白いカーネーション
ところで、このアルバムにはあの“EPILEPSY”と“Phantom Limb”が収録されている。僕に触れてきたのは後半にひかえていた“Phantom Limb”だった。この曲によって、このアルバムの匂いも分かった。悲鳴でも絶望でもなく、痛みなのだ。
詩もほかに較べて、怯えて内的でやるせない。聖樹さんの話も当てはまり、目と耳を捨てたがっていた。耳については『悲鳴さえ切断すれば』『鼓膜がずきずきしてる』と歌い、目には『世界さえ切断すれば』『まぶたを開けるのが怖い』と歌う。
だが、この曲で梨羽さんが最後に捨てたがったものは、声ではなかった。
おかしいよ
こんなもの切り取ったのに
どうしてこんなに痛いんだ
心さえ切断すれば
俺は逃げられるんじゃなかったのか
何でだよ
胸に血の匂いがする
何か抱えている人たちなら、バンド名に掲げたくなりそうだ。その人たちはどんな曲なんだろ、とかすめた。XENONで音楽を始めたのだし、何か吐き出しながら奏でているのだと思う。
梨羽さんの意味深な文章の示唆は、最後から二番目の曲にあった。それを聴いていて、あれ、と首をかしげたくなった。なぜかその曲には、いつまでもヴォーカルが重ならなかった。梨羽さんの詩がない。
ギターが強調され、何となくゆがみが激しく、耳元に残像しそうに屈折している。憎しみ。これが、紛れこんだ紫苑さんの憎しみだろうか。
結局、梨羽さんの声どころかうめきも重ならず、次の曲になった。これは再度激しく、どこか痛みを覗かせてもいる。“渦”という曲だ。
だけど俺は止まらない
安らぎなんか少しのあいだ
俺だって止まるのを望んでる
ダメなんだ
俺を蝕むものは止まらない
俺を蝕むものは止まらない
このままずっと止まらない
その先にあるものが怖くてたまらない
そして、そのアルバムは終わる。初めてのときのように茫然とはしなかった。二回目のときのように巻きこまれもしなかった。でも、すごく重たかった。すごい、とは今回も思った。
痛さの重みがやわらいでくると、梨羽さんの詩がない曲を思い出す。最後から二番目、は十曲目だ。
“White Carnation”とあった。ホワイトカーネーション、だろう。白いカーネーション。カーネーションとは、あの花のカーネーションか。
あのひずんだギターを思い返し、つながらないタイトルだなあと思った。屈折ギターと白いカーネーション。いったい何だろう。
勉強にキリをつけた悠紗は、ゲームを始めていた。ブックレットを凝視して眉を寄せる僕に気づくと、「どうしたの」と駆け寄ってくる。
僕はヘッドホンを外して、“White Carnation”のことを尋ねてみた。「ああ」と悠紗は僕の正面にしゃがみこむ。
「それね、紫苑くんの曲なの」
「紫苑さんの」
「何か書いてるでしょ。ギタリストがって」
うなずき、ぶらさがる脚の下の梨羽さんの簡素な文を読み直す。
「この曲のことなの?」
「うん。紫苑くんはいつも、梨羽くんが歌書けるように空っぽに曲作るんだ。それは違うんだって」
「………、紫苑さんの、憎しみ」
「そお」
「何の」
「分かんない」
悠紗に顔を上げた。悠紗はふくれっ面になっている。
「僕はまだ知らなくていいんだって。教えてもらえないの」
「……そう、なんだ」
悠紗は知らなくていい憎しみ、というのは、六歳の子は知らなくていい憎しみ、より深い。
あのギターには、紫苑さんの憎しみがこめられている。それは分からなくもない。紫苑さんが誰かを憎むのも引っかからない。学校で隔離教室に処されたのはギターを放さなかったせいだとしても、家がないとも言っていた。
もろもろへ紫苑さんが悪感情を抱いているのは分かる。が、なぜその表現に冠される言葉が“White Carnation”なのかがすっきりしなかった。
「白いカーネーション、だよね」
「うん」
「何でこのタイトルかは分かる」
「え、んー、教えてはもらってない。僕はねえ、おかあさんのことかもなあと思うの」
「おかあさん」
考えれば、母の日にはカーネーションを贈る。僕は学校で作らされた、折り紙のものしか贈った経験はなくても。
「でも、分かんないよ。紫苑くんが誰かにもらったのかもしれないし、あげたのでも、別の、好きな人とかだったかもしれないし」
「……うん」
「梨羽くんがいない曲って、そのひとつなの。梨羽くんだけじゃない歌はちょっとあるけどね」
「え、どれ」
「それにはないよ。一番最初の」
引き出しを開けると、悠紗は『EIRONEIA』を引っ張り出して裏返し、いくつかの曲を示す。初期の頃はいくつか詩も手伝ったと昨日要さんも言っていた。
「あとね」と悠紗は“DEYFLY”を指さす。その曲に惹かれた記憶のある僕は、どきっとした。
「これは、梨羽くんがおとうさんのこと歌った歌なの」
「聖樹、さん」
「うん」
悠紗はアルバムを眺めて、「教えてもらって、何回も聴いたよ」とつぶやく。でも分からなかった、と続けたいのは察せた。
仕方なくも、そうだろう。聖樹さんや僕がされていたことは、大人にも思い設けない人がいる。僕は悠紗を見つめ、この子だったら話してもいいんじゃないかとも思った。
悠紗はじゅうぶん聖樹さんの痛みを察知している。はぐらかしているほうが残酷ではないだろうか。
「まあ、全部梨羽くんの心の中が入ってできてるんだ。その紫苑くんの曲は、すごくめずらしいんだね」
手元のブックレットの“White Carnation”の文字に目を落とす。
「これって、紫苑さんがつけたタイトルなのかな」
「んー、それは訊いてないや。梨羽くんかも。いや、紫苑くんかな。分かんない。知らない。ごめんね」
首を振る。憎しみに白いカーネーション。捻ったタイトルであれば梨羽さんだろうし、個人体験の短絡だったら紫苑さんだろう。どちらもなくはない。
何も知らないふたりで考えてもしょうがない、となってCDとコンポを片づけた。「聴かないの?」と悠紗に問われると、「疲れちゃった」と照れ咲う。意味は分かったのか、悠紗は追求してこなかった。
そのあとは、あの四人が帰ってきていなかった頃と同じように過ごした。ゲームと閑話、昼には昼食が挟まり、再びのんきに時間を流していく。おやつにあのドーナツの残りを食べたりもした。あの四人と時間を忘れて過ごすのもよくても、こうして悠紗とゆったりするのも心地いい。
その夜、僕は聖樹さんに“White Carnation”について質問してみた。聖樹さんは明らかに知っている咲いをもらしたものの、「紫苑に訊いてごらん」としか言わなかった。
僕は紫苑さんを思い、訊けそうもないなあと弱気になる。「紫苑のことだから、僕が話すのはいけないと思うんだ」と聖樹さんは言い添えた。紫苑さんの感情があり、その曲に梨羽さんは詩を乗せなかった。その事実と合わせると、説得されるのを余儀なくされた。
カーネーション。憎しみ。紫苑さんには家がない。もしかすると母親につながるかもしれないのが、僕を惹きつけていたのだと思う。僕はおかあさんにいい感情がない。憎しみというにはもろくとも、けしてそこに愛情は存在しない。
強いていえば疑問だ。何で。どうして。幼かった僕はいつも思っていた。どうしておかあさんは、僕を何も見てくれないんだろう。
【第六十二章へ】