野生の風色-79

君と手を握る

 ドアを開けると、刺さるように冷えこんだ風が顔にかかって、前髪を舞い上げた。
 晴れていても、朝陽は寒気に緩く、景色は空の色を落として蒼く灰色がかっている。吐く息は真っ白で、ぬくぬくしていた頬や指先は一気に柔らかさを奪われる。息づきをうずめるような心臓に、僕は学ランの上の紺のコートを深く着こんで、マフラーをきつく結う。
 冬休みの宿題や成績表が入った手提げを持ち直すと、いってきますと声をかけようと、僕は玄関を見返った。
 すると、まっすぐ奥の階段で、目をこすりながら遥が降りてきていた。髪やトレーナーとスウェットというなりを、寝起きらしくくしゃっと乱している。
 吹きこむ風が届いたのか、遥はこちらに気づき、何回かまばたきすると、こちらに駆けてきた。「おはよ」と僕が微笑むと遥はうなずき、「おはよう」と言葉も添える。
「学校?」
「うん。今日は始業式だけだから早いよ。すぐ帰ってくる」
 遥は小さくうなずき、パジャマには酷な真冬の風に身を縮める。
 帰ってくる、と出かけるとき遥に言い置くのは、僕なりに考えた彼に待つことを教える手立てだった。今日は眠っているようだったので、かあさんに伝言をしておいたけれど。
「起きてたんだ?」
「今起きた」
「そっ。いいな、遥も希摘も学校行かなくてよくて」
 僕の言葉に、遥は少しだけ咲った。満面で咲うのはむずかしいようでも、徐々に彼の口元や瞳は微笑むことを覚えはじめている。
「でも、俺とあいつの行かないは違うし」と遥はドアマットを素足の爪先でつつく。
「俺は医者に止められてるだけだ」
「ん、止められてなかったら行くの?」
「分からない。いつか一度、試しに行って決める。俺は、希摘みたいに、自分が学校に合うか合わないか自分で判断したわけじゃない」
 僕は段差に顔を仰がせて遥を見つめると、「そうだね」と同感した。
「行けないこともなかったら、行っといたほうが便利だし」
「うん」
「かといって、無理する場所でもないよ。希摘みたいに外れるのも有りだし。もし行くとしても、早起きできるようになってからだね」
 遥はもう一度笑むと、うなずいた。
 そこで、向こうの道路を小学生が騒がしく駆け抜けていく。痛いほどの寒風も舞いこんできて、僕は登校直前であるのを思い出す。
「ごめん、寒いね。まあ、今は学校行くなって言われてるなら、その通りゆっくりしてなよ」
「ゲームしてていい?」
「もちろん。あの部屋寒いんで、ストーブつけてね」
「分かった」
「うん。じゃ、行ってくるね」
 遥はうなずき、「いってらっしゃい」と言った。僕はそれに笑みを作ると、ドアをもっと開いて家を出た。
 庭の敷石を抜けていく。つかんだのを後悔するほど、かんぬきは冷たかった。きいっという金属的な軋みに、電線で鳴いていた小鳥たちは驚いて飛んでいった。
 走らなきゃな、と遥との立ち話を考慮した僕は、本当は風にすくむ脚を小走りにさせ、ささやかな日向を追いかけた。
 今日は一月八日、三学期の始業式だった。正月気分は抜けているけど、冬休みは短かった。かあさんの実家に帰ったり、希摘の家を訪ねたり、今年の冬休みは特に呆気なかった気がする。
 いつもはのんびりする時間を、遥と過ごす時間に当てていたせいだろうか。他人という感覚は消えても、不思議と遥とは兄弟というより友達という感じで、わりと時間はにぎやかに過ぎていった。
 遥を海岸に迎えに行った日が、ほぼふた月前だ。あの日、両親は僕と遥が砂浜にいるのを確認すると、田んぼの脇に車を停め、僕たちを揃って来るのを信じて待っていてくれていた。
