陽炎の柩-66

永遠の夢

 睫毛を上げると、妙に懐かしい天井があった。カーテンを漉された光がさらさらとしていて、きちんと閉め忘れているのか、その中央に強い光の筋が一本通り抜けている。
 実摘はまばたきをした。飛季の部屋だと分かるのに、何十秒かかかった。
 右に寝返りを打つと、ベッドサイドにもたれて床に座っている広い背中がある。実摘は身動きした。ベッドのきしみに振り返ったその人は、飛季だった。
「実摘」
 実摘は飛季を見つめ、変な感覚を覚えた。彼とずっと離れていた気がした。いつも一緒にいるのに。
「起きてたんだ」
 実摘はこくんとして、飛季の顔を凝視してしまう。何だろう。昨日の夜にも見ていた顔が、胸が痛みそうに懐かしい。
「何?」
 飛季は、実摘のまっすぐな視線に居心地悪そうに咲った。
 飛季だ、と思った。飛季だ。何だか知らないけれど、やっと逢えた、という所感が湧く。飛季と離れ離れになる夢でも見ていたのだろうか。
「飛季」
「ん」
「おはよう」
 飛季は口元をほころばせ、「おはよう」と返してくれる。実摘は、彼の首に抱きついた。
「どうかした」
「んー」
 彼の大きな手が、実摘の背中を撫でる。実摘は飛季の首筋に顔をすりつけ、飛季の匂いを嗅いだ。シャワーを浴びたのか、水の匂いがする。その下で、飛季自身の野性の匂いもする。実摘はこの匂いが好きだ。
「飛季、今日お休みなの」
 飛季は咲って実摘を抱き上げると、自分の脚にまたがせる。
「今日から冬休みだよ」
 実摘は瞳を輝かせた。
「ほんと」
「うん」
「ずっと一緒」
「一緒だよ」
 実摘は歓喜して、彼に抱きついた。
 冬休み。ついにやってきた。待ち侘びていた。がんばって耐えていた甲斐があった。これで、しばらく飛季をひとり占めできる。
 実摘は飛季の胸に顔を伏せる。
「あのね、飛季」
「うん」
「僕、怖い夢見てたの」
「怖い夢」
 顔を上げると、飛季は心配そうな瞳で額をさすってくれる。飛季の愛撫は心地よく、つい細目になる。
「どんなのか憶えてなくてもね、飛季とばらばらになる夢だったの」
「俺と」
「うん。離れ離れだよ。すごく怖いの。今起きて、飛季が懐かしかったの。飛季がいなかったら、僕、ダメだよ」
 飛季は実摘を抱きしめた。
「そんなの平気だよ」
「怖いの」
「怖くないよ。夢だし。きちんと俺は実摘といる。離れたりしない」
「飛季──」
「ずっと一緒だよ」
 実摘は飛季の背中に腕をまわすと、こっくりとした。飛季が髪に口づけてくれて、実摘はにこにこした。
「そうだ」
「ん」
「チョコレートケーキ食べようか」
 実摘は睫毛をぱちぱちとさせた。
「あるの」
「さっき買ってきたんだ。クリスマスだし」
「食べるの。おいしいの」
 飛季は実摘の頭をぽんぽんとすると、キッチンに行った。実摘は座卓につこうとして、にらを思い出す。
「にら」と呼びかけてふとんをめくった。にらはいなかった。実摘は眉を寄せる。
「飛季」
「何」
 飛季は冷蔵庫を開けている。
「にらがいないの」
「昨日、ベランダに乾してなかった?」
 そうだったろうか。記憶があやふやだ。まあ、飛季がそう言うのなら、そうなのだろう。こんな真冬に一晩じゅう放っておいたなんて不覚だ。寒かっただろう。雨は降らなかっただろうか。
 実摘はベランダに行った。そこは、カーテン越しにもぽかぽかと朝陽が満ちていた。午前中は、このベランダは暖かい。太陽に暖めてもらったほうが、にらも喜ぶだろうか。考えてみて、実摘はにらには日向ぼっこさせることにした。
 座卓に戻ると、チョコレートのデコレーションケーキがあった。実摘の希望通りホールだ。甘い匂いがしてして、実摘は瞳をきらきらとさせた。
「ふたりだけで食べれるかな」
「食べるもん」
 言い張った実摘に飛季は咲い、水切り場の包丁を取ってくる。
「実摘」
「うん」
「ケーキの前に、プレゼントがあるんだけど」
 実摘は喜色して顔を上げた。飛季は優しく微笑んでいた。
「プレゼント」
「俺、実摘とずっと一緒にいたいんだ」
「僕も」
「ほんとに」
「うん。いるの」
「じゃあ、ひとつになろう」
 実摘はまじろいだ。
「なれるの。なれるの」
「なれるよ」
「なりたい。なる。飛季とひとつ」
「だったら、ベッドに横になって」と飛季は言った。実摘は素直にそうした。飛季はベッドサイドの床にひざまずいた。
 ふたりは見つめあった。
「飛季。ひとつ」
「ずっと一緒だよ」
「うん」
「愛してる」
「僕も」
 飛季は笑んだ。見憶えのある笑みだった。飛季はしたことのない笑みだ。だが、実摘は不安にはならず、むしろ安らいでいった。
 そして、分かった。これが、あの夢の安らぎだと。
 そうか。ずっと一緒だ。永遠だ。飛季は僕を殺す──。
 包丁が陽光にきらめいた。飛季は微笑んでいた。実摘も微笑して目を閉じた。
 愛してる。
 飛季の言葉が全身に染みわたった瞬間、実摘は左胸の想像を絶する激痛にすべてを解き放った。

第六十七章へ

error: