アスタリスク-19

Wish Live【1】

 救急車の中に運び込まれて、また死ねなかったのかと思った。
「大丈夫ですか」とか「名前を言えますか」とか言われても黙っていた。昏睡していると思われてみぞおちを突かれても応えなかった。「薬物かもしれない」とか聞こえたとき、前にも自殺未遂で搬送された子じゃないかと野次馬の中から声がかかった。
 ああ、くそっ。普段関わりもしないのに、そんなことは憶えていて口を出してくる。
「どこの家か分かりますか」と救急隊員がその声に駆け寄りかけたので、僕はかすかな声で姉の住所をつぶやいた。家に行かれたら、父がまたごたごたうるさい。さいわい、野次馬より僕本人の言葉を救急隊員は信じ、そこは早めに引き上げて僕を外科の病院に搬送した。
 どうにか連絡が伝わったようで、姉がそこに駆けつけた。でたらめに腕全体を長く切ったり深く切ったりしていたから、百針以上縫った。縫われながらやっと意識がはっきりしてきて、僕はその針で傷をえぐって殺してくれと泣いた。
「これは君を助けるためのものだからね、それはできないよ」
 僕はぼろぼろと涙を落とし、なぜ自分は死ねないのか嘆いた。僕の腕を縫いながら、その医者は相槌を打って話を聞いてくれた。その考え方は何症候群だとか、そんなふうに考えずに明るくだとか、話をさえぎられて言われたりしない。ただ僕から毒素を吐かせてくれた。少し心が落ち着いたような気がした。
 ひと晩泊まることになって、付き添うことになった姉が「またあいつ?」と僕の手を握った。僕は姉を見て、弱く咲うと、「失恋した」と言った。すると、少し驚いてから姉も小さく咲って、「つらかったね」と僕の頭を撫でた。
「家は平気?」
「……また、怒鳴ってるのが増えてきた」
「そっか。おかあさんもそう言ってた」
「あんまり、夜は家にいないようにしてる」
「どこに行ってるの?」
「分からない。適当に電車降りたとこでふらふらしてる」
「そんなことするなら、私の部屋に来なさい」
「……ん」
「明日、いつもの病院にちゃんと話しにいきなさいって、手術してくれた先生が言ってた。私、明日仕事休むから──」
「………、嫌だ」
「え」
「もうあの病院、行きたくない」
「でも、病院は行かないと」
「あの医者と話すのつらい。先生と違う。先生と話したいよ」
「……私も、先生に月芽のこと診てほしい。けどね、」
 そのとき、しゃっとカーテンが開いて「またやっちゃったらしいね」と言いながら、若い男の医者が顔を出した。僕はどこの誰なのか分からなかったが、姉は憶えていた様子で「ご無沙汰してます」と頭を下げた。手術や消毒や抜糸、あちこちの外科で手当てされてきたので、僕は本当にいつお世話になった医者か分からない。
 その医者は僕を覗きこんでから、姉に目を移した。
「本人が行きたくないって言ってる病院に、無理に連れていくことはないよ」
「えっ、……でも、報告しておかないといけないですし。あ、私が代理で行けばいいんでしょうか」
「いや、ちゃんと病院には行ったほうがいいけどね。別の候補の病院はないのかな?」
「近くの病院は、先生とあんまり合わなかったり、予約がいっぱいだったりして、なかなかむずかしくて」
「そう。僕が抜糸したのは、首の傷だったけど。あのとき、精神科から退院したって言ってたよね」
「あ、はい。医院長先生が理解してくださって」
「そう。じゃあ、その医院長の診察ならどうだろう?」
 姉は少し考えて、「どうかな、月芽」と訊いてきた。僕はぼんやり天井を眺めながらも、話は聞いていた。
 精神科に入院したとき。医院長先生。……あの先生か。
「また……僕の話、聞いてもらえるの?」
「聞いてもらえる──でしょうか?」
「聞いてほしいと思える先生に聞いてもらうのが一番だよ。僕からその病院に連絡を入れておくから、明日はそこに行ってごらん。医院長なら、すぐつかまるかはちょっと分からないけどね」
「あ、ありがとうございます」
「いやいや。弟さん、すごくデリケートだからね。たぶん、話ができればいいってもんじゃないだろうと思って」
 その医者が去ってしまうと、「そっか」と姉はつぶやいて、「医院長先生なら頼れるよね」と僕の手を握り直した。
「あの病院、ちょっと遠くになっちゃうから考えなかった。ごめん、私が初めから連れていってればよかったね」
「……ううん」
「明日、あの病院なら行けそう?」
「うん……嫌ではない」
「よかった。じゃあ、あの病院に行こう。あの医院長先生なら、また月芽のこと分かってくれるよ」
 僕は小さくこくんとして、あの自分本位の医者でなく、僕を理解してくれると信頼できる人に話せることにひどくほっとした。そしてそれだけ、あの心療内科が僕のストレスになっていたかを感じた。
 話ができればいいというものではない──さっきの医者の言葉が心に名残る。そう、きっとそうなのだ。吐き出せればいいわけじゃない。それを確かに受け止め、受け入れて言動を発してくれる人に話したい。
