風切り羽-63

ひとりきりの夜

 暗闇が揺れていた。最初、何が何だか分からなくて、すぐ瞳が濡れているせいだと分かった。
 まぶたを開けると、こめかみに生温いものがぽろぽろと流れ落ちた。まばたきで水分をはらうと、視界はいくらか澄んでも、涙は簡単に止まらない。まくらに涙が染みたのが、濡れた肌で感じられた。
 胸のあたりが、もやもやしている。このもやもやはよく覚えている。また夢を見てしまった。十年も前の光景なのに。克明に焼きついている。
 あれは初めてされたときだ。四歳だった。知らないおじさんにおもちゃにされた。もやもやする。今の僕はこの名前を知っている。衝撃、嫌悪、何よりも、汚辱──。
 一週間後には、かさぶたも取れた。あの膝の怪我が切っかけだった。あの怪我がなくても、いずれああなっていたと思う。あの頃、僕は大人によからぬ気持ちを起こさせる標的の素質を、兼ね備えていた。親に放られ、すれておらず、無知であり、おとなしくて、人に逆らわず、不細工でもない。
 僕の幼さは極めて無防備だった。それが悪かったとは思わなくても、おかげで悪戯してやろうという気になる悪い大人は絶えなかった。
 あちらにすれば、たわいない悪戯心だったのだろう。が、その心理こそが、僕にのさばる巨大な空洞を作る基礎となった。
 あれを皮切りに、僕は幼さにつけこまれていろんな大人にひどいあつかいを受けた。何回か来る人もいた。一回きりの人もいた。顔は忘れてもそれが分かるのは、触り方や息のかかり方、なだめる声がかきむしっても耳を塞いでも、いまだに消えないからだ。
 あれが始まりだった。あの日でなくとも、どこかに始まりは潜んでいた。でも変えられなくもなかった。あのままなら、確実に誰かにどうかされていた。ただおかあさんが僕を気にして、公園につきそってくれたり、怪我を見てくれたり、僕が口ごもったのに怪訝を覚えてくれたりしたら、何か変わっていた。
 涙が耳孔に流れこんで、気持ち悪かった。ゆっくり上体を起こし、小さく鼻をすすった。頭が重い。
 今朝──昨日の朝にぐずついていた天気は、昼過ぎに雨になって今も小雨として続いている。空気が冷えこんでいた。ベランダに出る気はなく、ふとんを肩にかぶる。
 あったかいの飲みたいな、と思っても、勝手にごそごそやって聖樹さんと悠紗を起こすのも忍びない。まぶたを下げて、ふとんの中に縮まり、綿にため息をふくませる。雨音がしめやかだった。
 ここ数日、精神の均衡ががくんと来なかったぶん、夢はやたら心にのしかかった。
 あれは現実なのだ。脳の産物ではない。僕は十年前、あれを実際にされた。あのおじさんは実在していて、この軆に触れた。僕はあの手に脚を開かれ、この性器を遊ばれて舐められた。触られてこすられて、震えた吐息の中でしゃぶられた。あれは現実で、夢ではない。僕がこの軆に受けた実体験だ。
 親が気にかけてくれれば、あのとき周りの大人が声をかけてくれれば、僕は助かっていた。
 そんな考えは甘えているのだろうか。責任転嫁だろうか。僕は子供だった。頑是なくて何も分からず、眠る性的本能に嫌悪と困惑の区別もつかなかった。
 言い訳なのだろうか。それでも僕は、自分で自分を守らなくてはいけなかったのだろうか。あれはすべて、僕が不甲斐なかった責任で起こったことなのか。
 絶対違う。四歳の子供が、どうやって鷲掴んでくる大人の手を振りはらえるだろう。
 誰か悪かったとは言わなくても、どうして僕は、あんなに突き放されていたのだろう。早く誰かにすくいあげられていたら、こんなことにはならなかった。あのときは、信じてもらえないと予想する以前ですらあった。うながされれば、きょとんと話せていたと思う。そうして受けとめてくれる大人がいれば、僕の基盤はどんなに助かっていたか。
 同級生に輪姦されたりしなかった。家もあんなことにならなかった。僕がこんなに内向的でなければ、おとうさんも妄想に取りつかれなかったのではないか。取りつかれても、「バカじゃないか」とはねかえせていたに決まっている。女の子にもきちんと興味を持てていた。誰も彼も疑ったりせず、友達もいた。軽口程度でしか学校も嫌だと思わず、家に帰るのも死ぬほどだるくなかった。死なんて遥か遠い生活で、生きているのもそう悪くなくて、楽しくて、きっと好きな女の子ぐらいいて──
 息が苦しくなって、ふとんに顔を埋めた。嗚咽がもれた。
 バカだ。こんなのは考えたって報われない。叶うことはない。同級生には犯された。父親も病気だ。性が怖い。みんな信じられない。学校も家もなくなってしまえばいい。死にたい。苦しい。ひとりぼっちだ──。
 ふとんがぐしょぐしょになっていくのが分かった。泣きやめなかった。よく分からない。すごく泣きたかった。喉と胸が、つぶされそうにずきずきしていた。
 押し殺して泣いた。鼻をすする合間に、雨音が澄みきっている。誰かそばにいてほしかったけど、結局その夜はひとりきりだった。

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