Wish Dead【2】
それを繰り返していた初冬の日のことだった。うつむいてケータイをいじっていたら、すれちがってビルに入っていく人からふわりといい匂いがした。
甘い香り。僕ははっとして顔を上げ、僕なんか気にも留めずにエレベーターへと向かう華奢な背中を呼び止めた。
「紅……くんっ」
背中が立ち止まり、振り返ってくる。長い睫毛に縁取られた黒い瞳が僕を映し、細い首がかたむく。それから、「ああ!」と彼は声を上げてこちらに歩み戻ってきた。
「あのときの!」
「あ、うん。憶えててくれたんだ」
「まあね。何、やっぱりここで働くの?」
「え、いや。そういうのじゃないけど」
「近くに用事?」
「ん、と……まあ、そうかも」
君に会いたかったと言っていいのか分からない。ストーカーみたいだし、男同士でその理由はあるのかと思うし。
「そうなんだ。その用事って今から?」
「えと……いや、終わった」
「そっか。じゃあ俺、今から飯だから一緒に食べない?」
「え、いいの?」
「うん。ひとりで食べるの寂しいから」
そう言った紅は、コンクリートの中を抜けた冷たい風に上着を深く着こむ。
「いったん、店に報告してくるね。すぐ出てくる」
「分かった」
「あ、名前は?」
「月芽」
「ツキメ。俺も紅でいいよ。呼び捨て」
そう言って紅はにこっとすると、「待っててね」とビルの中に入っていってしまった。食事、だけなら買ったことにならないのだろうか。よく分からない。一応確認しよう。
というか、また会えた。もう会うことなんてないのかもなんて思ってきたけど、今から食事まで一緒にできる。
ビルの前で待ち伏せて、自分がストーカーに思えて、本当に我ながら気持ち悪いなと思っていたけど、紅のあっさりした対応でだいぶ楽になれた。僕を憶えてもいてくれた。印象が一方的ではなかったのが嬉しい。
「月芽。お待たせ」
肩をぽんとされて振り返ると、紅が僕を見上げていた。僕のほうが少し背が高いことに気づく。本当に、「かわいい男の子」だなと思う。並んで歩き出しながら、お金をはらうのか訊いてみると、紅は噴き出して「店に俺を注文したわけじゃないでしょ」と言う。
「なのに、勝手に金もらってたら、それ違反だから。しかもたかが飯で」
「そ、そうなんだ」
「こういう仕事には、結局就いてない?」
「無理っていうのは、あの日分かったから」
「そっか。ま、できないのめずらしくないから気にすることないよ」
「紅は──その、いきなりされて、大丈夫だったの?」
「うん。俺は喘ぎまくって感じた」
「……はあ」
「人それぞれだよね。何度も試して、慣れて、働く奴もいるし。痔でどうしても働けない奴もいるし」
紅はからからと笑って、僕はその綺麗な横顔を見て、紅は男を好きになるのだろうかと考える。すぐ軆が男を受け入れたということは、そうなのか。
僕は──男、なんて考えたこともなかったけど。ここまでまた会いたくて、会いに通って、そして会えて心が満たされるのは、志帆以来のように感じる。紅への気持ちは、志帆への気持ちと同じものなのか。
ということは、僕は紅に恋をしているのか? 僕は男と交わることができなかった。でも紅とのキスは嫌じゃなかった。紅なら、特別に許せるのだろうか。
紅は僕の視線に気づいて見上げてきて、にっこりとする。どうしよう。その笑顔にどきどきする。恋のような気がする。
紅が隣にいて軆が熱っぽい。いろいろ話してくれて嬉しい。肩が近づいて腕が触れると意識してしまう。ずっと会いたかった。あの飴の味が僕を支えてくれた。それだけで、もうこの気持ちの名前は充分ではないか。僕は紅に恋をしている。
その日、紅は僕と連絡先も交換してくれた。「俺、ひとりで飯食うのが嫌いだから」と紅はケータイを閉じながら僕を上目で見た。かわいい。
「また、一緒に飯食ってくれる?」
僕は何度もうなずいた。紅は晴れた表情で微笑んで、「じゃあまたねっ」とビル街のほうへと雑踏に紛れていった。
また、一緒に。また紅に会える。やばい。めちゃくちゃ嬉しい。紅のほうから誘ってくれたのが、もっと嬉しい。ずうずうしくて気持ち悪かったらと僕からはあまり何も言えなかった。でも、紅から僕とまた食事をしたいと言ってくれたのだ。
雲の上をふわふわ歩くように駅に向かい、電車で地元に帰宅した。帰宅しても頭の中は白昼夢のような柔らかな幸せに満たされていて、薬を飲んだら穏やかに眠れた。
