公園
幼稚園の送迎バスを降りると、おかあさんの迎えのすがたがなかった。しばしばある、初めてのことではなかったのでおろおろせずとも、憂鬱にはなった。
先生は歩道を左右に見渡し、「おかあさんいないねえ」と言った。先生は、おかあさんがたまに僕の迎えをすっぽかすのを知っている。
「おうちまで送っていこうか」
斜めがけにしたかばんに触りながら、精一杯考え、かぶりを振った。前回先生に部屋まで送ってもらったとき、おかあさんに怒られたのだ。「すぐそこなんだから、ひとりで帰ってきたらいいじゃないの」と。
先生は僕を説き伏せようとしたものの、僕はかたくなに拒んだ。おかあさんの冷たい面と接したくなかった。その頃の僕は、優しい面のおかあさんを信じていた。先生は仕方なく納得すると、「また明日ね」と僕の頭に手を置いてバスに乗っていった。
初秋で、僕はまだ四歳で──まだ、つまずく切っかけを経験していなかった。
おかあさんの言う通り、僕の住むマンションとバスを降りてすぐ近くだった。高層マンションで、二十階くらいあった。家があるのは十一階で、自動ドアを抜けホールを抜け、エレベーターの前に来た僕はたたずむ。
エレベーターのボタンに手が届かない。いや、背伸びして指先が触れないこともない。が、エレベータに乗っても、はるか上の十一階のボタンを押せないのは幼い頭でも予想できた。
エレベーターの前で突っ立っていた。とうに引っこみ思案だった僕は、みずから行動を起こすのは論外だった。誰か通りかかって話しかけてくれないか、おかあさんが思い出して降りてこないか。待ってみても、何もなかった。
僕は泣きたい思いでエレベーターを仰ぎ、その隣の非常階段へのドアを向く。とにかく内気だった僕は、誰かに話しかけるより、ひとりで苦しんだほうがマシだと思った。かくして僕は、無謀にも非常階段の重い扉を背伸びして開けた。
一階から十一階まで上がるのは、四歳児の体力には厳しいものだった。おかげで僕は、中盤あたりで転んで右膝を派手に擦りむいてしまった。
涙をこぼしながら十一階にたどりついた。膝がずきずきしていて、足を引きずらなくてはならなかった。階段嫌い、と思いながら、何とか自宅に到着できた。
ベルにまたもや手が届かず、ドアノブを下ろすとさいわい開いた。おかあさんの甲高い笑い声がしていた。
僕は靴を脱ぎ、「ただいま」とかぼそく言う。おかあさんはリビングのカウチで電話をしていた。僕には気づかなかった。
「おかあさん」とカウチの影になりつつ呼ぶ。傷の手当てをしてほしかった。おかあさんは反応してくれない。今度は前にまわって呼んだ。
さすがにおかあさんは僕に目をやり、「あら」と眉を寄せる。
「もう帰ってきたの。早かったわね。先生は?」
「え、あ、ひとりだよ。あ、あのね、僕ここね、」
「何、泣いてるの? 男のくせに嫌ね。おかあさん、いそがしいのよ。公園でも行って遊んでなさい」
口ごもっていると、「何でもないの」とおかあさんは笑顔で電話に戻った。僕が立ちっぱなしでいると、おかあさんは目配せで追いはらってくる。僕はうなだれ、そうするほかなかった。
ホコリや砂に汚れた服を着替えると、棚のお菓子を少し食べ、言われた通り家を出た。今のおかあさんといるのは怖かった。おかあさんは電話が好きだった。そして、電話のときには僕がいるのを疎んだ。
僕の胸には、早くも小さい切り傷ができはじめていた。
歩くと膝が痛かった。血が傷口でべとべとにぬめって流れている。手当ては薬箱に手が届かない上、ひとりでやれる自信もなくてできなかった。公園の水で洗おうと決めた。
今度はエレベーターに乗った。『▽』のボタンは下にあって指が届いたし、『1』も一番下なので届いた。僕は足を引きながらエレベーターを降りて、マンションを出た。
何分も歩かないところにある、広めの児童公園に行った。水道に直行しようとして、足を止めた。そこにはバケツを持って泥のおだんごを作る女の子たちがいた。
誰かに接近するのは避けたい。意気地なしに、僕は傷を洗うのをあきらめてしまった。きょろきょろしても、どこにも誰かがいる。遊具には子供、ベンチには大人。
砂場の隅っこにいることにした。みんな、中央で山にトンネルを掘るのに熱中していて、端には誰もいない。見守るおかあさんたちも、自分の子供を眺めるか、雑談に夢中だ。隅にいる僕なんか、見向きもされなかった。
砂をいじり、手先や視覚は漫然とさせて考えていた。さっきのおかあさんや、おかあさんの冷たい態度について。
おとうさんのことも考えた。おとうさんは僕を嫌っていなくても、好きでもない。少なくとも、おかあさんよりは大切にしない。
