二日目、夜に
何やかやでライヴハウスをあとにしたのは二十三時、マンションに到着したのは一時に近かった。「体力つけます」とコンビニで買いこんだ食料と共に、四人は部屋に直行した。聖樹さんと僕、聖樹さんの背中で熟睡する悠紗も、半日ぶりに家に足を踏み入れた。
やっぱりここが一番落ち着くなあと床に座りこむ。聖樹さんは忍びなさそうに悠紗を半分目覚めさせると、着替えさせたりトイレに行かせたりする。寝ぼける悠紗は、帰宅後十分足らずで聖樹さんに抱えられて寝室に消える。
聖樹さんは数分もせずにリビングに戻ってきた。「疲れちゃったんですね」と心配する僕に、「大丈夫だよ」と聖樹さんは眼鏡を外す。
「明日もライヴ行く気なんでしょうか」
「だろうね。ほんとは六歳の子が紛れこむ場所ではないのかな。特にああいう音楽は」
咲って眼鏡を仕切りに置く聖樹さんに、「行っていいんですか」と訊く。「あの子が行きたければね」と聖樹さんは苦笑する。
「どこかに行きたいって言うなら、連れていってあげたいんだ。じゃなきゃ、他人を嫌がってここを離れようとしない。梨羽の声を先入観なく聴けるのも今のうちだしね」
「先入観、ですか」
「悠は、梨羽の歌詞を半分も分かってないと思うよ。よく知らない外国語の歌とか、何て言ってるか分からないぶん、歌い方に集中できるでしょ。あんな感じじゃないかな」
返事はしてみても、洋楽を真剣に聴いた経験がない僕はそう比喩されても分からなかった。真剣に耳をかたむけた音楽自体、XENONが初めてだ。
が、悠紗が歌詞を分かっていないというのは理解できた。まったく分かっていないというのはないにしろ、言葉というかたちのみ見た狂暴性は、悠紗は把握していないだろう。悠紗が聴いているのは、詩ではなく声だ。
聖樹さんは上着を脱いで、僕が脱いだものもハンガーにかけると、「何か食べようか」と言った。うなずいた。昼食を食べたきり口にしたのはお菓子で、空腹だった。キッチンに行った聖樹さんを、手伝いに追いかける。
「萌梨くんは大丈夫?」
「え、僕ですか」
「悠は慣れてるし。萌梨くん──あ、ああいうとこ行ってた?」
「いえ、初めてです」
「そう。耳、おかしくなってない?」
しゃがんで棚を開く聖樹さんに、「ちょっと」と正直に白状する。
「昨日はぐらぐらしてました」
「そっか。明日、つらそうだったら無理しないでね」
僕は素直にうなずいたけれど、行くだろうなと思った。歩きまわったりはしていないのだし、軆の疲労感はない。梨羽さんの歌を聴きたいのもある。
「梨羽さんたちの音楽って、すごいほうなんですよね」
「え、うん。梨羽たちの音がやわだったら怖いかも」
確かにと咲ってしまう。
「強烈なぶん、危なっかしくはあるよね。あ、うどんでいい? 重いかな」
「いえ、食べれます」
「じゃあ、お鍋出してくれる」
僕はシンクの下を開けて、鍋を選び取った。聖樹さんは腰を上げ、「昔はね」とうどんのふくろを裂く。
「ライヴハウスの売りこみからチケットさばくのまで、ほとんどの行程に僕も加わってたんだ。そのとき、一緒に出演するいろんなバンドも見た。梨羽たちみたいなバンドって、ほかにはいなかったよ。音楽はきつかったし、行動はしきたり無視して、思考は根っこがなくて。分かる?」
「……何となく」
「最近は梨羽たちに近い人たちもいるかもしれない。でも、あれは梨羽たちの特権だし、同じ姿勢じゃ追いつけないんじゃないかな。すごいのも変わりないと思う。梨羽の詩とか音とか、そういうの抜きにしても」
「みんな、すごいの自覚してないですよね」
「そこも大切なんじゃない。どうせプロにはかなわないって投げやりにやってるんで、逆に技術に溺れないというか」
なるほど、と納得しつつ、鍋に水を張って焜炉の火にかける。「一人前を分けようか」と提案されてうなずく。水がお湯に沸騰すると聖樹さんと僕は入れ替わり、聖樹さんはうどんを湯がいた。僕は食器棚からうつわを取り出すと、もうひとつの焜炉でつゆをこしらえた。できあがると、さっきのうつわに盛り、僕たちはリビングに移動する。