その頃、僕は隣の駅の心療内科に通うようになってきていた。「ここなら合う」と思ったというよりは、「ここはマシかもしれない」と妥協したと言ったほうが近かったけれど。いい加減に病院を決めないと、診断書を書いてもらえない焦りもあった。秋の終わり頃、僕の話をひと通り聞いた医者は、「君はもっと大きな病院のほうがいい気がするなあ」と言った。
「うちではちょっと手に余るというかね……診てあげられない気がするんだけど」
「でも、いろんなとこ行って、もうここしかないから」
「先生じゃ分かってあげられないかもしれないよ」
「じゃあ、僕のこともう面倒見れないって思ったら、そう言ってください。そしたら別を探します。もうここしかないんです」
医者はため息をついて考え、僕の話を打ちこんだPCの画面を眺めた。もうこれ以上、初対面の相手に自分の詳細を語るのは疲れた。「お願いできませんか」と付き添う姉も言ってくれて、医者はようやく決心がついたように「分かりました」とうなずいた。
「なるべく努力しましょう。次の予約、いつにしますか」
そんなわけで、僕はやっと通院先を落ち着けることができた。だが、やっぱり違和感は残った。いや、初めは拝み倒して診察してもらえているのだから、そんなに気にかかることはなかったのだ。待ち時間に耐えきれなくて過呼吸を起こしたらベッドで休ませてもらえたり、むしろ印象も悪くなかった。
だが、次第にこの医者は、本当に心療に精通した医者なのかと疑心が芽生えてきた。
そう思いはじめた切っかけは、鬱診断だった。ネットによくある、誰がやっても結果は鬱症状になりそうなあれだ。年が明けた頃──ちょうど通院一ヶ月の頃、僕は診察前に別室でその鬱診断をさせられた。ケータイでやったこともあるが、これをやると僕はたいてい鬱指数八十パーセント前後になる。
それを見た医者は、「鬱だいぶ重いねえ」と結果をPCに打ちこんでいた。まさかあんなものを僕の症状の参考にはしないよなと思ったが、それから毎月、医者は月の初めにその診断で僕が何パーセントか測った。正直、冗談だろうと思った。こんなもので精神的な病を分かったふうにしているのか。
それから、僕が何かを話すたびに、やたらとその内容に病名をつけてきた。何とか症候群とか。何とか障害とか。名前をつけるのは勝手だが、名前が判明したら僕を理解したふうになって、その症状に対してどう対処したらいいかまではアドバイスしない。もしくは薬を出す。自己完結して、僕にはただその何とか症候群の解説をするだけなのだ。そんな解説はいらない。今それを体感しているから分かっている。そうじゃなくて、この症状をやわらげる方法を教えてほしいのに。
何かつらいな、と思いはじめていた頃、診断書を書いてもらう時期になった。「審査通るように重く書いておくから」と医者は言った。結果、僕は今年も年金を受給できることになったけど、何とも言えない罪悪感を感じてしまった。先生が頑張って僕に残してくれた年金。それを、「通るように重く書いておく」なんて言う医者が引き継いだなんて──何だか、哀しかった。
それからも、その医者との歯車は食い違っていくばかりだった。
「君の前に診た患者さんはね」とほかの患者の話を持ち出す。ほかの患者など知ったことではない。というか、僕のこともそんなふうに誰かに話しているのか?
あと、自分が知らないことを僕が口にすると、「それって何?」と解説を求めてくる。僕は診察を受けているのに、なぜ心のことに関係しない説明をしているのだ。うっかり最近読んだ本などを言ってしまうと、自分も知っていると嬉々と語りはじめる。最悪な日などは、自分の妻や息子の話をしてくる。
何なのだ。お前のプライベートで、僕の何が癒されるのだ。知ったことではないと分からないのか。僕は、このいらいらをほどいてもらおうと、金をはらって、話を聞いてもらおうとしているのに。この医者は、自分のことばっかりではないか。
「何でも前向きに考えないとね! 明るい方向に考えたら、自然と毎日も輝いてくるよ。落ちこみそうなときほど、ポジティヴに! 頑張っていれば、生きているのも悪くなくなっ──
何だよこいつ。
ダメな心療内科医の見本じゃねえか。
【第十八章へ】