EPILEPSY【2】
「お前がいつだって歌いたくないのは知ってるよ。そんなことは訊いてないんだ。歌いたいかじゃない。歌えるかだ」
梨羽さんは顔を上げない。
「歌えるんだったら歌え。お前には癪でも、お前の悲鳴で安らぐ奴もいるんだよ」
梨羽さんは眉をゆがめて、かぶりを振った。さっきまで無反応だったぶん激しく映った。「はいはい」と要さんはそれをなだめ、腰をかがめて梨羽さんを覗きこむ。
「それでいいんだ。客なんか気にするな。お前の客は、そんなお前を分かってる酔狂なんだ。俺たちの音に集中しろ。だったら歌えるか」
梨羽さんは、要さんを見た。要さんは梨羽さんの瞳を瞳に受けた。梨羽さんは睫毛を伏せがちにして考え、かすかにうなずいた。
「よし」と要さんは微笑み、梨羽さんの頭をぽんとする。ちょうど車の奥に行っていた葉月さんが、「どう?」と車を飛び降りる。「いけるってさ」と要さんが返すと、「そお」と葉月さんは梨羽さんに目をやる。
「梨羽」
ヘッドホンを戻そうとしていた梨羽さんは、葉月さんを向く。葉月さんは笑いを含んだ声で言った。
「ひとりも、客、来ないかもよ」
梨羽さんは無言で葉月さんを見つめた。葉月さんは高笑いして、かきだした荷物を背負う。要さんはあきれた息をつき、梨羽さんにヘッドホンをかけなおしてやると荷物持ちに加わった。梨羽さんはしばし地面にうなだれていたけど、要さんのあとを追った。
四人が荷物を抱えると、本当は抱き上げておいたほうがいいという悠紗は、僕が手をつないだ。背中に背負うのはできそうでも、前に抱えるのは要領がいりそうだし、肩に引っかけるのはできない。帰りはおぶるかなあ、と四人に後続しながら、高い天を仰いだ。
ライヴハウスの裏口はすぐそこだった。路地を奥に進むと裏道に出て、そこに目立たない扉がある。そこがそうだった。
なじみで顔見知りが多い、というのは本当のようだった。逢う人逢う人、要さんと葉月さんは愛想を振りまき、みんなそれに親しく応えている。新顔の僕について質問する人が多いのも、顔を憶えられているのを物語っている。その質問にはふたりは、「聖樹の子供だよ」とずいぶん無理のある答えを押し通していた。
途中、色つき眼鏡をかけて長髪を後ろにたばねた、三十代半ばぐらいの男の人が合流した。その人には、僕はきちんと紹介された──聖樹さんの子供、というのは同じでも。
「一応、ここで一番えらいんだよ」と葉月さんが言うと、「一応って何だよ」とその人は葉月さんをはたいた。須崎さんというその人が、例のXENONの背景や精神面に興味を持った人なのだという。須崎さんは僕を興味深そうに眺めると、「お見知り置きを」とにやりとした。確かに、要さんや葉月さんと何かしら合いそうだ。
地下の左右にドアが並ぶ廊下に出ると、その中のひとつの右側のドアの前で須崎さんが鍵を取りだした。慣れた手つきでドアは開けられ、僕たちは中に入る。
思ったよりさっぱりした、広さもある部屋だった。左手には鏡が張られて台と椅子がならび、右にはロッカーがある。むこう側にはハンガーかけや予備の椅子、紙が貼られた掲示板などがある。中央には椅子にかこまれたテーブルがあり、灰皿や筆記用具が投げ出されていた。
時計の秒針の音がかすかにして、きょろきょろすると鏡の上のほうに位置していた。
「えらい綺麗になったじゃん。これ、割れてなかった?」
葉月さんは鏡を軽くたたき、須崎さんに言う。
「XENON様が帰ってくるのに、小汚いままにしておけるかっていうのもあるし、こないだ改装したのもある。ひどかっただろ。投げつけたコーヒーの染みだの、蹴ったあとだの。ライヴうまくいかなかったからって、俺の商売道具に当たりやがって」
「心機一転でつぶしはしなかったのね」
「余計なお世話だよ」
ふたりは声を合わせて笑い、要さんは掲示板に貼り出された紙を眺めている。梨羽さんと紫苑さんはさっさと荷物をおろして、悠紗は僕をスツールに引っ張った。
「今回は聖樹くんは来てないんだな」
