荒波の手前
深夜に運転はとうさんからかあさんに替わり、とうさんはそれから睡眠を取った。いくつも出口を越え、闇が白い靄に蒼く薄らいできた頃、僕もさすがに眠くなった。「寝てもいいのよ」とかあさんに言われ、僕はかぶりを振ったものの、いつのまにか眠ってしまった。
僕は車ではあまり熟睡できるほうではないのだが、肉体が限界になれば眠れるらしい。意識はきちんとなくなり、座った姿勢で妙に揺れるところに眠る自分に眉を寄せて目覚めたのは、空が青く抜けた昼前だった。
まだかあさんが運転していて、とうさんは地図をめくっていた。僕が起きたのに気づいたふたりは、次のパーキングエリアで食事し、運転はとうさんが担った。相変わらず周囲は山でも、闇に鬱蒼と浮かぶ山と、晴天に深緑が映える山では印象が違う。
「まだ遠いの?」
眠ったかあさんを邪魔しないようにとうさんに問うと、「十五時前には着けそうだな」ととうさんはデジタル時計を一瞥した。十一時三十四分だ。
「ちょっと早かったね」
「夜中にだいぶん走れたからな」
「向こう着いたら、海と家で二手に別れたほうがいいと思うんだ。どっちにもいなかった場合、時間の無駄でしょ」
「そうだな。じゃあ、悠芽はかあさんと行け」
「分かった。海のほうが怪しいんで、そっちに行ってもいい?」
「ああ。もしとうさんが見つけても、声は悠芽にかけてもらうよ」
「もし外れてて、遥がいなかったらごめんね」
「気にするな。可能性は確かにあるんだからな」
僕はほっとしてうなずき、「会社どうしたの?」と思い出して問うた。僕ととうさんが眠っているあいだに、かあさんがパーキングエリアで電話を入れておいたそうだ。
今日は第二金曜日でもある。普段なら、僕は学校で封筒を預かり、日曜日に希摘に届けていた。僕が休みなので担任が持っていくかもしれない。僕は内心希摘に謝り、でも分かってくれるよな、とあの聰明な親友を信じた。
十五時になる前に、車は高速を降りた。ぜんぜん知らない光景の中だと、地元でも見る街路樹が知らない木のように見える。しばらくは案内の看板の多い道路が続き、初めて当たった十字路の信号を抜けると、人通りのある市街地だった。
とうさんは地図片手に運転し、一般道路を迷いかけながら進む。次第に低い建て物が増え、一軒家やアパートが混じってきた。人通りも雑多でなく、そこに暮らす人々の地域的な雰囲気になってくる。店はコンビニぐらいの住宅街に入ると、「遥くんが住んでたのはこのへんだって聞いたことがある」ととうさんはガードレールの脇に車を停めた。
「何丁目とかは分かんないの?」
「病院に聞けば分かるが」
「ダメ。ああいうのがあったとこはどこですかって訊いたら、みんな分かるんじゃない?」
「そんなこと訊いて、こころよく答える人がいるか……?」
「……そだね。じゃ、当たるの少し時間かかるかな」
「そうだな。かあさんは寝てるし──悠芽、ひとりで海に行けるか」
僕は周囲を見まわした。このへんはコンクリートのアパートの群衆で、道路の左右にそれが立ち並んでいる。
「海なんてどこにあるの」
とうさんは地図を広げ、「この道をまっすぐ行ったら」と縮小地図に目を凝らした。
「十字路がある。その先は個建の住宅街みたいだな。で、その先の田んぼを進むと海岸に出られるはずだ」
「遠い」
「歩きならな。車で送るか」
「ん、いや。ただ、勝手にどっか行かないでね」
「当たり前だろ」ととうさんは笑って地図を閉じる。
「かあさんに車にいてもらおう。とうさんはこのへんを当たってみる。部屋には入れないし、公園とかにいるかもしれない」
うなずいた僕は、マフラーを巻いてリュックを肩にかけた。念のため、とうさんは僕に千円と自分の名刺を持たせる。「こんなところで誘拐されるなよ」と言われ、「昨日、夜の街歩いてちょっと度胸ついたよ」と僕は笑って車を降りた。
荒れた風は心臓にぎゅっと冷たくても、昼間だと息は白くなかった。車の暖房にくるまれていた肌が、冷気にびっくりして粟立ち、僕は髪やマフラーの裾を舞い上げる風に目を細める。
空は晴れていても、ちぎれ雲の変形ははっきり見取れた。空気にただよう知らない匂いは肌に感じ悪く、僕がよそ者だと圧してくる。通りがかりの買い物ぶくろを提げたおばさんも、排他的な目を向けてきた。僕は鈍感を装うと、暗くなってきたらここでまた落ち合おうととうさんと別れた。