おかあさんは、そんなにおとうさんが好きじゃない。おとうさんより僕がいい。でも僕が一番でもない。
僕はどちらにもどう思ったらいいか分からない。
そんな思索を循環していた。僕には友達がいなかったので、ほかの家庭もそんなものなのかどうかは、確かめようもなかった。悩みに出口はなかった。
膝がしくしくして、吹いた風に涙の痕を感じた。傷を覗きこむと、じゅくじゅくになっている。視覚効果が異様に痛みをこみあげさせ、瞳が滲んだ。涙が傷口に落ちてずきんとした。慌てて涙を拭く。
水道の女の子は去っていない。どうしようと思った。こっそり家に帰って、お風呂で洗おうか。だけど、服も下手に濡らしそうだ。全部脱いで洗えばいいか。そうしようかなと、傷口を覆う澱んだ赤い粘液を凝視したときだった。
「どうしたの、その傷」
びくりと顔をあげた。いつのまにか、僕の隣には、知らないおじさんが腰をかがめてきていた。僕が狼狽えていると、おじさんは地面に膝をついて傷口を見る。
さりげなく、傷に冒されていないなめらかな臑に手を置かれた。
「どこかで転んだのかな」
僕はとまどったが、嘘を思いつけないのと嘘をつく必要があるのかが分からず、ぎこちなくうなずいた。おじさんは心配そうな表情になり、「手当てしないと」と僕の肩に手をやった。
僕はまごついた。心臓が不安にざわざわしていた。「化膿したら困るからね」とおじさんは僕を立たせると、尻についていた砂をはらって小さい手を優しく引っ張った。
周りの人は、誰も不審がらなかった。目を留めた人はいても、母親が駆けつけたりしていないので、気にしなかった。
僕も暴れたりしなかった。それは周囲の反応によるものだった。自分ではわけが分からなかったから、怪しんだり諭してきたりするふうもない周囲の大人によって、大したことはないらしいと判断した。
足が痛くて器用に逃げられそうもなかったし、傷の手当てでおしまいだろうと思った。おじさんは優しそうで、僕に不穏を察知させる隙を与えなかった。知らない人には、親子に映っていたのかもしれない。
公衆トイレに連れていかれた。そこには水があるので、傷のことしか頭になかった僕は納得した。つんとした微悪臭に顔を顰めていると、洋式の個室に背中を押された。おじさんは便器の蓋をおろすと、抱き上げた僕をそこに座らせた。
汗と煙草の臭いがした。おじさんは手洗い場でティッシュを濡らしてきて、ドアに鍵をかけて正面にひざまずくと、僕の膝を丁重にぬぐった。おじさんの頭には白髪が混じっていても、灰色という印象には至っていなかった。
おじさんが、いつ僕に妙な気持ちになったのかは分からない。
声をかけてきたときからそのつもりだったのかもしれないし、僕のすべすべした脚に触っていて急に、もしくはだんだんそうなったのかもしれない。誰もいないふたりきりの状況に頭がゆがんだのか、抑えているつもりのものが留めきれなくなったのか、理由も何もあったものではなかったのか──。
何にせよ、おじさんが僕の左膝をぎゅっとつかみ、突然傷口に顔をうずめたときにはびっくりした。
鋭敏になった僕の痛覚に、おじさんの舌を激痛として受けた。もがいた。するとおじさんは顔を上げ、「消毒しておかないとね」と言った。言われて、傷には唾をつけるという習慣を僕は思い出した。
おじさんは僕の傷を舐めた。この人はいいと思ってやっている。それが幼い僕の頭を支配し、嫌だと思うのも申し訳なく、何も考えられなくなった。
おじさんは顔を離し、もう一度傷をティッシュでぬぐうとそれは床に捨てた。そして財布から絆創膏を取り出して貼りつけた。おじさんは僕の頭や軆を撫でた。
「おかあさんは一緒じゃないの?」と訊かれた。こくんとした。「そうか」とおじさんは僕の手を握ると、「じゃあ、おじさんと遊ぼう」と言った。
僕は黙っていた。おじさんはにこにこしていた。相変わらず、手は僕の軆をさすっている。
かなり性的な手つきで、それはおじさんなりの検査だったのだと思う。僕が親に加護されて他人への不信感をたたきこまれているか、教えられずともませているか、放られるまま無知でいるか。僕は無知だった。その手つきの意味がまったく分からなかった。
おじさんの手は、僕の脚のあいだにもぐってきた。
おじさんは僕のズボンと下着を脱がせると、それは自分の下腹部に丸めておさめた。柔らかい白い腿をつかみ、脚を広げさせる。性器があらわになった。おじさんの僕の未発達な部分を眺めた。「触っていい?」と訊いてきたけれど、僕が返事をしないうちに、おじさんはその先端を人差指と中指で持ちあげる。
