陽炎の柩-65

終わる恋

 連れ合って店を出たふたりは、街の通りの人混みを縫い始めた。
 飛季は交差するネオンで柚葉を見る。すると目が合って、柚葉は咲った。彼女の明るい笑顔が、こちらの気持ちをやわらげる効果があるのも変わっていない。精神が乱れている飛季に、それはありがたかった。
「話には聞いてたんだよ」と柚葉は言った。
「それがロウとは知らなかったけど、少女荒らしとしては有名になってるから」
「はあ」と飛季は間の抜けた返答をする。そういえば、あれだけ少女たちを食い荒らし、周囲にどう取られているかはまったく考えなかった。
「男前で、名前も素姓も謎、かなりワイルド。ロウには結びつかなかった。好感なかったしね。女の子をないがしろにしてるロリコンじゃんって」
 飛季はうつむいた。柚葉は含み笑いをした。
「ロウだって知ったのは、最近だよ。例の奴、あいつだよって知り合いが指さしてさ。そのときのロウも、誰か連れててた。ミミくらいの小柄な子」
 飛季は面目なくなる。飛季がなぜこんなヤケに走ったのか、柚葉は見透かしているのだ。
「ミミ、いなくなったんだね」
「……ああ」
「あの子がねえ……。あ、あたしはあの日以来、ミミは見てないよ。一応」
「………、うん」
「仲良くやってんのかと思ってた」
 柚葉のつぶやきに気まずくなる。踏み出す足元を見て首を垂らし、ぼそりと口を開く。
「謝りは、したかった」
 柚葉は、こちらに視線を投げかけてくる。
「ほんとに、ごめん。あの日、あのままになって。君には冷たい選択だと思ったけど。俺は、……あの子が」
「分かってるよ。あたしも悪かったんだ。ロウに言われて、素直に逃げた。あれには、自己嫌悪になったんだよ。本気であんたが好きなら、あたし、あの子に咬みつき返したはずなのに」
「仕方ないよ。あのときの実摘、すごかったし」
「確かにね」と柚葉は笑った。
「病気もほどほどにしろって奴、いまだに忘れられない。……手に負えない人殺しだっていうのも」
「精神的な話だよ。俺は、その、受け入れたくない人間を心で殺して拒否するんだ」
「あたしも殺した?」
「まさか」
「……ふふ、そっか。負けたって思ったんだ、ミミに。あたし、あんたのために、あんなふうに人に咬みついたりできない。あたしはあの子みたくなれない。自分を投げ捨てて人を愛せないんだ。ロウがあの子を選ぶのは当然だよ」
 柚葉は、まじめなような疲れたような顔をしている。
「ぱっと見じゃ、あたしにしとくほうが楽だよね。マジでつきあいたかったら、あの子だよ。あたしは真摯っていうのはダメ」
「君がそういう自嘲を話すのって、めずらしいな」
 飛季を仰いで、柚葉は笑みを作る。
 柚葉は自由そうでいて、気配りに細かい。ときおり彼女が自分を殺して人に気を使っているときを察すると、飛季は切なくなったものだ。今もその心持ちは変わらない。
「ロウには鬱陶しいかもしれなくも、あたしは、あんたに心開けたと思ってる」
 飛季はうなずきながら、鬱陶しくはないと訂正した。本心だった。柚葉は咲って、答えなかった。
 周囲では人間がうごめいている。追い越したり、追い越されたり、すれちがったり。そんな混雑を俯瞰する建物の装飾にも、五感をごちゃごちゃ刺激される。
 柚葉は首をかたむけ、まぶたを半分おろした。そして、ため息と共に唐突に彼女は吐き出した。
「あたし片親でさ、中学のときは地方にいたんだ」
「えっ」
「そこで、今みたく男をふらふらしてんのばれちゃってさ。田舎って、そういうのに潔癖でしょ。いろいろされた」
「……いろいろ」
「リンチっていうのかな。イジメってレベルじゃなかった」
「………、」
「卒業と一緒にこっちに来て、母親に泣いて頼みこまれた。ここでは、もうそんなことしないでくれって。あっちでは、母親も一緒に嫌がらせされてたしね。そのときのあたしも、やめようとは思ったんだけど」
 飛季は息を詰めて、目を下げた。柚葉の明るい瞳に、ときどきちらついた影がよぎった。何かあるのだろうかと、懸念したときもあったけれど──
「でも、どうしても寂しくて。何でだろ。父親がいないせいかな。生まれたときには死んでて、何にも知らないんだけど、優しかったことは母親に聞いてる。母親、ちょっとおかしくてさ。父親の幻に取りつかれて、あたしのこと見てくれないんだ。だから、あたしのためにこっちに引っ越してきたときは嬉しかった。男漁りもやめようと思った。でも母親は変わらなくて、あたしはひとりぼっちで……切れそうになって、息抜きにここに来るようになった。ここならうろつくとこ見られても、なぜか逆に尊敬されちゃったりね。だんだん、この街が全部になってきてる。この街でなら、あたしはあたしでいられる」
 柚葉は言葉を切り、大きく息を吐いたあと、「でも」と続ける。
「恋愛する気はなかったよ」
「え」
「ロウといると、自分が捻くれてるのがよく分かる。あたしなりに、ロウといると落ち着くんだよね。一緒にいたいって思った」
 飛季はどんな顔をすべきか分からず、また下を向いた。その反応にかすかに咲った柚葉は、急に飛季の腕を引っ張った。ついていくと路地裏に連れこまれ、飛季は彼女の目的を測りかねる。
「柚葉──」