 車に乗って、最初に停まったパーキングエリアで降りるまで、遥は僕の手を握っていた。子供っぽく、怯えた迷子のような握り方だった。僕も同い年の男の手を握るというより、小さな子供を保護するような気持ちで握り返していた。
 そのつないだ手のような関係が、ひと月ぐらい続いただろうか。
 遥は初め、僕たち家族に溶けこむことにぎこちなく、今にも投げ出してやっぱり部屋にこもりそうだった。僕をしきりに見たり、隣にいたりで何とか家庭の中にいる。僕が学校や希摘の家に行って留守にすると、いたたまれないようだった。
 しかしやがて、リビングやダイニングにいる時間でも、遥は肩の力を抜けるようになってきた。両親とも話をしたりして、真の意味で通じつつある。
 僕の陰に隠れるような、遥の子供っぽさがやわらいできた十二月の初め頃、学校はドクターストップなので無理でも、遥は僕と希摘の家に行く機会を持つようになった。もちろん、いささか不安げな希摘の承諾はもらってだ。
 僕が希摘の家に行くとき、遥は捨て犬のような目をした。それに僕が耐え兼ねたのも、遥と希摘が話すのは利なのではと考えたのもある。
 希摘が遥と顔を合わせることを不安がったように、遥は希摘と顔を合わせることに警戒を発した。それでも、家に置き去りにされるのには代えられなかったらしい。
 そんなわけで、遥と希摘は改めて顔を合わせた。
 希摘は、許した人間しか自分の部屋に入れない。現在も希摘は遥を自分の部屋に入れていないが、いずれ招くのではと思うほど、ふたりは相手を不穏な眼つきで探る関係を解消しつつある。お互いを名前呼びするようになったのも、その証だ。
 遥はああ言っていたものの、学校にいい想いがないのが本音だろう。横道にそれても真っ当に生きている希摘を見たのは、遥に自分の好きなように生きていく自信を与えたようだ。学校に行くとか行かないとかいう次元でなく、自分の意志があっていい、ということを遥は希摘で学んだ。
「ああいう奴に、親友って認められるのすごいな」
 帰り道に遥はそう言って、「僕にはただのおもしろい奴なんだけどね」と僕は咲った。
 希摘とふたりで会うときもある。「まだこっちのが楽だわ」と希摘は苦笑していたが、遥に好感は持っているようだ。希摘は心の中が分からない相手が怖いのであって、遥については僕の愚痴でけっこう察している。ただでさえ触れにくい遥の心を、希摘は直感的につかんで、悪くない感じだと自分と遥の関係を評した。
 僕と遥の関係について、ほぼ自分の見た通りだったことに希摘はほくそ笑み、褒めてもくれる。「手え抜かずに気楽にね」と励まされ、希摘がいたから遥ともつながれたんだよなと僕はこの親友の存在に心から感謝した。
 僕が家にいないあいだは、遥は本を読んだりゲームをしたりしている。気分がよければ、リビングでテレビを観たり、親と話したりもする。
 ゲームはテレビゲームで、「やってみたら」と僕が勧めた。思いのほか遥が気に入ったので、共有のものにしようと思い、僕の部屋にあったゲームは、テレビごと空き部屋だった和室に移った。本は僕の漫画だったり、希摘に借りた小説だったりする。「好きなことがあると、周りがどう言おうとそれに尽くせるんだよ」と絵に尽くす希摘に言われ、遥なりに“趣味”を見つけようとしているのだろう。
 そんな具合がいい方向に深まり、クリスマスや正月も退屈せずに過ごせた。そんなものを祝ったこともなかった遥は、とまどい気味だったが、ケーキもおせちも「おいしい」と言っていた。
 年末年始の帰省にも、もちろん遥は一緒に来た。「よそ者になるかも」と不安をこぼしていた彼を、孫としても僕の友人としても母方の祖父母は歓迎し、自分の存在が無や害ではないことを、そういった周りの許容で遥は受容していった。
