EPILEPSY【3】
音が聞こえたりはしても、あの四人が演奏している実感はなかった。十七時過ぎに、「要さんから」とコンビニのふくろに入った軽食がさしこまれた。ちょうど何かつまみたかった僕たちは、甘えてそれを食べた。
「聖樹さん、仕事終わってひとりで来たりしないかな」
「んー、それはあんまりないよ。おうちで休んでる」
「そう」と僕はハムのサンドイッチを食べる。
聖樹さんは今夜、部屋にひとりになるのだ。大丈夫だろうか。僕は先日の永らく涙が止まらなかった夜を想い、聖樹さんの鬱が静穏を突き破ってくるのも遠くないのではないかと案じた。
あの夜──堕ちた聖樹さんに僕が踏みこんだ夜は、一週間前だ。どういう基準で精神的伏在が肉体的表出になるのか分からなくても、ひとりでいるのが危険なのは言える。
どこかで電話してみようかと思っても、それで聖樹さんが落ちこむのを思い出したりするのもいけない。無事を祈るほかなさそうだ。
コンビニのふくろには、クロスワードの雑誌も入っていた。「遊べってことじゃない?」と悠紗が推測して、悠紗がゲームをするかたわら、僕はそれをしたりした。
遊んでいると時間が経つのも早い。十九時過ぎに、「ただいまーっ」とドアが開いて四人が帰ってきた。悠紗と僕は、同時に顔を上げる。
みんな、汗をかいたり表情が険しかったりした。悠紗と僕を見ると、要さんと葉月さんはいつもの笑みを浮かべる。紫苑さんはギターをさらって奥の椅子に行った。梨羽さんは要さんに支えられていた。息遣いが荒っぽく、僕の隣の椅子に座らされる。
「終わったの?」
悠紗はゲームの電源を切り、要さんたちを仰ぎ見る。
「ああ。いや、着替えなきゃ。このままじゃな」
「荷物どこ。あれか」
「あとは本番待ちだよ。客入ってんじゃないか」
お客さん来ちゃったのか、と梨羽さんを見る。梨羽さんはヘッドホンをしていなくて、リュックは要さんが持っていた。要さんはテーブルにリュックを置き、奥の荷物のところに行った葉月さんを追いかける。
梨羽さんはテーブルに伏せり、濡れた髪を電燈に艶めかせている。紫苑さんはギターの調律を確かめていた。
着替えるといっても、特に衣装と呼べるものではなく、シャツにジーンズ、脱いだものと大差なかった。押しつけられた紫苑さんも億劫そうに着替え、梨羽さんはなかば手伝われながら着替える。
梨羽さんの瞳は、完全に外界を捕らえておらず、死んでいた。要さんは梨羽さんの髪を拭き、葉月さんもあやしたりしている。ふたりが構っているので、紫苑さんはギターを抱きかかえていた。
梨羽さんの世話が終わると、葉月さんはピンナップを観賞し、要さんも鏡の前に座って煙草をふかし、持参したポルノ雑誌をめくる。あのふたりには、ポルノが精神安定剤であるらしい。「これ貼らない?」と要さんはページを破って葉月さんに突き出す。「芸術的」と葉月さんは剥き出しに縛られた女の人の写真を鏡に貼った。僕には永遠に分かりそうもない芸術だ。
悠紗はそれを眺め、よく分からない顔をしていた。「悠紗は見なくていいよ」と僕が言うと、「おとうさんもそう言う」とおとなしく攻略本を読む。僕は至近距離でおののく梨羽さんに、軆にしろ心にしろ、ステージに立って持つのかという心配をぬぐえずにいた。
二十時になる直前、女の人がXENONを呼びにやってきた。梨羽さんを除いた三人はさっと立ち上がる。悠紗も荷物をかきあつめ、椅子を飛び降りてリュックを背負った。僕も立ち上がろうとしたけど、動かない梨羽さんに視線を止めた。
「梨羽ちゃん」と葉月さんが梨羽さんを丁重に立ち上がらせる。そして煙草をすりつぶしてきた要さんが、怯える梨羽さんを覗きこむ。
「歌えるか」
その問いに、梨羽さんの呼吸は嗚咽のように痙攣した。が、躊躇はせずにぎこちなくうなずいた。要さんは梨羽さんの肩をたたくと、僕と悠紗にもついてくるのをうながす。
紫苑さんは無言で僕にギターを押しつけた。どぎまぎしつつ僕が受け取ると、紫苑さんは黙して廊下に出る。
僕はギターを抱き直し、悠紗と並んで楽屋を出た。葉月さんが梨羽さんの背中を押し、要さんが明かりを消す。