 話ができればいいだけなら、キャバクラと同じだ。こちらの話をさえぎったり、交わした会話でなく知識で意見したり、あの医者の対応はキャバ嬢以下だった。
 翌日、病院から病院へ、姉と共にタクシーで移動した。初診で受付をしたとき、医院長先生が僕をちゃんと憶えていてくれて、すでに対応してくれていることを受付の人に聞いた。残念ながら、多忙な医院長先生が話を聞いてくれることはむずかしいそうだ。が、医院長先生が直接指名した先生が話を聞いてくれるらしい。
「それでいい?」と姉に心配されたが、医院長先生が任せようと思ってくれた先生ならと僕はうなずいた。僕は受付番号の紙をもらうと、診察室へのドアがたくさん並ぶ待合室へと案内されて、「番号を呼ばれたら、ここに書いてる番号の診察室に入ってくださいね」と説明された。僕が入る診察室は五番らしい。
 僕と姉は、たくさん並び、たくさんの人が腰かける椅子の隅っこに腰かけた。僕は受付用紙を眺め、医院長先生から指名された先生なら、ある程度僕の家庭のことは知っているのだろうかとか考えた。
 だいぶん待ったと思う。ちょっとそわそわしかけていたとき、番号を呼ばれて、僕は姉と一緒に『第5診察室』とプレートのある診察室のドアを開けた。
「こんにちは」
 中にいた白衣を着た先生にそう言われて、視線をどこにやったらいいのか分からずうつむいたまま、「こんにちは」とは何とか返した。姉も「初めまして」と頭を下げ、僕を椅子へとうながす。僕は腰を下ろすと、ちょっと上目をしたものの、すぐ目を伏せてしまう。
「前に、ここに入院してたんですね」
 僕は黙ってうなずいた。
「少し話は伺いましたが、今回もおうちの中で何かあったんでしょうか」
「………、少し、違う、けど」
「違う」
「でも、家の中はあんまり変わってない、です。それがつらくて、夜は街をふらふらして──ずっと引きこもりだったけど、今は年金でお金が出るから。電車代とかあるし、家に閉じこもって父親の声聞いてるより、外がよくて。それで、たまに……一緒に、ごはんとか食べてた友達がいて」
「はい」
「その子……が、僕は、好きだったけど。でも、その子は同棲してる相手がいて、僕とか相手として考えてなくて。何か、生きてるのが分からなくなった……というか」
 僕がゆっくり吐きはじめた話を、先生はPCに打ちこんでいく。口を開けたのに乗じ、幼い頃から今までのことを、だんだん駆け足になっていくように話した。思い出すとつらいこともあったけど、そのたびつっかえたりもしたけど、息切れしてでも走るみたいに話した。
 父のこと。母のこと。不登校、引きこもり、水商売と志帆、受からない面接と続かない仕事、ひとり暮らし、前の先生、自殺未遂と自傷行為と希死念慮──。
 寡黙な先生だった。割りこむように話をさえぎることはなく、淡々と相槌を打ち、僕がひと息ついたときに冷静な短いひと言を述べる。「もし」と僕は少し声を潤ませながら言う。
「今、ここに好きな子がいたら、それでいいんです。それで僕は生きていこうと思えるのに。前の好きな人もそうだった。そばにいてほしい人がそばにいてくれない。だから僕は死のうってすぐ考える。好きな人ができて生きていけそうになっても、どうせダメなんです。僕はどうやっても死ぬようになってる。誰も僕の隣にいてくれない」
 姉は黙って僕の話を一緒に聞いている。僕が言葉を切ったのを見て、「そこまで」と先生は言う。
「思いつめなくていいと思いますよ。出逢いはこれからも何度もあるものですから」
「新しく誰かを好きになるのが怖いんです。何回失恋したらいいのか分からないじゃないですか。やっと……あの子を好きになれたのに。またダメだった。あの子がここにいればいいのに。それだけでいいのに」
 ごねるように言うと、「でも、ここに呼ぶことはできませんから」と先生はやはり冷静に言う。「……そうですよね」と僕はちょっと恥ずかしくなって息をつく。
「たぶん、もしほんとに来られても、ヒカれるだけですよね。分かってます。僕はただ、ひとりで生きていけないんです。働けないし、親の金で暮らしてるし、人とうまくいかないと死のうとするし。ひとりで生きていける力が欲しい。ねえさんみたいに、せめてひとり暮らしでもしたい。でも、きっと今のままじゃまた貯金が尽きて家に戻るだけなんです」
 そこまで言って、僕はようやく口をつぐんだ。姉は僕を見て、軽く背中を撫でてくれた。先生は打ちこんだ僕の話の画面をじっと眺めて考え、「おねえさん」と姉に向かって口を開いた。
「あ、はい」
「少し、弟さんとふたりで話してもいいですか」
「えっ、あ──大丈夫?」
 僕はこくんとした。不思議と不安はなかった。あんなに冗長でみっともない話を、この先生は最後まで聞いてくれた。冷静な意見を言うときが、ちょっと怖いような温度差に感じるときもあるけど、無駄に捏ねまわした言葉を言う医者より正直なのだと思う。
「失礼します」と姉が診察室を出ていくと、先生は僕のほうを向いた。

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