 遥には心外の評かもしれなくても、遥がそうして心を開いていくのが僕は楽しかった。もしかしたら、親が子供の成長を楽しむようなものかもしれない。
 遥は身体的には僕と同い年でも、心理的には率直なものしかない赤ん坊だった。僕たちに出逢って、ようやく内面的にも成長しはじめている。子供が根気よい世話の中でめまぐるしく育つように、遥は僕たちの長い目の中で、日に日に心を感情で潤わせていった。遥の心が癒されている、なんて言い方はまだ乱暴だ。でも、癒されていくための基礎は築かれつつあり、僕は遥の未来を見守っていきたいと思っていた。
 ところで、年が明けても遥が僕の家にいるということは、医者がそれを認めたということだ。一月三日に僕たちは帰省から戻り、四日、僕もつきそって遥は両親と病院に行った。遥はかなり嫌そうだったが、「落ち着いてるのを見せて断ち切ったほうがいいよ」という僕の言葉にはうなずいていた。
 医者は遥の平穏な状態に衝撃を受けていた。ずっとかたくなだった彼が、もっとも危懼していた僕に心を開いているのだ。とはいえ、嫉妬などするほど彼らも間抜けではない。喧嘩や海岸のことを聞いた医者は、僕に礼を言い、遥を僕たちの元に手放した。
 その帰り道には雪が降り、闇を裂く風に白い粉雪が舞い散っていた。後部座席で僕と並ぶ遥は、じっとその雪と風を見ていた。
 家に到着しても風は唸りをあげ、雨戸をたたくように揺すぶっていた。遥と和室でゲームをしていた僕は、「風強いね」とストーブの前で肌を赤い電熱に染めながら言った。コントローラーをだいぶ慣れた手つきでいじっていた遥は僕を向き、「うん」と自分のカードにセーブをする。
「俺の中の風みたいだ」
 僕は遥を向いた。遥は横顔はややこわばっていた。今でも、そうして瞳が陰ることがなくなったわけではない。
「俺、希摘の兄貴が言ってたことはほんとだと思うよ」
「真織さん」
「傷は自分の一部になって、消せばいいってもんじゃないって」
 真織さんが医者を辞めたいきさつは語っていなくても、真織さんが語っていた分析は僕は遥に話した。希摘に貸してもらい、遥は真織さんの本も読んでいる。あまり医者にいい想いがなかった遥は、真織さんの本に共感できている様子だ。
「俺の傷は、強い風なんだ」
「……うん」
「風が吹くと、野生にいたときを思い出して、怖くなって白くなる。風があるかぎり、俺は切れたり暗くなったりするんだ。でも、風が止まるのは死ぬってことだから」
「消せない、ね」
「……うん。風は俺が生きてる限りなくならない。またいつか、ときどき、変になるんだ」
 僕はストーブの前を離れ、遥の隣に戻った。セーブを終えてこちらを向いた幼い瞳に、僕は微笑む。
「大丈夫だよ。切れても落ちても、それが遥なら抑えるほうが自然じゃないんだ。そういうのも遥の一部だって、分かってる。僕たちも遥ができる限りそうならないようにするけど、僕たちが気遣ってるのを踏みにじるみたいだからって、衝動を抑えることもないんだ。表に出してくれたほうが、僕たちも遥を知れる」
「……うん」
「出してくれたほうが、今、遥が風に襲われてるのも分かる。風は変わらないかもしれなくても、もう遥は野生に投げ出されてはいないんだよ。家がある。何も来ないように家の中で守ってあげるし、もし何か来ても家族が盾になって助けてあげる。そうやってあったかいとこで安らぐのは、誰にだってある自然な権利なんだ」
 陰るときもあるといっても、それでも遥の黒い瞳は、澄んだ湿りを映すようにもなった。遥は一度たたみに目を落とし、再度僕に顔を上げた。
「悠芽」
「ん?」