「悠紗とか僕より、梨羽さんは大丈夫なんでしょうか」
うどんをひと口食べて飲みこむと、消えない懸念をそう口にした。この質問には、聖樹さんもむずかしそうな顔をした。
「つらそうだったよね。あれがまだマシって、信じられないな」
「マシ」
「僕はここでしかライヴ見たことなくても、あの三人は梨羽のライヴは全部見届けて、もっとひどい状態を何度も見てきたんだ。総体的に見て、マシだって判断したらああやってわりと適当にしてる。マシなときに下手にかまって、耐えられるものにも耐えられなくなるのも避けてるんじゃないかな。いい加減も、分かってやってるんだよね」
「はあ」と僕はうどんをすする。マイクを通した、あの痛ましい悲鳴がよみがえる。別れ際の梨羽さんは、不安げに聖樹さんを見ていた。今頃は迷彩柄の中でクローゼットに閉じこもってるのだろう。それでもマシなのか。
「僕はあんな梨羽には冷静になれなくて。つい、何で平然とできるんだろって思ったりするよ」
「そう、ですか。聖樹さんといると、梨羽さんは落ち着くんですよね」
「え、ああ。僕というか、僕がされたことにね」
「されたこと、って」
「あのこと。勝手に言ったらまずいかな。まあ、梨羽は僕がそういうことされてたのに、落ち着いてると見るとほっとするんだ」
何でと訊きたくとも、聖樹さんのその説明が精一杯の譲歩だとも分かっていて、僕は本心には口をつぐむしかなかった。
「梨羽さんって、小さい頃に何かあったんですか」
「え、どうして」
「昨日要さんが、子供だったから仕方なかったって言ってたんです。ライヴのあとの、梨羽さんに」
「そっか。うん、梨羽──紫苑もだけど、子供のときに問題があったんだ。それを引きずってヘッドホンとかギターを離せなくて、別室送りになった」
「きついこと、だったんですよね。引きずるくらいの」
「………、紫苑はね。梨羽はどうだろ。ほかの三人より深刻になってるのは確かでも、切っかけは少しでも無神経だったら気にも留めないことかもしれない」
無神経、と反芻する。無神経だったら気にも留めない。無神経、は、別に何でも気に留めないのではないか。
何の思いあたりも浮かばず、分かんないなあと麺を箸にすくいあげる。「ごめんね」と聖樹さんはお茶につけた口を離した。
「え」
「こんな説明しかできなくて。どこまで話していいのか分からなくて」
「あ、いえ。僕もそこまであのふたりとは親しくないのに。ごめんなさい」
聖樹さんは咲い、箸にうどんを絡める。
「梨羽と紫苑は気になっちゃうよね。萌梨くんなら、あのふたりが自分で話すよ。昨日、梨羽に頼られて、紫苑にはギター預けられたんでしょ」
「あ、まあ」
「少しでも疑ってる相手には、あのふたりはそんなことしないよ。紫苑は許してない人がギターに触ったら殺意こめてくるし、梨羽は怖がって相手に近寄りもしない」
何でだろう、と思った。あの四人が僕を許してくれているのは分かっている。初めは聖樹さんが預かっている子というひいき目もあったろうが、無論あの四人の見る目はひいきを好意に変換させられるほど甘くはない。
あの四人は、きちんとした眼識で僕を認めてくれた。
「何か、分かんないです」
「え」
「みんなが、僕をそういうふうに思ってくれるの。僕、いても鬱陶しいだけですよ」
聖樹さんは微笑んで、「そんなことないよ」と柔らかく否定した。
「そう思う人がひとりもいないことはないと思うけど、少なくとも僕たちはそうじゃない。萌梨くんと話してると、楽しいよ」
楽しい。そうかな、と思っても、箸の先をうどんの中に沈めて素直にうなずいた。褒められたのなら、そうとして素直に受け取ろう──ここで学んだことだ。
梨羽さんの震えや、紫苑さんの“White Carnation”を想う。探るほど僕に関係のあることでもないし、ふたりが話していいと思っているのならそれを待とう。詮索しすぎて嫌われたら最悪だ。そう心をくくった僕は、眠気も覚え出しつつ、うどんを喉に通していった。
【第七十二章へ】