Wish Dead【1】
先生が病院を閉じてしまう理由は、はっきりとは聞かされなかったけど、最後の診察で「僕がこんなことにならなければ」という言い方をしていたので、先生の身に何か起きたのだと思う。
どうしても治らない病気になったとか、そういう事情みたいだ。先生はいつも穏やかで、繊細なまでに僕を理解してくれた。だから、もしかしたら、最近は待ち時間が二時間くらいかかることもある、混み合うようになった患者ひとりひとりの話に耐えきれなくなったのではないかと僕は秘かに思った。
患者の鬱に取りこまれて、先生自身が鬱になってしまったとか。そうなっておかしくない、丁寧で優しい先生だったから。
最後の診察で、僕と姉は一緒に先生に挨拶した。姉は泣いていて、僕はまだ信じられなくて茫然としていた。「本当にごめんなさい」と先生は頭を下げていた。「おねえさんに頼まれていたものは、ちゃんと通ったので」と先生は言って、「月芽くんに最後にしてあげられることがあってよかったです」と哀しそうに咲った。
「もっとずっと、月芽のこと診てもらえると思ってました。先生がいなくなったら、この子……」
「ごめんなさい。近くの病院の紹介状は書きましたので」
「でも、先生ほど月芽のこと分かってくれる先生はきっといないです」
僕はうつむき、震えそうな手を握って、何を言えばいいのだろうと思った。「ありがとう」? 「さようなら」? 違う。何か違う。そんな言葉を吐けるほど、僕はまだ冷静じゃない。
先生に会えなくなるのだ。話を聞いてもらえなくなる。言葉もかけてもらえなくなる。いつまで? いつまでも? 先生とは今このときが最後なのか。別の病院に行けば診てもらえるならそこに行く。でも、先生は医業自体を辞めてしまうみたいだ。
「月芽くん」
僕は先生を見た。先生は微笑み、何か言おうとした。その前に僕は声を発していた。
「も……う、会えないんですか?」
先生は僕を見つめた。言ってほしかった。せめて、いつかまたどこか会えたらと。そう言ってもらわないと、最悪の事態まで含まれてしまう。でも、今日に限って先生は何の言葉もさしだしてくれなかった。ただ、壊れてしまいそうに微笑んだ。
そうして、僕は悟った。先生はもう壊れる寸前なのだ。軆なのか、心なのかは分からない。でも、先生はあと少しで壊れてしまう。僕や、たくさんの患者を、こんなにも急に見切るしかないほど、先生の時間は残されていないのだ。
僕の頬にも涙がつたってきた。先生に診てもらえない? 僕の話を聞いてもらえない? やっと信じられたのに。先生なら何でも話せるようになったのに。
先生がいなくなったら、僕はどうなるのだろう。またこの胸に沼を抱えていくのか。ようやく楽になってきたのに、またどろどろした感情に澱んでいくのか。怖い。そんなの怖い。先生がいなくなるなんて、そんなの怖くて、生きていけるか分からない──
僕と姉は涙を止められないまま、先生にお辞儀をして通い続けた診察室を出た。受付の人にも丁重に頭を下げた。そして病院を出て、姉は涙をまだこぼしながらも、「渡すものがあるから」と僕を近くのファミレスに連れていった。僕は鼻をすすって目をこする。何度も病院が入ったビルを振り返ってしまう。
そして、思う。そんな言葉を言う余裕はないと思ったけど、それでも、言えばよかった。「今まで本当にありがとうございました」と。
「月芽があの家に戻ることになったとき、先生に相談したの。どうやっても、あの子を家から離してあげることはできないんですかって」
涙をぬぐった姉がさしだしたのは、通帳だった。僕の名前が書いてある。
「私がお金を出せればいいんだけど、そんな余裕はやっぱりないし。そしたら、先生が月芽の将来のためにって、年金の手続きを進めてくれてたの」
「年金、って……」
「障害年金。来月からこの口座に支給されてくる。二ヶ月に一度ね。初回は、十八歳のときから今までのぶんまでも入ってくるから、金額もかなりあると思う」
「十八歳、から……手続き、してたの?」
「してなかったし、普通は申請したときから支給されるものだけど。先生がずいぶん頑張って、さかのぼったぶんまで出るようにしてくれたの」
僕は通帳を手に取った。残高は今は千円だった。開設したとき少し入れなくてはならなかったのだろう。僕は姉を見て、「最後に、って先生が言ってたこと?」と訊いた。姉はうなずき、「新しい病院が決まったら」と僕を見つめた。
