね。でも、僕それ嫌なの」
「子供あつかいされる感じ?」
「うん。で、どっちも変わんないんで保育園。でも、だいたいいさせてくれたよ」
「そっか。ライヴ終わったら、ここで休んでいくんだよね。また毎日行く?」
「どっちでもいいよ。こないだ日曜日に行ったときね、萌梨くんがいて預かるのしなくてよくなったから、朝寝てていいよって、おとうさん要くんに言ってたの」
「じゃ、行ったとしても昼だね」
「そだね。毎日じゃないのがいいかな。紫苑くんが曲作ったり、梨羽くんが詩を書くときは、人がいないのがいいの」
「そっか。たまには、ライヴなくても練習行ったりするだろうしね」
「うん」
悠紗と話しながら、ライヴか、と思っていた。
相変わらず僕にはあの四人がバンドを組んでいる感覚がない。ライヴを観ればつながるのだろうか。あの四人が音楽を紡ぐ想像もつかなかった。
特に、ヴォーカルであるはずの梨羽さんの声を、僕はいまだ聞いたことがない。紫苑さんもギターを飾りつけで抱えているように感じるし、要さんと葉月さんのどこに楽器に触っている雰囲気があるのか。
朝食が終わると、食器を片づけ、悠紗はふきんで拭いたテーブルにノートを広げた。
昨日あのボスを倒したあと、悠紗は紫苑さんに音楽を習っていた。そのおさらいか、次の段階だろう。悠紗の先生になっているときの紫苑さんにだけ、音楽を感じなくもない。
たらいに張られた水に浸されていた聖樹さんの食器をすくいだし、悠紗と僕の食器を浸す。湿らしたスポンジを泡立てると、まず水落ちの助けもある聖樹さんの食器を洗いはじめる。
昨日の夜、いつもの雑談の際に、聖樹さんに四人にあのことを知られていたのを話した。不意打ちに切り出されたことには聖樹さんは眉をひそめたけれど、行き着いた先では「そっか」と微笑んでいた。
「僕の話を聞いたときには、大笑いしたのにね。成長したのかな」
苦笑いする聖樹さんに、そうだなあと僕も思った。
ずいぶん理解したことを言ってくれたあのふたりは、十年前に聖樹さんの告白を笑ったふたりでもある。「聖樹さんの友達になったからですよ」と言うと、「そうなのかな」と聖樹さんは咲っていた。
「萌梨くんとしては、大丈夫?」
「え」
「気持ち、追いつけてる?」
聖樹さんの愁眉に、僕は曖昧な顔つきになってしまった。
その質問の意味は分かる。僕はこの数日で、急速に人に秘匿する傷に触れられた。あの四人に、そして沙霧さんに。
「悪いことじゃ、ありませんし」
「そうだけど。いいことでも、急だとついていけないでしょう」
聖樹さんだなあと感じた。はたで見たらわがままかもしれなくても、そういうところもある。
僕は変化に慣れていない。変化はだるくて怖い。まして、あのことを誰かに悟られるなど、あってはならないことだった。
さいわいなのは、沙霧さんもあの四人も “他者”の固定観念には属さない人たちだったことだ。きちんと僕をあつかってくれた。ないがしろにも、といって、被害者にもしなかった。無神経なことをしないのと同時に、ごく普通にしてくれた。
無論、正直なところまごついている。本当に分かってくれたのか、次に会ったときは気の許しを無神経に変換しないか、もし演技の色を見てしまったら──
不安は尽きない。けれど、杞憂だと不信感が削れていけば、消えていくだろう。そのへんを語って、「大丈夫だと思います」と僕は結論を固めた。
「沙霧さんと、あの四人ですし。疑ったりしなくていいと思います」
「そうだね」と聖樹さんも憂色を解いて微笑し、“XENON”の由来のことも話した。聖樹さんも承知していることだった。
「よかったんですか」と訊いた。僕だったら、傷を表す言葉を上げられるのはつらそうだ。聖樹さんは複雑そうにしても、うなずいていた。
「あの四人がつながってるのも演奏するのも、音楽のためではないよね。もっと深いもので、そう考えたら、確かに僕はあのことで四人とつながってる部分がある。それに、別に僕のためだけに考えられた言葉でもないんだし。ほかの意味もあるんだよ」
「梨羽さんですか」
「うん。あと、梨羽の神様のこと。それが一番じゃないかな。神様がいなきゃ、梨羽は歌わなかっただろうし、四人の音楽の中心には梨羽の歌があるし」
「……神様」
「萌梨くんだったら、いずれ梨羽が自分で話してくれるよ」
首をかたむけ、目が合ってはそらされているのを話した。聖樹さんは咲い、「梨羽は誰にだってそうだよ」と言った。
「梨羽は何も見えなくなりたいんだ。何も聞こえなくなりたいし、一番は声が発せなくなりたいんだろうな。詩でも、目と耳が消えるのを願ってるのは何曲もあるよ」
そうだっけと思った僕は、食器洗いを片づけると、XENONののアルバムの最後の一枚、セカンドの『MADHOUSE』を手にしていた。
口の中で音階をつぶやく悠紗を邪魔したくなくて、今回もヘッドホンを着用する。
精神病院か、と僕は目隠しをしてこめかみに銃を突きつける人を見つめる。スプレーの落書きのような字で『MADHOUSE』とあり、首輪に“XENON”と刻まれている。裏には一面の血と銃と腕があり、曲目がばらついている。
僕はケースを丁寧に開くと、CDをコンポにかけた。
滑りこみは最初から捻じれた大音量だった。ベースとドラムスの絡まりの中、耳障りなぐらいギターがゆがむ。そのひずみが聴覚いっぱいに広がったとき、それを弾けさせるようにヴォーカルが飛びこんだ。
皆殺しだ
こんな世界は終わっちまえ
容赦なくぶち壊すんだ
わけ隔てなく殺せ
何もかも殺せ
悪臭を放ってうごめく命
残らず踏み躙るんだ
歌詞は変わらず直接的で過激だった。しかし、印象はファーストともサードとも違った。ファーストほど激しくなくて、サードほどめまいの絶望もない。といって、内容が浅いというのでもない。何でかな、というのは聴いていくうちに分かってくる。
このブックレットも、左右に開く質素なものだった。輪を作った釣りさがったロープにかかる手があり、輪の中にメンバーの名前と担当が記されている。取って開くと、傷つけられた手首を沈めた水面の写真があった。赤い傷口は波紋でぼやけている。
曲目を見ると一曲目は“破壊衝動”、二曲目にアルバムタイトルになっている“MADHOUSE”が組まれている。このアルバムも聖樹さんと悠紗以外の名前は、社交辞令で並んでいた。
空中に浮いた脚と倒れた椅子の写真があり、その脚の下に歌詞や断章の代わりに梨羽さんの文字でこうある。
ここに表わされているのは狂人の内界です。
けれど片隅にギタリストの憎しみが紛れこんでいます。
それがこの狂った内界と溶けあっているのを願います。
りわ
まばたきをし、その短文を読み返した。ギタリスト。紫苑さん。紫苑さんの憎しみが紛れこんでいる。
何だろう。聖樹さんが紫苑さんは憎しみでギターを弾くと言っていたのが思い返る。あれに関係しているのか。現段階で聴こえてくるものでは、何も分からなかった。
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