「大丈夫だよ。あたしは身代わりに抱かれるなんて嫌だからね」
 飛季が言葉に詰まると、奥まったところに着いた。人いきれがなく寒い。息が白く色づき、柚葉のそれと交わって消えていく。
 飛季は上着の合わせを深くした。飛季と柚葉は、壁を背にして向かいあった。狭くて、軆が触れあいそうだ。
「あたし、ロウがまだ好きだよ」
 飛季はまごつく。そんなことを言い出す彼女の思うところが読めなかった。
「ミミには勝てなくても、あたしだってロウが好きなんだ」
「俺は──」
 柚葉は飛季を直視する。飛季は生唾を飲むと、努めて静かに答えた。
「俺は、実摘が好きだから。君には応えられない」
 柚葉はどこか寂しそうな、けれど、ほどけた微笑をした。ついで呼吸を整え、顔を引き締めると、なおもこちらを直視する。
「分かってる。あの子もロウを心底想ってる。あの最後に逢った日とか、その前に鉢合わせたときとか、本気で殺されると思った。あの子には、自分からあんたを盗むかもしれないあたしは、殺して当たり前だった。ミミにはロウが必要なんだよ」
 柚葉の茶髪や無駄のない肩は、震えていた。寒さのせいか、ほかのものなのか、飛季には分からなかった。
「あたしが言ったって、ミミが言うみたいにロウを動かせないのは分かってる。でも、見てられないんだよ。あんなことはやめてほしい」
「え……」
 唇を薄く開いただけで、驚きそうに息は白くこぼれる。
「少女荒らしだよ。あんたには合わないし、くだらない。ミミがいなくなって、おかしくなってるのは分かる。でも、おかしくなるほど好きなら、余計あんなの意味ないよ。ミミは、どこを捜したってミミにしかいない。ミミ以外の女に、ミミはいない。あの子はあの子。ロウ、ミミがそんな子だから好きになったんでしょ? 冷静になりなよ。あんたがそんなことしてるって知って、一番ショックなのはミミだよ?」
「………、でも、」
「ミミは帰ってくるよ。絶対帰ってくる」
「分からないよ」
「分かる。あたしは、あんたに嘘はつかない。だって好きだもん。嘘なんかつけないよ。だから信じてよ。ミミにはあんたが必要なんだ。帰ってくる。あんたは、いらない心配せずに待つの。もっとあの子を信じて」
 柚葉の瞳は真剣だった。飛季はうなだれた。息が詰まった。
 なぜこの子は、こんなに賢いのだろう。こんなに賢い子が、どうして自分などに惹かれているのだろう。
「あたしは、あんたとあの子のこと何にも知らない。ただ、あの子はあたしを殺そうとした。あの殺意で、ミミがあんたをどれだけ想ってるかは身をもって知ってる」
 そこまで言い切ると、柚葉は背にする壁にもたれた。彼女の息は、荒くなっていた。
 飛季は彼女の肩に手を乗せる。柚葉は上目をした。
「お節介かな」
 飛季はかぶりを振った。柚葉は肩を落とした。
「どうしたらいいのか、分かんなかった。あんなのはやめてほしくて。つっても、あたしじゃダメだし。バカみたい。あたし、ロウが好きなのに、綺麗ごと連発じゃん」
 笑った柚葉の肩を、飛季はさすった。「まあ、けっこうすっきりした」と柚葉はくすりとする。強がりではなさそうだ。飛季は手を引く。
「認めてるよ。あんたには、あの子なんだよね。あたしにもどこかにいるかな、そんな男。ロウも認めなよ。自分にはあの子だって」
 飛季はうなずいた。柚葉はあの明るい笑顔を見せ、軽やかに体重を脚に戻す。そして、瞳に飛季を映し、染みこませるように一回まばたきする。
 飛季は別れを察知した。柚葉は静かに言った。
「ロウと別れるときは、いつも覚悟してた。これが最後なんじゃないかって」
 彼女の瞳は凪ぎ、静止している。
「でも、いつも、また逢えた」
 見つめあうと、彼女は小さく深呼吸した。
「これで、本当に最後だよ」
 飛季は何か返そうと思った。うまい言葉が浮かばなかった。結局、うなずくだけになる。柚葉はにっこりすると、毅然ときびすを返す。振り向かず、通りの人混みに飲みこまれていった。
 彼女との別れ方は、いつもこうだった。
 これで最後。本当に最後。そうだ。飛季はもうここには来ない。実摘を待つ。
 自分はあの子を部屋で待っていなくてはならない。実摘のおうちはあの部屋だ。飛季は、実摘がいつ帰ってきても迎えられるようにしておかなくてはならない。いつだか、実摘がどこにいっても、自分はここで待っていると約束もしたではないか。
 飛季は、ふたりで暮らす部屋で実摘を信じているのが役目だ。精神が耐えられる自信があると言えば、虚勢になる。沈みこむだろうし、幻覚にもさいなまれるだろう。けれど、それに負けてこんなことをしていてもくだらない。
 柚葉の言う通りだ。飛季の中で実摘が実摘であるほど、誰かに実摘を求めることは意味がない。実摘は実摘だ。だから、飛季は実摘を愛した。実摘も飛季を愛した。飛季が実摘は実摘だと信じてあげなかったら、あの子の存在は壊滅してしまう。
 柚葉の名残は消えていた。代わりに、焼きつく実摘への想いが際立っている。
 実摘は帰ってくる。あの部屋で待っていよう。
 混濁していた心や脳が透いていくのを感じながら、飛季は帰り道へと踏み出した。

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