「ここに入ってくるお金を足掛かりにして、家を出なさい。それで、底を尽くまでにゆっくり仕事も探してみよう」
「仕事……できるか、……分かんない」
「それでも、月芽はあの家を出たいでしょう?」
「……うん」
「ここに入ってくれるお金が、月芽を助けてくれるから。先生が月芽が生きていけるように頑張ってくれたの。だから、先生いなくなっちゃうけど、頑張ってみよう。あの家を出て生きていける道は、先生が作ってくれたから」
僕は通帳をもう一度見てから、どのくらい支給されるものなのか分からなかったが、こくりとうなずいた。姉は微笑んで、「夕ごはん食べていこう」とメニューを取って広げた。僕は通帳をリュックをしまって、「新しい病院はどこに行けばいいのかな」と訊いてみる。
「とりあえず、先生が紹介状書いてくれたところに行ってみよう。私が電話で予約できるか訊いてみる」
僕はまたうなずくと、ポテトグラタンを指さした。姉がボタンでウェイトレスを呼んで、注文を伝えてくれる。新しい病院か、と思った。
また一からすべてを話していかなくてはならないのだろうか。そう思うと憂鬱だったが、実際に心療内科を転院するのは、予想を超える苦痛をともなった。
しばらく、先生が紹介状を書いてくれた病院に通ってみた。でも、やっと病院の日だ、と診察日に思えるような救われる場所ではなかった。この医者に、先生とどういうつながりがあるのか分からない。大学の後輩だったりするのか、ただ近場の病院というだけなのか。
先生のように熱心に話を聞いてくれる医者ではなかった。何かがつらいと話せば、そのぶん薬を増やす。薬ばかりどんどん増えて、医者が僕を理解しているようには見えなかった。
通いはじめて半年も経たずにストレスは超過して、僕は医者に向かって切れてわめき散らしてしまった。ちゃんと話を聞いてるのか、分かろうとしてるのか、薬ばっかりじゃないか──春頃、この病院はダメだと思った。
その病院を切る前に、何のツテもなく、駅前の神経科に行ってみた。しかし待合室は老人であふれ、体温を測ったり血圧を測ったり、何か違うなと思った。神経科とは、精神的な神経ではなく、リウマチとかの身体的な神経のことなのか。
そう悟った時点で帰ればよかったのだ。でも医者の前に座らされてしまった。そしてそこの歳を取った医者のふんぞり返った座り方や尊大な口調、えらそうな診察に僕は一気に切れた。
「っるさいな、いらつくんだよっ! もう死んでやる、そこから飛び降りて死ぬからな!! てめえのせいで死ぬんだ、お前が僕を殺したんだっ!」
そう叫んだのと同時に診察室を飛び出して待合室も抜け、そこはロータリーの二階だったので、タクシーが待機している下に飛び降りようとした。姉がすぐ追いかけてきて、身を乗り出している僕を取り押さえた。その病院は、その一回きりだった。
年金はちゃんと支給されはじめていた。二ヶ月に一度。そして、さかのぼったぶんの支給が三百万くらいあった。
病院がなかなか定まらず、家を出るほうが先ではないかと思った。家さえ出れば、僕はきっと治るのだ。
でも姉が言うには、一年に一回医者に診断書を書いてもらい、さらにそれが審査を通過しないと、年金の支給は止まってしまうのだそうだ。だから、支給が始まった二月までには、ある程度僕を診てくれた病院に診断書を書いてもらわないといけない。それができないと、先生が残してくれた道をたどることもできなくなってしまう。
この先生なら信頼できると思えた医者に出逢えないまま、夏になって、秋になった。父はあの医院長先生からの言葉をもう忘れはじめて、また怒鳴り散らすようになっていた。それがうるさくて怖くて吐きそうで、お金があるので、僕は家を出て街をふらついたりするようになった。
相変わらずいちごとミルクの飴を舐めて、あの子はどうしてるかなあなんて考える。会いたいけど、会えるつながりもない。それなのに、ついあの駅におもむいて、コンビニの隣を通り抜けてビル街を無駄にふらついていた。あのビルの前にたどりついたとき、店には顔出せないな、と思って、ため息をついて壁にもたれた。
あの子がまだここで働いているかも分からない。なのに僕は、ときおりその場所であの美しいすがたを待ち伏せるようになった。ストーカーみたいだな、と自分でも感じて、恥ずかしくなって、それでやっとあきらめて帰る。なのに、また来てしまう。
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