「俺は、癒されるのは家を出ることだと思うんだ」
「えっ」
「この家を出ていくとかじゃなくて、その、守ってくれる家の中を出ること」
「自立ってこと?」
「いや、何というか……外に吹いてるのが、怖くないそよ風になるというか。だから、外に出ることもできる」
「……なるほど。そだね」
「俺は一生そうなれないかもしれない。ずっと怖い風が吹いてるとか……そよ風になっても、いつまた強い風になるか怖くて出れないとか」
 僕は遥の瞳を見つめて、その冷静な色合いに彼が未来を正視しているのを察する。さすがにここで、否定するのは無責任だ。雨戸に当たる風の音を響く。「それでも守るよ」としか言えなかった僕を、遥は見つめてきた。
「悠芽といると、そよ風が来るのを信じられるかもって思う」
「……ほんと?」
「悠芽が、そういう風の中にいるのは分かるから。悠芽に会って、そよ風が幻想じゃないことは分かった」
「………、」
「風は怖いばっかりじゃないって、心に風が吹いてることが嫌じゃなくなったんだ」
 僕は遥に目を開き、遥は照れたようにテレビに向き直った。
 心に風が吹いていることが嫌じゃなくなった。僕にはその言葉の重みが分かる。その言葉はすなわち、死によって心を凪に収めなくてよくなった、感情を感じながら生きていてもよくなった、という意味なのだ。
 ──信号が青に変わる。荒れた風が排気ガスを奪う横断歩道を、僕は駆け足で渡っていく。
 遥とのこのふた月を想うと、変わったなあとしみじみ思う。不安定で居心地が悪かったあの八ヵ月間が、無駄だったとは思わない。男の僕が言うのも変かもしれないけど、あれは生みの苦しみだった。必要な苦痛だった。あれがなければ、僕たちと遥は、触れ合いのない綺麗な関係に終わっていた。
 遥といると楽しいと思えるのが、あの耐えがたかった日々を後悔させない。
 遥に出逢って、僕も成長したのだろう。遥が僕でそよ風を知ったように、僕は遥で怖い風を知った。そよ風ばかりでぬくぬくしているのも、たぶん正しいとはいえない。僕は遥の中の風を知ったことで、ほどよい風色を知れた。
 遥の精神は、そう簡単にいかないのが現状だ。僕には本質がそよ風であるゆとりがあっても、遥には本質が暴風である切迫がある。あっさり開けるほど、心の窓の錆びつきは軽くない。永遠に吹き続けるかは言い切れなくも、遥の風色が野生であるのはおそらく変わらない。変えてはいけない中枢に根ざしている。どんなにつらくても、遥はその風や気配を心に内在させて生きていく。
 ひとりぼっちであれば、その風の脅威は留まることを知らない。何もない草原をやみくもに逃げまどっていれば、気が遠くなって、息が切れて苦しくなるのは当然だ。けれど、誰かいれば──たった一枚でも、身を隠せる壁があれば、ずいぶん心身は救われる。
 僕の風はそよ風で、きっと、どうやっても遥と分かちあえない部分がある。でも、彼の隣にいよう。牙と爪の餌になることは、家族なんかじゃない。家の中で、身から心を休める。遥には、それだけは知っていってほしい。
 誰の心にも風が吹いていて、それにはいろんな風がある。春風もあれば吹雪もあるし、なずんだ風もあれば引き裂く風もある。暴れ狂う恐ろしい風もあり、その風色はいつまでも恐ろしいままかもしれない。
 だけど、風など止まったほうがいい──死んだほうがいいなんてことは、絶対にない。
 僕は家族として遥のそばにいる。そうしたら、どんなに怖い風であっても、手を握る誰かがいる心強さを知れる、暖かい光になるはずだから。

 FIN

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