「明日は来るんじゃない」
「来るって言ってたよ」
悠紗が言うと、須崎さんは悠紗に目を向けた。「でかくなったなあ」としみじみとつぶやいている。
「うちのも気づいたら中学生だぜ」
「ユリナちゃん」
「色気づいてきてな。要みたいのが好みなんて、父親って寂しいよ」
「何でだよ」と要さんが振り向く。葉月さんはげらげらとして、鏡にピンナップをセロテープで貼りつけた。「三日間はこれが俺の天使」と言っている。梨羽さんは落ち着きなく荷物をごそごそして、紫苑さんは無表情に壁にもたれている。
要さんがテーブルに荷物を置いてそばに来ると、三人の話はライヴに関する専門的なものになった。
椅子によじのぼった悠紗は、テーブルに持ってきたものを並べる。ゲーム機、攻略本、勉強道具。僕も悠紗の隣に腰かけた。
本番までそうしたものでヒマをつぶす第三者の僕たちとは逆に、みんなはいそがしくなってくる。「貸切だからゆっくりしてな」と要さんは悠紗と僕に残し、須崎さんと葉月さん、梨羽さんと紫苑さんも呼んで荷物と部屋を出ていった。
紫苑さんは出ていき際、さりげなく僕たちのそばにあのギターを置いて、別のギターを背負っていった。
残された悠紗と僕は、思わず顔を見交わす。
「二十時に始まるんだよね」
「うん」
「その、リハーサルっていうのは見ないの」
「かんけーしゃいがい、何とかって」
立入禁止だなと胸のうちで続ける。
「悠紗もなんだ」
「うん。おとうさんはどっちでもいいの。梨羽くんが心配で行くときもあるけど、僕といるときもあるよ」
「聖樹さんって、いつも金曜日は来ないの」
「んー、仕事休むときもあるよ」
「来なかったら、悠紗はここでひとり」
「保育園にいたよ。で、帰ってきたおとうさんか、沙霧くんに夕方に連れてきてもらうの。おとうさんが疲れてて、行かないときもあったよ」
「そっか」と僕はうなずき、攻略本をぱらぱらとする。そういえば、沙霧さんも保護者代わりに来たことがあると言っていた。
「沙霧くんは、あんまりここに来たがらないんだよね」
「え、そうなの」
「うん。ここ、おとうさんとおかあさんが逢ったとこだもん」
悠紗を向いた。悠紗は携帯ゲーム機の電源を入れている。
「梨羽くんたちじゃなくて、ほかのバンドを観におかあさん来てたんだ。それでおとうさんと逢ったの」
「そう、なんだ」
「沙霧くんはおかあさんが嫌いでしょ。思い出しちゃうんだね」
「………、悠紗は、おかあさんをどう思ってる?」
「えー」と悠紗は僕を仰ぎ、むずかしそうに首を傾ける。
「分かんない。憶えてないもん」
「あ、そっか。ごめん」
「ううん。おとうさんよりは好きじゃないよ。憶えてはなくても、僕とおとうさん捨てたのはほんとでしょ」
「そっか、………」
本をめくって数秒うつむき、「僕もね」と無意識にこぼしていた。
「おかあさんに捨てられたんだよ」
「えっ」
「僕が九歳のときに、ほかの男の人と出ていっちゃったんだ」
悠紗は面食らい、「そうなの」とかろうじて言った。
「えと、じゃ、おとうさんは」
「おとうさん、は、僕が好きじゃなかった。お酒飲んで、ひどいことしかしなかった」
悠紗はまばたきをし、ついで心配そうな瞳になった。小さな手が僕の腕に触れる。僕は悠紗に微笑み、「ごめんね」と言った。悠紗は首を振った。
「おうち、苦しいって言ってたもんね」
「……うん」
「でも、もうそこ、萌梨くんのおうちじゃないよ。萌梨くんのおうちは、僕たちのとこだもん」
悠紗を見た。悠紗は得意そうに咲い、「そうでしょ」と言う。うなずく勇気はなくても、やっぱり嬉しくて僕は咲った。
そうして聖樹さんや沙霧さん、XENONに関する雑談をして、僕たちは読書やゲームでヒマをつぶした。
ときどき人が出入りしても、XENONのメンバーではなかった。悠紗は興味もなさそうに無視している。許してない人にはこうなんだよなあと、初めてこの目で気に入らない人に対する悠紗を見たのに気づく。
【第六十八章へ】