脇道には入らず、アパート沿いの歩道をまっすぐ歩いていった。わりと頻繁に車道には車が通り、すれちがうのはおばさん、老人、下校する小学生のかたまりだ。僕は近所の子供たちとも別に親しくないけど、やはりあの子たちとその子たちは違うように感じられた。低学年っぽい子だと、ランドセルに黄色のカバーをつけていたりもした。
だんだん上り坂になっていく道を、黙々と歩く。見分けのつかないアパートは途方がなく、何やら気が遠くなる。僕と同年代の男が自販機前にたむろするコンビニを通り過ぎ、十字路なんてどこあるんだよ、と青黒い影が落ちてきた空を仰いだとき、横断歩道の歩行中らしき旋律が聞こえて顔をあげた。
といっても、坂道なので先が見えない。そのうち下り坂が来るのを糧に、気力を奮って坂をのぼった。するとようやく、こちらと向こうでアパートと一軒家を分かつ十字路が現れた。
首を垂れて息をつき、横断歩道の赤信号で突っ立った僕は、ん、と頭をもたげる。無感覚の頬を切る風に、排気ガスや環境ですすけた植物ではない匂いがした。山側で育った僕には、馴染みがなくて新鮮に感じられる匂い──海の匂いだった。
僕はその匂いと変わった風の感触を頼りに、住人でなければ迷いそうな下り坂の住宅街を彷徨った。犬を飼う家の前を通ると、容赦なく吠えられてびくっとする。太陽は雲に隠れながら暮れはじめ、あやふやであまり美しいと言えない夕暮れの中、あたりは薄暗く色彩を失っていった。
この時期だと、昼は夜に寝返るのにぐずぐずせず、一瞬で空は濃紺に飲みこまれる。電柱の明かりもつき、僕はとうさんとの約束を思い出しつつも、田んぼが見つかったので進むことにした。
田んぼが現れると、いっそう風が抜け、潮の香りが強くなった。夜になったせいで音も静まり、もう虫も鳴かない。静けさに心地よい波の音色が聞き取れて、耳も研ぎ澄ました僕は田んぼが両手に広がる道へと導かれた。
波音が右手に聞こえるのに気づき、田んぼのあいだの小道を抜け、下がコンクリートの土手になっているのを見つける。土手のふもとには、海にありそうなごつごつした岩が見えた。船虫、という恐ろしいものを思い出したが、時間もないし、そんなのにビビって海に降りるのを逃げ出すわけにもいかない。僕は土手沿いを歩き、降りられそうな場所を探した。
田んぼが終わって、海から土手への階段を発見した。波の音と、潮の匂いと、強めの風が僕の胸をざわつかせる。あたりは真っ暗で、唯一の光は薄雲のかかった月だ。僕は噛んでいた唇をほどくと、「神様」とつぶやいて、震えそうな脚で階段を降りていった。
階段の降り口の左右には、ごつごつ岩があっても、波打際には砂浜が広がっていた。右手には狭い砂浜がずうっと続き、左には岩が増えて高さが積みあげられている。遥が母親と飛び降りたのは、あの岩だろう。
砂浜に降り立つと、当たり前だが砂場のように靴底がめりこんだ。アスファルトに慣れているので、変な感じだ。豊かな波の音は鼓膜から心をなごませても、においはちょっと生臭さもあって香り高いとは言えない。僕は目をつぶって深呼吸で覚悟をくくると、湧き出る胸の靄に息を止めて砂浜に目を凝らした。
心臓がきしめいている。いてほしいような、いてほしくないような──いや、いてもらわないと困る。
さざめく波、海への冷たい風、きらきら細かく光る岩、貝殻や海草が散らかる砂浜──
ぽつんと座りこむ影が視界に入り、僕はリュックのストラップを握った。
何かいる。いや、誰かだ。ひとりだ。肩の線からして男。
動悸に小刻みする膝で、さく、と僕は踏み出す。
その人は身動ぎもせず、渚で膝を抱えて海を見ている。かたわらに黒い荷物がある。僕のマフラーも揺らした風に、耳が隠れる半端な黒髪も流れる。
凝らしていた目が、ゆっくり確信にほどけていく。
気配か足音かでその人はこちらを振り返り、僕たちはいくらかの距離を置いて瞳を合わせた。
「何で」
「……え」
「何でお前は、そうやっていつも俺のことが分かるんだ」
僕は小さく息を飲む。
遥が、睨むように僕を見つめる。
【第七十七章へ】