梨羽さんは、何十秒か壁にもたれて呼吸を整えた。顔色は最悪だった。悪魔。本当にそうなのかもしれない。梨羽さんは軆の中に、歌うための悪魔を取りこんでいっているみたいだ。
廊下の突き当たりにいくあいだにも、ざわめきは届いてきていた。「商売繁盛だねえ」と葉月さんは愉しげで、紫苑さんの無表情は破られず、要さんは観衆が鬱陶しそうに息をつく。
梨羽さんだけが過剰反応を起こしていた。膝は小刻みで、呼吸は苦しげだ。けれど、何とか自分の足で歩いている。突き当たりに行くと、すぐ右にステージへの数段の階段があった。
暗い中で照明が楽器を照らしているのが見える。本物だ、と僕は素人感覚で息をつめ、無意識に紫苑さんのギターを抱きしめた。
「いってきます」と葉月さんが軽快に階段をのぼり、歓声がした。紫苑さんはこちらに一瞥くれて、冷静に階段をのぼる。「疲れたら階段にでも座れよな」と要さんもステージに上がって、のぼり口には梨羽さんが残った。
梨羽さんは、階段ですくんでいた。おろおろして、今にも背を向けて逃げ出しそうで、不安そうにこちらを向いた。悠紗は僕にまといついていた。梨羽さんと僕の瞳がぶつかる。
よく分からなかった。僕はとっさに、「ここで最後まで聴いてます」と言った。すると、梨羽さんはなぜか些少ながら不安をといてくれて、心許なく何度かうなずいた。そして、崩れそうな脚で階段をのぼっていく。
こちらがすくみそうな、ひと際すごい狂喜の歓声がした。「梨羽ーっ!」という絶叫も上がった。
梨羽さんがへたりこんでしまわないか心配で、僕は悠紗と身をかがめてステージが覗けるところまで上がった。一番こちらに要さんがいた。向こうに紫苑さん、後ろに葉月さん、前に梨羽さんだ。
梨羽さんがマイクの正面に立ったところだった。熱気を映じ出すような赤紫の照明の下で楽器を構える三人、マイクの前に立つ梨羽さんは、ようやく音楽と暮らす人たちに見えた。
梨羽さんはマイクに触れた。挨拶するのかと思ったけれど、そうではなかった。梨羽さんは壊れそうな息を吐いて目を閉じた。
その後ろで三人が素早い目配せをし、葉月さんがリズムを取りはじめる。それに要さんのベースが絡まり、梨羽さんは息を吸ってささやくような声を発した。僕は初めて、梨羽さんの声を生で聴いた。
頭が真っ暗
息ができない
手足はばたつき
喉元が泡を吹いて
震えが止まらない
俺の中に悪魔がいる
こんなのは俺じゃない
助けを求める叫びだけ
虚しくこだまで消えていって……
梨羽さんは目を開いた。途端、紫苑さんのギターが強烈なゆがみで空気をねじった。同時に葉月さんのリズムが複雑な楽器になって、要さんの深いうねりがはっきりと音の根底に響き渡る。
振動が階段にも伝わってきた。短い間奏のあと、梨羽さんの人格は違っていた。今そこで足踏みしていた梨羽さんではない。マイクスタンドに取りつく様は痛ましくも、声や喉や言葉を鮮烈な暴力とし、ただでさえ激しい音にもたやすく君臨する悲鳴じみた歌声を繰り出した。
一曲目は“EPILEPSY”で、休みなく二曲目に入った。“MADHOUSE”だ。終盤の展開がアレンジされ、梨羽さんははしつこく“殺戮パーティ”の描写を歌った。
クラッカーには銃を
カクテルには流血と唾を
ショウには逆さ吊りの腹裂き死体を
ディナーにははらわたを
ダンスのレディにはゾンビを
BGMにはパンクなレクイエムを
正常な奴らにはナイフを
腐り爛れた者には十字架を
そして俺には頭をぶちぬくピストルを
それは正常に歌い終えた。
三曲目、四曲目、トークは入れずに梨羽さんは歌った。ほかの三人もそれに合わせた。
息継ぎや水分補給の曲と曲のわずかな合間に、観客は歓喜を顕示する。
中盤にさしかかった頃、梨羽さんの頭は完全に“切れて”きた。
いいのか
このまま
俺はやばい奴なんだぜ
やってやろうか
この牙で咬み裂いて
俺の組織は死肉になるんだ
なあ
そうしたいんだよ
俺を隔離しろ
近寄るのが怖いのか
構わないって言ってるだろ
そうだ
さあ来いよ
お前はこの牙が見えねえ間抜けだ!
梨羽さんは昂揚と恐怖が綯交ぜになった笑い声をあげた。狂った笑いだった。
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