膝を肘で止められ、脚を閉じようにも閉じられなかった。こすったりつまんだりして、おじさんはさらに僕の脚を広げると、そこに顔を埋めてきた。
僕は混乱した。性器に熱い感触がした。舌だ。頭の中がぐちゃぐちゃになった。おじさんは遊ぶと言った。これは僕が知らない、ただの遊びなのか。分からなかった。何も知らない頭は錯乱に耐えられず、軆をただ硬直させるばかりになってしまった。
おじさんは僕の性器を吸ったり舐めたり、頬擦りしたりした。内腿に髭がちかちかしていた。しばらくそうしたあと、おじさんは積まれた予備のトイレットペーパーの上に僕の服を置くと、居心地悪そうにズボンのファスナーをおろした。
醜く腫れあがった、赤黒い物体が出現した。おじさんはそれを握って揺すぶった。僕は茫然と見ていた。おじさんは片方の手では僕の肌に触っている。その手は僕の手へと落ち、僕は手首をつかまれた。
「触って」と言われた。僕は何もできなかった。脱力していた。手をこぶしにする拒否もできない。おじさんは僕の手を腫瘍に乗せた。熱くて硬くて、浮いた血管がどくどくしている。指先に毛がまとわりついた。死んだ手のひらをその上で滑らされた。僕は息を詰めこんでいた。
やがておじさんはうめき声をあげ、便器の元に白い、変な臭いのどろどろを噴射した。それは僕の手にもついた。狭い個室に、ゆがんだ臭いはすぐ充満した。おじさんは吐きそうな空気の中でも、なお僕の股間をもてあそんだ。
今度はしつこくなかった。内腿に唇をつけて一瞬舌を這わせると、おじさんは僕に服を着せた。僕は困惑していた。おじさんは僕を抱きしめてあやし、膝の怪我の周辺をそっと撫でると、「君とおじさんは、この手当てしかしなかったんだ」と言った。
あれは何だったの?
訊きたくても、おじさんの笑顔はそれを許さなかった。内気で、無知で、幼かった僕は、従順にうなずくほかなかった。
トイレを出ると、おじさんは公園を出ていった。僕はとぼとぼと元の砂場に帰っていった。砂をいじった。つきっぱなしだったあの白濁が、ごわごわになっていた。
胸がもやもやしていた。その名前を知らないがゆえに、それが正しく自衛に主張すべきものだと知らなかったがゆえに、以降、僕はどんどん闇に引きずりこまれていく。
そのときの僕には、知る由もなかった。予想もつかなかったし、思い設けもしなかった。あのおじさんが何だったのか、自分がいったい何をされたのか、何もかも闇に葬るしかなかった。
すでにおじさんの顔は憶えていなかったけど、手の感触や息遣いは肌や耳を離れなかった。僕ができるのは、もやもやに哀しくなることだった。
陽がかたむき、家に帰った。エレベーターには制服のおねえさんが同乗して、ボタンを押してくれた。玄関の鍵は相変わらず開いていた。ドアの隙間に夕食の匂いがする。
数時間前におかあさんに邪慳にされたのがよみがえり、不安になった。おかあさんはキッチンで何か炒めていた。「ただいま」と小さく言うと、おかあさんは振り返って微笑む。
「おかえりなさい。暗くなってきたから心配してたのよ。手は洗ったの?」
僕は「洗ってくる」と洗面所に走った。おかあさんは優しいほうになっていた。無条件にほっとした僕は、次はおずおずしたりせずにキッチンに戻る。からからの喉にりんごジュースを流した。
おかあさんはこちらを見つめて、「その膝、どうしたの?」と言った。どきっとして、ついで安堵をもぎとられた。
帰ってきたとき、おかあさんには傷をしめした。おかあさんのその質問は、あのときの僕の話なんか聞いていなかったのを、見もしていなかったのを証明していた。泣いていたのも深く考えてくれなかったのだ。
僕の胸は急速にしぼんで、けれど、それでもおかあさんを信じようとした。あのときは剥き出しで血も流れていた。幼稚園で転んで先生にしてもらったと僕は説明した。どっちみち、あのおじさんの言いつけに沿うには、そう言うのが適していた。
そして僕は、「嘘言いなさい」と言ってほしかった。「さっきはそんな手当てされてなかったじゃないの」と。乗じて僕はあのおじさんにされたことを告白し、あれが何だったのか教えてもらいたかった。
だが、おかあさんは僕の淡い期待を裏切った。「そうなの」とあっさり納得し、「あんまり迷惑かけちゃダメよ」とまで言った。
何も言えなくなった。おかあさんはこちらを見返り、「返事は?」と言った。僕は口を喘がせ、けども最後には、「うん」と言った。おかあさんは微笑し、今日の夕食の献立を語りはじめた。
もう僕には、よく聞こえなかった。
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