二日目
“EPILEPSY”二日目の十四日の土曜日、聖樹さんの同行が実現した。
梨羽さんは今日も、というかいっそう頬や手の甲を蒼白にさせて、軆の端々を震えさせている。聖樹さんがいるからといって、変調はやわらぐものでもないようだ。
悠紗を僕に預けた聖樹さんは、梨羽さんの状態に何とも言えない息をついている。「俺たちには手に負えん」という要さんの言葉を、今回ばかりは受け入れるほかなさそうだった。
車に乗りこむと、聖樹さんは昨日僕がいた梨羽さんの隣に座った。僕が悠紗を膝に乗せて聖樹さんの正面に座った以外、みんな座席は昨日と同じだ。
行きしなの車の中、特に聖樹さんは梨羽さんをなぐさめたりしていなかった。上目をされれば、おっとり微笑むだけだ。何をされたって効かないようだった梨羽さんの怯えた内閉は、なぜかそれでささやかながら溶けていた。梨羽さんが一瞥してくるとき以外は、聖樹さんは要さんと葉月さんと軽めのやりとりをしていた。
何なんだろ、と僕は悠紗がやるゲームの画面を見つめた。聖樹さんと梨羽さんには、何か名状しがたい疎通があるのか。いや、名状しがたい疎通なら、メンバーとのほうに感じる。
疎通というより、どうも聖樹さんは梨羽さんの“なぜか”をつかみとれるのだ。なぜか、梨羽さんの硬直した心を慰撫する言動を。なぜそこでそうなのか分からない聖樹さんの言葉で、梨羽さんは安堵するときがある。大丈夫とか、何もないとか──聖樹さんが穏やかだと、梨羽さんも落ち着くのか。何で。要が分からないだけに、ふたりのあいだは何やら霊妙にも感じられてしまう。
ライヴハウスでは、悠紗には僕が付き添うということで、聖樹さんはリハーサルに連れていかれた。梨羽さんの精神を神がかってなだめられる聖樹さんは、立派な関係者だ。楽屋に置いていかれた悠紗と僕は、ヒマつぶしに興じた。悠紗はゲームをしたり勉強をしたり、僕は昨日のパズル雑誌のロジックやスケルトンをする。聖樹さんが昨日買ってきてくれたお菓子を食べたりもした。
ところで、昨日は聖樹さんは悪いものには取りつかれなかったようだ。帰ってきたときは仕事をしていたし、僕が物言いたげにすると何の影もない澄んだ笑顔をした。
僕はあえて独断し、突っ込んだ深追いはしなかった。本当に大丈夫だったか、突きつめて話しすぎてあとで頭を離れなくなったら逆効果だ。
梨羽さんのそれとは違うと思うけど、僕も聖樹さんが穏やかでいてくれるとほっとする。
二日目のライヴも壮絶だった。ステージにあがるとき、梨羽さんはまたもや逡巡し、「ここで待ってるよ」と聖樹さんに言われてやっと階段をのぼっていた。
ここで待っている。僕が昨日言った、『最後まで聴いている』とつながる意味は近い。梨羽さんは、袖に見守る人がいるとマシなのだろうか。
僕は息をうずめ、マイクにすがって喉を酷使する梨羽さんを見つめていた。他の三人も見ようとは思っても、梨羽さんが凄絶で気を取られてしまう。確かに梨羽さんは、三人を従える王様だった。昨日なかった曲を織り混ぜながら、長い休息は取らずに絶叫して歌い、今日は憎悪さえ向けず、梨羽さんは客席を完全無視してステージを降りてきた。
そして、脇目も振らずにトイレに直行する。聖樹さんはそちらを一瞥したものの、追いかけはしなかった。昨日の葉月さんの話は、さすがの聖樹さんにも通用するのか。
同じく観客を黙殺してきた紫苑さんに、聖樹さんはギターを返す。紫苑さんは行ってしまい、最後に、梨羽さんと紫苑さんのぶんまで愛想を振りまいてきた要さんと葉月さんを僕たちは迎えた。
「感想は?」
問うてきた要さんに、聖樹さんは視線を上げる。
「相変わらずだね」
「褒めてんのかよ」
聖樹さんは咲って、「変わってなくてよかった」と言い直した。僕たちは廊下を歩き出し、聖樹さんは梨羽さんの精神の危険を案じる。
「ま、来てるよな」
「けど、あれくらいの梨羽ってマシだし」
え、と悠紗の手を引いていた僕は三人の会話に顔を上げる。
「マシ、ね」
「ちゃんと歌えてるしさ」
「ここに来る前の奴では、目え剥いて終盤はほとんど悲鳴で済ましてたぜ」
「……言ってたね。でも、すごかったな。音も厚くなってない?」
「徐々にな。紫苑の音とか。梨羽がぎりぎりになるごとに、ぶあつくなってる」
「守ってるんじゃないかな」
「だろうな」
「しっかし、あれ怖いわー。何であんなそっけない顔で、無茶苦茶な音出せるかね」
今日は投げなかったスティックをまわして渋い顔をする葉月さんに、聖樹さんは咲う。その笑みは、僕や悠紗、沙霧さんに向けるどの笑みとも違う。友達なんだなあと思う。
悠紗も僕の隣について、会話を邪魔していない。聖樹さんが要さんたちといて心をほどくのは、悠紗にも安心できることなのだろう。
紫苑さんがギターをあつかっていた楽屋に僕たちが帰ってまもなく、梨羽さんはひとり、すでにすすり泣きながら帰ってきた。ふらついて昨日と同じ隅に収まり、嗚咽をもらして閉じこもる。
僕の隣のスツールに腰かけていた聖樹さんが、三人の視線を受けて息をつき、梨羽さんのそばに行ってその肩に触れる。
「梨羽」
梨羽さんはびくんとわなないた。意外で驚いた。そんなふうに怯えるのは、昨日要さんたちになぐさめられたときにはなかった。
聖樹さんは、それが気に障ったふうはない。静かに梨羽さんの隣の椅子に腰を下ろすと、触れた手も離した。
「気持ちが落ち着いたら教えて」
梨羽さんは身動きし、ちらりと聖樹さんに濡れた目を向けた。聖樹さんは梨羽さんを見返した。
「今は彼女が生々しいでしょう。僕を利用できるようになったら言って。それまでここにいるよ」
梨羽さんは瞳をゆがめると、身を縮めて台に突っ伏した。聖樹さんは、要さんたちに肩をすくめる。「よし」と要さんはタオルを放って服を着た。葉月さんもそうして、紫苑さんもギターをしまった。
「じゃあそいつは頼んだ」と三人は楽屋を出ていく。昨日の段取りと照らし合わせると、片づけや明日の打ち合わせだろうか。
梨羽さん抜きでいいのかなあ、と首をかしげても、そこはそれで帰った部屋で共有するのだろう。あの三人には、ライヴの成功率より梨羽さんの精神力だ。
梨羽さんは声を殺して泣いていた。聖樹さんはときどき目を向けても、さすったりはしない。
いいのかな、と思った。『落ち着いたら教えて』と聖樹さんは言ったけれど、落ち着かせてもらわなくて梨羽さんが落ち着けるのか。
聖樹さんの言葉を反芻し、『彼女』というのも引っかかる。そういえば、昨日の要さんと葉月さんも、『あの子』と『あいつ』というのを出していた。梨羽さんの傷の関係者だろうか。
『子供だったから』とも言っていた。本当に、梨羽さんがひそませているものとは、何なのだろう。あの歌が昇華させているものを見れば、凄まじい傷を抱えているのではと思いそうになる。
悠紗が静かなのに気づいて振り返ると、いつのまにかテーブルに伏せって眠っていた。脱力した軆が不安定に椅子をずりおちかけていて、僕は悠紗を抱き上げる。悠紗はうめいて、億劫そうにまぶたを上げた。
「なにい」
「落っこちちゃうよ」
「えー、うー、だってえ」
僕は悠紗をそっと膝に乗せた。悠紗は僕の胸に頭を反らせ、あくびをする。居心地悪いかを尋ねると、「あったかい」と悠紗はあっさり眠りこんだ。僕は悠紗のお腹に手をまわし、緩く軆を固定する。
二十二時になろうとしていた。普段であれば、悠紗は寝ている時間帯だ。連夜で夜更かしするには、悠紗の軆は追いつけないのだろう。
月曜日には悠紗も僕も休まなきゃな、と黒髪に頬をあてた。悠紗の髪や肌には、幼い柔らかな甘い匂いがする。
聖樹さんと梨羽さんのほうを向くと、聖樹さんがこちらを眺めていた。僕と目が合うと、くすりとする。僕はまごつき、「変わりますか」と言った。聖樹さんはかぶりを振って、「萌梨くんが心地いいんだよ」と微笑んだ。そうなのかなと悠紗の伏せられた睫毛を見おろす。
聖樹さんは梨羽さんに向き直った。嗚咽の回数が抑えられてきていた。聖樹さんは梨羽さんの背中を撫で、心持ち身をかがめて、梨羽さんに何かささやく。梨羽さんはうなずいたり、かぶりを振ったりした。
それがうなずくほうが増えてくると、梨羽さんはのろのろと突っ伏すのをやめた。聖樹さんは、台に無造作に放られているティッシュで梨羽さんの涙をぬぐう。
「梨羽」
梨羽さんは聖樹さんに上目遣いをした。聖樹さんは微笑んだ。
「梨羽がそうやって泣いてくれるのは、僕じゃなくても大切なことなんだよ」
聖樹さんの物柔らかな瞳を、梨羽さんは怯えて見つめ返している。
「一番怖いのは、忘れられることなんだ。梨羽にはつらいかな」
梨羽さんは考え、首を横に振った。聖樹さんは微笑し、梨羽さんの肩を要さんとは異なった感じでとんとんとした。
梨羽さんは鼻をすすり、自分でティッシュを取って顔をくしゃくしゃに拭いた。子供っぽかった。梨羽さんにも、幼いまま止まってしまった自分が分裂して潜在しているのだろうか。
【第七十一章へ】